Episode , “Flower” 1

 最果ての街、バルテロー。

 汽車から降りると、息が凍てるくらいの冷気がわたしを包んだ。

 エスペリア最果ての街バルテローは、今は銀灰色の雪に眠るかのようだ。わたしは後れ毛のかかるうなじに白い毛織のマフラーを巻きつけると、肩掛け鞄から取り出した切符を駅員さんに渡した。わたしの細い身の丈には余るトランクには、ニナが持たせてくれた固めに焼いたパン、わずかばかりの銅貨と生活に必要な品、そして聖メイティル付属看護学校の卒業証書と看護帽が入っている。トランクを引き、ひとのまばらなプラットホームを歩いていると、かつて王都のセント・トワレ駅で泣きながら養父と別れた自分が思い出された。十五歳のブランカ、恋を告げられなかったわたし。

 こぼれた吐息が儚くたなびき、わたしは吹き付ける雪混じりの風に屈しないよう顎を空へと上げてみせる。

 北果てにひとつ、動かぬ星を見つけた。その星の瞬きに似た、宝物のような三音をわたしは口ずさむ。暗がりの中で、互いの呼気をたどりながら与えられた三つの音。

 その三音から、御伽噺のようにはじまった。

 ブランカ。これはわたしの物語。


 *


 わたしの十八歳の誕生日は、血と警邏の笛音と消毒液のにおいの中で過ぎた。

 エスペリアにおいて、十八歳は女性の成人年齢にあたる。大人になったお祝いにシオンとサリューシャは、芽吹き始めた野草とビーズで花冠を作り、それをわたしの頭に載せてくれた。固い黒パンに蝋燭を立てた〝バースデーケーキ〟。橙色の火影が揺れる鎧戸の向こうでは、夜中にもかかわらず警邏の笛が微かに響き、院内には誰彼となく不安のため息が落ちる。

 ナグー平原に面するバルテローでの戦乱。それは今からちょうど半年前、わたしが聖メイティル看護学校の最終学年を迎えた年の晩夏に起きた。五年前のシンミア=エスペリアの反乱は、加担したバルテロー領主が城門を開けたことでいったんの終結をみたものの、エディルフォーレとの国境にあたるこの要塞では広大な森の資源をめぐって争いが絶えず、半年前、辺境伯がエスペリアの森深くを侵攻したことに端を発して再び激化した。

 聖メイティルに野外病院設営のための医師の派遣要請があったのは、それからすぐのことだ。当時看護学校の最終学年に上がったばかりだったわたしは、ヘルバ先生をはじめとした選りすぐりの医師たちが看護婦を連れて聖メイティルを旅立つのを病院から見送った。

 輸送手段の途絶える冬を前に戦は激しさを増し、医師や看護婦もまた、次々に召集されてゆく。バルテローから西に離れたハイネスの小さな街へ戦の火の手が回ることはまだなかったけれど、新聞で連日伝えられる戦況や戦死者の名はわたしたちの気持ちを暗く翳らせ、先生たちの減った病院では子どもたちがくすんくすんとすすり泣いた。街では夜ごとに警邏の笛が鳴る。ひとびとは荒れていた。


 先生の少なくなった病院を守るのはわたしたち看護学生の役割だった。こと年長生であるわたしたちは後輩を率いて、炊き出しに洗濯、患者さんのお世話にと奔走する。そのわずかな合間を使い、わたしは破れてしまったワンピースの端切れを縫って、セーム曹長の恋人を作ってあげた。それに、恋する牡馬のメーヨー。メーヨーのお相手の美人さんの雌馬も忘れない。

 生まれた人形を連れて子どもたちを集め、わたしはシオンやサリューシャと病院の広場で〝聖メイティル座〟を開いた。シオンが筋書きを作り、サリューシャはクレヨンで背景となる絵を描く。舞台は廃材を鋸で切り、やすりで磨いて皆で作った。

 生来内気なわたしは人前で喋ることが得意ではなかったけれど、セーム曹長の口を借りると、不思議と饒舌に、ユーモアたっぷりに子どもたちを笑わせることができる。はじめは、日を決めずに行っていた〝聖メイティル座〟は次第に週に一度になり、ついには連日の上演になって子どもたちを賑わせ、院長先生にあなたたちは看護学生ではなくて女優が本業のようね、と苦笑されるほどだった。


