Episode , “Flower” 2

 早朝のバルテローの街はどことなく倦んでいた。

 広場では食糧の配給が行われ、毛織のコートを着込んだ女性や子供たちが木椀や籐籠を持って並んでいる。リユン=サイ将軍は街を守る要塞で辺境伯軍を食い止めたため、市街戦にはならなかったらしい。ただ、街から離れた森に住み、切った材木を売って暮らしていたひとびとは住む家を焼かれ、今はバルテローで仮暮らしをしていると聞く。軍人さんが頻繁に巡視する街は、独特の緊張感にとりつかれ、子どもたちは窓のうちからそっと子犬のような目をしてわたしたちの道行きを見つめる。


「ここが野外病院です」


 わたしたちを出迎えたバルテロー市長は、さっそく仮設病院となっている教会へ案内してくれた。以前は要塞内に設置されていた野外病院は、戦の終結とともに街の教会へ移され、今はバルテローの小さな病院では受け入れきれない負傷兵の治療にあたっている。

 わたしたちはあてがわれた部屋で荷を解くと、エプロンドレスに着替え、病院の設営をしている大礼拝堂に向かう。

 厚い木製の扉を開いたとたん、嗅ぎ慣れた血と消毒液のにおい、加えて汗や腐臭の混じった異臭が押し寄せた。中のベンチを取り払い、代わりに寝台を並べた礼拝堂にはたくさんの患者さんが横たわり、低い呻き声を上げている。わたしたちはそれぞれ年嵩の看護婦さんのもとについて、検温のかたわら、患者さんひとりひとりの名前や負傷の程度を教えられた。


「サイさん、ですね。あなたはこれを頭に巻きなさい」


 中でもユリィさんという、年長に見える看護婦さんはわたしの姿をひと目見るや微かに眉をひそめ、手巾を差し出した。周りを見回してもその指示を受けているのはわたししかいない。にわかに困惑したものの、ユリィさんの厳しい横顔はそれ以上の質問を拒むようで、わたしはおぼつかない手つきで手渡された手巾を巻いた。

 その日は皆で夕食を取り、明日わたしたちと入れ代わりで帰還する看護婦さんたちとみじかな談笑をした。生来人見知り癖のあるわたしはこういった場が未だに少し苦手だ。ゆえに、早々に食べ終えたお皿をひとり洗い場へ運んでいると、「サイさん」と次いでやってきたユリィさんがわたしを呼び止めた。

 どことなく聖メイティルの院長先生を想起させるユリィさんに萎縮しながら、わたしは「はい」と小さく返事をする。


「少し時間はあるかしら」

「当番には当たってないので……平気です」

「じゃあ、ついてきなさい」


 行き先を告げられぬまま半ば強引に食堂を連れ出される。向かった先はどうやらユリィさんの自室であるようだった。


「どうぞ入って」


 戸惑うわたしを促し、ユリィさんはひと目をはばかってか、すぐに扉を閉じた。勧められた席に浅く腰を落ち着けると、火鉢の埋み火で温められていた薬缶からポットに湯が注がれ、淹れ立ての紅茶を前に置かれる。緊張から一口啜るにとどめたわたしに、「サイさんあなた」とユリィさんは吐息ひとつぶんためらってから口を開いた。


「エディルフォーレ人ね?」


 とっさに尋ねられたことの意味がつかめず、わたしは瞬きをした。それを肯定と受け取ったらしい。


「どうしてよりにもよってエディルフォーレ人を寄越したのだか……」


 ユリィさんは皺の刻まれた眉間を揉んで、あらかじめ用意していたらしい紙袋を机に置いた。


「その灰色の髪は染めなさい。ここはエスペリアの軍人が多い」


 ユリィさんの物言いはそっけなく、無知なわたしは想像を強いられる。何故、髪を染めなくてはならないのだろう。手元に視線を落とし、わたしは紙袋に無造作に入れられた黒の染料と刷毛とを見つめた。

 エディルフォーレ人。十歳でエディルフォーレを出てしまったわたしがそれを深く自覚したことはなかったが、確かにわたしはかの地で生まれた、おそらくはエディルフォーレ人を親に持つ、まごうことなきエディルフォーレ人だ。戦災孤児であり、物心つく頃には御主人様のお屋敷で働いていたわたしは両親の顔を知らないけれど、灰かぶり色の髪と翠の目、エスペリア人に比べると小柄な体躯はエディルフォーレの典型的な特徴を継いでいる。