 早朝。まだ星がきらめく空の下、わたしは起き出すとコートにマフラーを巻いて、聖メイティルの裏門へ向かう。季節は春になったばかりで、夜明け方はまだとても冷えたけれど、わたしにはどうしてもそうせねばならない理由があった。

 夜通し降った雪で白く凍った道ゆきを見据え、手に息を吹きかけながら「彼」を待つ。


「ブランカ」


 やがて道先に小さな人影が現れ、新聞を肩掛け鞄に入れた少年がわたしを見つけて手を振った。


「おはよう、今日も待ってたの」

「うん。おはよう、ランス。さむいね」


 声をかけあい、わたしは銅貨一枚とコートの中に入れて温めておいたココアとビスケットを出して、この小さな新聞売りさんにふるまう。彼が少しぬるまったココアを舐める間、受け取った新聞を開いてバルテローの戦況と戦死者の欄を確認するのは朝のわたしの日課だった。


「将軍は無敵だから大丈夫だよ」


 最後まで目を通し終えて、ようやく詰めていた息を吐いたわたしに、ランス少年が胸を張る。リユン=サイ将軍の名はこの西果ての小さな街でも有名で、秋の間王都から動かなかった彼がバルテローに兵を率いて旅立ったとき、エスペリアの国民は歓喜し、祈りの花を道々彼の隊に降らせたと聞く。

 親愛なるブランカヘ――。

 いつものくだりで始まった彼からの手紙は、わたしの体調を気遣う旨や学校生活の話に触れたあと、「久しぶりにメーヨーに会いに行ってきます」という簡素な一言で締めくくられていた。


『メーヨーは凶暴な馬なので、気をつけてください』


 わたしは端切れを縫い合わせて作った小さなお守り袋に、かつてリーアからもらった胡桃のお守りを入れて手紙と一緒に彼に送った。

 本当は、そんな場所に行かないで、と引き止めたくて仕方がなかった。

 彼は軍人さんで、わたしは従軍看護婦の道を選んだというのに、やっぱりリユンが戦場に行くのはたまらなく恐ろしいのだ。

 リユンとはそのあとも何度か手紙を交わしたけれど、次第にバルテローからの配達物は届きにくくなっていく。


『来年は看護学校を卒業する年ですね』

『キミの十八歳の誕生日には贈り物を持って会いにゆくよ』


 そんなささやかな約束で結ばれたきり、音信は完全に途絶えた。

 不安の中で迎えた十八歳の誕生日、わたしのもとに贈り物が届くこともなければ、待ちわびた軍人さんが訪ねてくることもなかった。

 ――うそつき。

 誕生日の晩、それでも零時の鐘が鳴るまで待って、ついに望みを断たれたわたしは寝台に臥せり、セーム曹長に顔をうずめた。

 うそつき。リユンの、うそつき。

 こぼれそうになった嗚咽を必死に飲み下し、わたしはここにはいないひとを悲しく責め立てる。大人になったわたしをいちばん祝って欲しかったひとからは、結局文一通届くことはなかった。



 新聞売りさんから受け取った配達物を抱えて、わたしは寄宿舎に戻る。その頃にはシオンやサリューシャたちも起き出していて、固めの黒パンに塩スープの簡素な朝食を用意しているところだった。配達物を友人たちに配り、わたしがマフラーを解いていると、手紙をペーパーナイフで開いていたサリューシャが小さな歓声を上げた。


「トリアノ病院に決まったわ」


 周囲の級友たちがわぁと手を叩く。

 バルテローでの戦は続いているものの、わたしたちは看護学校の最終学年の身の上であり、野外病院への召集を待つかたわら、卒業後に勤務する病院の試験を受けていた。最初に決まったのは、首席のシオン。他の学生たちも次々に勤務先が決まり、残っていたサリューシャもトリアノ病院に決まったらしい。歓声に沸く級友たちを遠巻きに見つめるわたしの肩をそっとシオンが叩く。ついに同級で勤務先が決まっていないのはわたしだけになってしまった。

 あわや王都に送り返されかけた十七歳のあの時分から変わることなく、わたしは聖メイティルの劣等生であり続けた。学科の試験はなんとか優良に持ち直したけれど、先生の前での実習では緊張と焦燥から失敗ばかりしてしまう。学期末ごとの成績はわたしを始終悩ませ、解決の糸口も満足に見出せぬまま、わたしはもうすぐこの学校を去る。

 卒業後の就職先としてわたしが希望したのは、王都のサン=トワ通りにある軍付属病院だった。国でも随一の病院であり、ひとたび戦乱が生じれば、真っ先に戦地に召集される。無謀でありながら、それでも捨てきれぬ希望を胸にわたしは昨年の夏に一度面接を受け、落ちた。聖メイティルにやってきた院長先生の目に留まったのは、わたしではなく優秀なシオンだったのだ。他の病院を勧める先生や友人たちに頑なに首を振り、わたしは未だにサン=トワ病院に勤めることを希望している。

 従軍看護婦として、いちばんの病院で働く。それが愛する養父を振り切って王都から旅立ったとき、わたしが自分に約束したことだったから。まだ、諦めたくない。 

 

 わたしたちに野外病院への召集がかかったのは、それから少し季節が進み、ハイネスの街に本格的な夏が訪れ、とりどりの花が庭木や街路樹を華やがせた頃。冬の間、貨物の輸送が満足にできず半ば停戦状態となったバルテロー近郊に、初春突如としてエスペリアの国王軍が大挙し、鮮やかに辺境伯軍を追い払ったその後である。

 国王軍の司令はリユン=サイ将軍。秋から冬にかけての間、向かってくる辺境伯軍を追い返す消極的な防戦のみで沈黙を守っていたこの若き司令は、極寒に耐えうるだけの線路と汽車とを準備し、その補給路をもって辺境伯を制した。彼は最後まで、わたしたち未熟な看護学生や軍学校生が戦地に駆り出される事態を避けた。

 こうしてわたしたちは終戦後のバルテローに、それまで勤務していた看護婦さんたちと交代するかたちで派遣されることになった。とはいえ、召集後すぐにバルテローに赴くことはできず、汽車の切符が手渡される頃には、季節はすっかり短い夏から初雪の舞う頃に移ろいでいた。


 病院を発つ前日、院長先生はわたしたちを集め、遅くなってしまった卒業証書の授与と卒業式を執り行った。深緑の聖メイティルの制服に身を包んだわたしたちに、院長先生は証書を渡し、看護帽を授ける。戴帽式だ。わたしは緊張に息を詰めながら、院長先生に呼ばれるのを待った。


「ブランカ=サイさん」


 厳かな声に名を呼ばわれ、わたしは一歩前に進み出た。明かりを落とした礼拝堂には蝋燭の火だけが灯され、中央の祭壇には病の平癒を司る聖メイティルの像が置かれている。


「〝私はここに集いたる人々の前で厳かに神に誓わん〟」


 定まった宣詞を述べ、跪いたわたしへ、先生は純白の看護帽を授けた。軽やかでありながらも両肩にのしかかるかのようなその重みに、とたんにわたしの四肢は震え出しそうになる。先生に聞きたかった。わたしはこの帽子の重みに足るだけの看護婦になれますかと。

 かつて夜ごとに嘔吐を繰り返し、泣き喘いでいたわたし。今ではそういうことは減ったけれど、わたしの手は小さく、頼りなく、すくいとることのできる命はずっと限られている。患者さんを容赦なく連れさってゆく死の嵐は今もなお恐ろしい。わたしのうちには未だ無力で卑小な少女の魂が住んでいて、この聖メイティルでの過酷な日々を経ても、夜ごと不安で泣き出しもし、葛藤と懊悩に悲鳴を上げる。


「サイさん」


 先生に呼ばれ、わたしはいつの間にか伏せがちになっていた顔を上げた。院長先生の厳しい双眸が、まるでわたしの胸のうちを見通したように眇められる。


「励み続けなさい」


 ただそれだけを先生は言った。そうして手渡されたこの三年の終わりを告げる証書をわたしは奥歯を噛み締めて受け取る。



 その夜は後輩たちが手料理をふるまい、わたしたちの送別会を催してくれた。ヘルバ先生から差し入れされたシャンパンに沸く友人たちと少しの間談笑をしてから、わたしは談話室を抜け出し、寄宿舎の裏にある厩舎へと向かった。厩舎の鍵を回し、エレン、リィン、と呼べば、優しい目をした親子が顔をのぞかせてくれる。老いて少し痩せたリィンの身体を労わるように干し藁をかけて、それからもうすっかり立派な牝牛になったエレンに頬ずりをする。