 だが、一方でわたしはリユン=サイの養女となって久しい。この銀獅子王の治める国はわたしにとってすでに愛する故郷といってよかった。


「外ではエディルフォーレ人を倦む風潮があるわ」


 知らず息をひそめてしまったわたしに、ユリィさんは諭す。


「ここのひとたちだって今まで戦っていた国の髪色と目を見たら、心が騒ぐ。だからサイさん。ここで働く気ならわかって欲しいの」


 ユリィさんの言っていることは厳しかったが、道理でもある。エスペリアとエディルフォーレは長く敵対関係にあり、わたしがリユンに出会ったのももとはといえば、彼がエディルフォーレの俘虜となったことがきっかけだ。

 ユリィさんの話では、患者さんの多くは半年前までエディルフォーレの辺境伯軍と戦っていた兵士たちなのだという。きっとエディルフォーレ人に仲間を奪われたひともいれば、身体を傷つけられたひとだってたくさんいるにちがいない。

 短いためらいののち、わたしは小さく顎を引いた。

 

 しかれども、そのとき決めたと思っていた覚悟はまだ仮初のものであったのかもしれない。自室に戻り、ユリィさんにもらった染料を溶いて、いざ刷毛に浸す段になると、わたしの脆弱な心はひるんだ。

 エスペリアのひとびとの艶やかな黒髪に比すれば、地味な灰かぶり色のわたしの髪。特別気に入っていたわけではないが、それを失ってしまうことはわたしの魂の柔らかな部分を深く傷つける行為の気がしてならなかった。宙に浮かせていた刷毛から膨らんだ染料がぽたりと床に落ちるに至り、わたしは茫洋としていた焦点を戻す。毛先に重く水気を含んでしまった刷毛を、一度染料を溶いた椀に戻した。

 断ち切らねばならないと思った。わたしの弱さ、未熟さ、迷いといったもの。

 わたしはおもむろに、まだ半分荷を解いただけの鞄から鋏を取り出した。銀色の刃が窓から差し込む月光に鈍く光る。意を決すると、わたしは鋏を深く髪に差し入れた。鋭利な音とともに、わたしの灰かぶり色の髪房が儚く舞って足元に落ちる。わたしはためらわなかった。

 長い髪を、わたしはずっと愛していた。

 取るに足らない理由である。エスペリアにやってきて間もない初めての夏、額と首筋にじんわり汗をかいて掃除をしていたわたしを長椅子で本を読んでいたリユンが見咎めて、あのきれいな指先で小さなお下げを結ってくれた。姉妹の多いあのひとはそういったことがとても得意だった。

 白い窓辺に置かれた、ライラック色の長椅子。休日の彼は決まってそこで本を読み、わたしを膝の上に抱き上げると小さなお下げを結ってくれる。ひと編みひと編み、髪が伸びるにしたがい、長くなってゆくお下げを、それを作ってくれる男のひとの指先を見ているのがわたしはすきだった。共有する言葉などなくとも、彼とおしゃべりできているような、そんな気持ちがしたから。――けれど、今は。

 わたしは喉を震わせそうになる嗚咽を奥歯を噛んで耐える。このような些事で、わたしの何をも傷つけられるはずがなかった。わたしは、傷ついていない。傷つけられてなど、いない。そうしてうなじにかかるくらいの長さに髪を切り揃えると、染料を浸した刷毛を髪に滑らせていく。

 半時間後には、短い黒髪に翠の眸をした一見エディルフォーレ人とはわからぬ娘ができあがった。足元に散った灰かぶり色の髪房を塵取りで集め、屑籠に捨てる。涙は流さなかった。


 けれど、噂というものはたった一日にして瞬く間に広まってしまうらしい。

 翌朝、わたしが今度はユリィさんに付き添われずひとりで検温を行おうとすると、兵士さんの幾人かは別の看護婦を所望し、他の兵士さんもわたしとは決して目を合わせようとしない。シオンたちとは冗談を言い合っている兵士さんもわたしがやってくると、気まずそうに目をそらし、口を閉ざした。

 エディルフォーレ人であるわたしは、疲弊した彼らの心に拒絶の対象として映るのだと知った。面と向かって罵られることはなかったものの、彼らがわたしを見る目には時に露骨な嫌悪が宿り、理性で隠した眸の奥にすら淡い拒絶が透けて見えた。

 ささいなことだ、とわたしは努めて思うようにした。

 兵士さんに別の看護婦を所望されるたび、かけた言葉を無視されるたび、繰り返しささいなことだと。かつて、国立学校に入学したての頃もエディルフォーレ人であるわたしは級友に避けられ、いじめられたことがあった。聖メイティルの友人たちは異国人で落ちこぼれのわたしをすぐに受け入れてくれたけれど、わたしが灰かぶりの髪と翠の眸を持つ限り、こんなことはきっとこれからもどこでだって起こることにちがいない。気付けば伏せがちになる目を努めて兵士さんたちに合わせ、わたしは彼らの名を呼び、声をかけ続けた。返事の返らない会話を続けることはとてもつらい。目をそらすひとに笑いかけるのは心が潰れる思いがする。

 けれど、わたしは立ち向かわねばならなかった。かつて一度だけ訪ねてきてくれたリユンに誓った。まだがんばれる。まだあきらめない。この辛く険しい道を愛すると決めたから、わたしは立ち向かわねばならなかった。

 それに、どんなに固く閉じ入った心であってもいつしか溶ける日が来る、そのことをわたしは知っている。クラスメートたち、エスペリアのひとびとがわたしに教えてくれた。言葉も通じぬ異郷の地で固い殻に閉じこもろうとするわたしへいつも手を伸ばしてくれたのはわたしのだいすきなひとびとであったから。きっと今度はわたしが勇気を出して踏み出す番なのだと思った。


 *


 軒に厚くぶら下がる氷柱越しに落日を見つめ、わたしは凍てつき立てつけの悪くなった鎧戸を苦心して閉めた。今日のわたしは夜番にはつかず、夕食を取ったあとは休んでしまってよいことになっている。寝支度を整えたあと、薄い毛布一枚をかけて寝台に横たわるとき、わたしの身体は泥濘のごとく困憊しているのに、どうしてもうまく寝付くことができない。

 眠らなければと目を瞑るのだけども、そうすればするほど意識は冴えて、眠ることができなくなってしまうのだ。

 この日もやはり毛布の中で無為に過ごしたわたしはほとりと息をつくと、ネグリジェに厚手のガウンを羽織って、外に出た。わたしたちが使う共有のキッチンは一階にある。聖メイティルから持ってきた茶葉を出すと、水を汲み、残っていた炭火を使って火を熾す。

 火にかけた薬缶を待つ間、わたしは小さな木製の丸椅子に座り、ごうごうと鎧戸の向こうで唸る雪嵐の音に耳を傾けた。こうしていると、御主人様のお屋敷にいた頃の小さなわたしに戻ってしまったかのようで、わたしは抱えた両膝を引き寄せ、そこに顔をうずめた。

 リユンにあいたい、と不意に思う。たとえば、朝の弱いあのひとに爽やかなミントティーを淹れて、卵と挽肉とレモンバームのオムレツを用意して、焼きあがったばかりのパンにはバターと木苺のジャムを塗る。名を、呼ばれたい。あのきれいな、本を繰るのが似合う指先に指を絡められたら。


「ブランカ?」


 膝を抱えたまままどろんでしまっていたわたしは、背中にかかった声に睫毛を震わせた。見れば、沸騰しかけた薬缶は下ろされ、布をかぶせたポットからはラベンダーの優しい香がくゆる。シオンだった。


「眠れないの?」


 やんわり尋ね、シオンは淹れ立てのラベンダー・ティーをわたしに持たせてくれる。


「……すこし」

「つらい?」


 考えた末、わたしは眉間を寄せて首を振った。わたしの眉間に刻まれた縦皺を苦笑交じりに押して、「ブランカの頑固は変わんないなぁ」とシオンが嘯く。


「サイ将軍には会いにゆかないの?」

「……ゆかないよ」


 最果ての街バルテローの軍事司令であり、この仮設病院の肩書上は「院長」でもあるリユン=サイ将軍は、けれど未だわたしたちの前に姿を現すことはなく、駐屯地の一角で執務を行っている。


「何故? 頭の固い軍人さんだって、将軍の娘さんならきっと通してくれるよ」

「〝お養父さん〟とは王都でもう、さよならしたのよ」


 彼に会いに行く日があるとすればそれは、わたしがわたしの為すべきお仕事を終えたあとだ。わたしが膝をぎゅっと抱えて言い張れば、ほらやっぱりブランカは頑固だ、とわたしの秘めた恋心を知っているシオンはおかしそうに笑う。わたしは口をつぐんで、シオンが淹れてくれたラベンダー・ティーをおとなしく啜った。安眠作用のあるという花の香はふんわりわたしを包み込む。


「あのさ、ブランカ」


 お茶に口をつけていたわたしに向き直り、シオンはふと、とっておきの内緒話をするように人差し指をあてがった。


「私ね、一度だけブランカのお養父さんを見たことがある」

「リユンを?」

「うん。一年前、ブランカが倒れて入院してしまったとき、病院で見たの。寝台のかたわらに頬杖をついて、眠るブランカの髪を梳いているおとこのひと。窓辺から差し込む蒼色の月光がふたつの影をかたどって、一幅の絵画みたいにきれいだった。ブランカ、あのひとはね――……おとこのひとだった。盗み見する私を咎めて、微笑ひとつで扉を閉めてしまった、あのひとはおとこのひとだった」


 くすりとシオンは微笑い、おとうさんはあんな顔しないよ、とわたしにささめいた。

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