 ――エレン、たくさん可愛い赤ちゃんを産んでね。リィン、やさしいリィン。どうか長生きをして。

 居場所を失くし、よく目を赤く腫らして泣いていたわたしを見守ってくれた子たち。


「だいすきよ」


 わたしはエレンとリィンの首を抱き締めてお別れのキスをし、扉を閉めた。

 その足で孤児院に向かい、駆けつけてきた子どもたちに〝聖メイティル座〟の人形を渡す。好評を博した〝聖メイティル座〟は、わたしたちが去ったあとは彼らが引き継いでくれるのだという。わたしは新しい座長さんに就任した少女を見つけて、ニナ、と微笑んだ。

 ニナとは夜中ベッドの上で語り合った。この一年の間にニナはすっかりおしゃべりが上手な女の子になってしまっていて、語ることはいつまでも尽きない。やがて朝の光が鎧戸の隙間から細く射すに至り、くすんとしゃくり上げた少女を抱き締め、わたしは最後まで取っておいたセーム曹長をニナの膝上に置いた。


「ニナ。聞いてくれる?」


 目を瞠らせるニナに微笑み、わたしは説明をする。


「このひとはね、セーム曹長といって、わたしのだいすきなひとのおともだちだったひとなの。落ちこぼれの悪戯好き。尖った鼻が特徴で、真面目くさった口調で冗談ばかりを言う。そして娘さんのリトル・セームをとてもあいしてた」


 ――大事にしてくれる?

 尋ねたわたしに、ニナはこくんと首を振って、小指を差し出した。わたしよりもずっと小さなニナは、けれどたくましく、強靭な魂を持っている。指を絡めて笑い合い、指きりげんまんの約束をする。セーム曹長の釦の眸は、リユンから託されたときと変わらぬ愛嬌を湛えて、静かにわたしたちを見守っていた。

 

 バルテロー行きの汽車はハイネス駅を朝出発する。

 トランクを引いて駅に向かうわたしたちを慣れ親しんだ街のひとびとは温かな声援で送り出してくれた。季節は秋の終わりであったけれど、街道沿いの家々から降り舞う紙で作った花のおかげでわたしたちの歩く道は薄紅色に染まり、まるで春爛漫のようだった。何度かの入退院を繰り返しているイワンおじさんは、出発前わたしの肩掛け鞄に糖蜜タフィを両手に抱えきれないくらい詰め込んでくれた。


「ブランカ! いってらっしゃい!」

「元気でね! がんばって!」


 懸命に手を振ってくれる子どもたちへわたしは手を振り返す。


「ブランカ」


 しばらく歩き、ハイネスの古びた駅舎が見えてきた頃、隣を歩いていたサリューシャがふと何かに気付いた様子でわたしの肩をつついた。


「若い軍人さんがいるよ」


 驚いて目をやった先では、帽子を目深にかぶった青年がむっつりと人ごみにまぎれるようにしてたたずんでいた。遠目だったけれど、すぐにわかる。この一年ほど、ずっと会えずにいたわたしの友人だ。


「ゼノン」


 呟いたわたしの声が届いたのだろうか。青年は帽子のひさしをわずかに上げると、わたしを見つめて、口だけを動かした。

 ――がんばれ、ブランカ。

 思わず立ち止まって、わたしは立派な軍人さんになってしまった青年に、ゼノンも、と言おうとする。言おうとして、されど言葉にならず、こくんと幼子のように首だけを何度も振った。

 気まずさからもうずっと会えていなかった友人。彼が最後にこの場所へ駆けつけてくれたことがうれしかった。こぼれそうになった涙をこらえて少し微笑うと、軍人さんは帽子を目深にかぶり直してわたしを見送った。帽子の下の双眸が弓なりに細まっていたことを、わたしは知っている。

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