Episode , “Letters” 4 

 長い時間ゴミの集積所にいたニナは、すっかり凍えてしまっていた。

 ニナを見つけたわたしはすぐに彼女の小さな身体に怪我がないかを確認した。幸いにも、肘のあたりに微かな擦り傷がある以外は目立った外傷も、捻挫や骨折のたぐいもない。ほっと胸を撫でおろし、わたしはニナの身体を自分のコートやマフラーで幾重にもくるんだ。泣き喘ぐ少女の背をさすって、だいじょうぶよ、もうだいじょうぶだからねニナ、と何度も言って聞かせる。

 ニナはどうやら、集積所に迷い込んだ際車椅子から転げ落ち、そのまま動けなくなってしまったらしい。わたしの不在に気付いたシオンのおかげで、わたしたちはすぐに先生たちに見つけてもらえたのだけども。ニナはどういうわけか、その場から動こうとしない。


「ニナ」


 引き立たせようとするとむずがり、ニナはわたしの腕に噛みついた。引きはがそうとした手を払い、胸をどんどんと叩き、髪をむしる。激しい恐慌がニナの身体を支配していた。


「ニナ、やめなさい!」


 先生たちが止めようとするものの、ニナはぶんぶんと首を振って、わたしから離れようとしない。そのときのニナの恐れや怯えが、わたしには痛いほどにわかった。

 そう、ニナはこわいのだ、自分を取り巻く周囲のすべてが。

 かつてエスペリアに連れて来られたばかりのわたしもそうだった。知らない言葉で喋る大人たち。彼らの言っていることがわたしには何ひとつ理解できず、その恐怖を誰かに訴えることすらできない。怖くて、不安でたまらなかった。たぶん、ニナも同じ。怖くて、不安でたまらないから、手当たり次第に牙を剥こうとするのだ。

 わたしはニナの恐れごとニナを抱き締めてやりたかった。こんな暗闇でひとりぼっちにされるのは怖かっただろう。おなかだってすいていたに違いない。きっと寒かった。心細かった。早く迎えに来てほしかった!

 ――だいじょうぶよ、ニナ。わたしがいる。もうさみしくない。わたしがいる。

 ぎゅっと小さな頭を抱えて繰り返していると、腕に噛み付いたままニナはくすんくすんと泣き出した。


「ぶあんかあ……」


 かすれた声が耳に触れる。身じろぎした弾みに、ニナがずっと握り締めていたこぶしから、ぽろりとセーム曹長のちぎれた腕が落ちた。少し汚れたそれを見つめて、わたしはニナがひとり集積所に忍びこみ何を探していたのかを知った。



 そのあとのわたしの記憶は、ニナを孤児院に連れ帰って寝かしつけたところで途切れている。シオンが言うには、眠りについたニナの寝台にうつぶせるようにしてまた「気絶」していたのだという。今回はそれに飽きたらず、高熱も一緒に出した。

 結果として、わたしは病院の寝台に縛り付けられ、ヘルバ先生からまずは落ちてしまったぶんの体力をつけ直せと朝昼夕きっちり食事を摂らされることになった。

 不摂生が祟ったのか、熱はなかなか引いてくれなかった。

 それでも少し体調がよくなってくると、級友や患者さんたちがひっきりなしに「お見舞い」と称した雑談に訪れ、わたしの病室は瞬く間に造花や手縫いのぬいぐるみ、子どもたちの持ち込んだ玩具、大人たちの持ち込んだ本やボードゲーム、級友たちのお菓子でいっぱいになった。わたしが眠っている間、数多のお見舞い品たちに紛れ込ませるようにして、イワンおじさんがわたしの好きな糖蜜タフィを置いてゆくのも知っている。今度お礼を言おう、と思いながら、わたしは目を閉じた。


 数日が過ぎた。朝になるとわずかばかり引いて楽になる熱は、夜になると再び上がりわたしをひどくうなした。熱い泥濘に引き込まれる錯覚に陥り、弱々しくもがいていると、ふと口を開かされ、何かを注ぎ込まれた。舌が痺れるような苦さに吐き出そうとすれば、代わりに甘い糖蜜を舐めさせられる。それに助けられてなんとか嚥下しきった。ゆるく息をついたわたしの唇のふちをひんやりした指先がなぞる。少しずつおさまってゆく呼吸にあわせるかのように、短い夢を見た。

 夢の中でわたしは何故か、集積所でうずくまるニナの姿になっていて、泣き喘ぐわたしを見つけ出すのはわたしではなくリユンなのだった。だいじょうぶ。もうさみしくない。さみしくないよ、ブランカ。わたしの小さな身体を抱き締めて、彼が繰り返し囁く。あたたかな彼の温もりに包まれて、かつてわたしは声を上げて泣いたのだ。


 ふわりと睫毛を震わせると、額にかかった髪を梳く手が見えた。認めた面影に瞬きをし、わたしは驚きのあまり声を上げそうになる。しー、とわたしの枕元に腕をついたそのひとは、甘い苦笑とともに人差し指をわたしの唇に押し当てる。


「りゆん」


 そっと宝物に触れるように声をひそめて囁くと、懐かしいくるおしさが胸に溢れた。部屋に明かりはなく、ただ窓から射し込む蒼い月光だけが寝台を仄かに照らしている。青い翳りにふちどられ、わたしの焦がれたひとはそこにいた。

 ――どうして? 信じられず、問うたわたしに、さぁどうしてでしょう、と彼が同じように声をひそめて囁き返す。


(びっくりした、ブランカ?)

(うん、とても)

(あいにきたんだよ、キミに)

(……ほんとう?)

(ほんとう)


 髪を梳いていた手が滑って、頬に手の甲を触れさせる。仔猫が戯れるかのようなその所作に、わたしはくすぐったくなって目を細める。


「ブランカ」


 ふと真顔に戻って、彼が尋ねる。


「毎日は、たのしい?」


 彼の手の甲が触れているのが、ちょうどニナに引っかかれたあたりの傷なのだと遅れて気付く。ニナとしばしば格闘してきたわたしは生傷が絶えず、長い不摂生のせいで、肌色だってよくないにちがいない。腕には新しい包帯が巻かれ、ニナに噛まれたあたりは肌が変色している。この二年のうちに、わたしは痩せた。もとより丸みのない貧相な身体だったけれど、さらに悪化してしまった。リユンから見たわたしはきっと、顔色の悪い不幸な少女に成長したに違いない。

 事実。ここでの生活は決して楽しくなどなかった。歓びを期待して旅立ったわけではないけれど、考えていたよりもずっと過酷で苦しかった。はじめての死。そのあとも、「嵐」は絶え間なくやってきた。心を通い合わせたひとを見送るときは胸を引き裂くような痛みに襲われ、心を繋げられないまま逝ったひとを見送るときは同じ場所にぽっかり穴が空くようだった。

 馬車に轢かれたおばあさん。頭を半分潰して痛みにのたうち回るおばあさんを先生たちが注射を打って死なせてあげた。嗚咽が止まらなかった。わたしもいつかそうしなければならないのかと思うと、怖くて夜も眠れなかった。飼っていた豚を殺して皆で食べた。殺すことがうまくできずに、豚をいたずらに傷つけてしまった。憐れな黒い眸が脳裏によぎって、食べたものをぜんぶ吐いた。喉に何も通らなかった。そんな自分が情けなくて、うずくまったベッドの中で声を殺して泣いた。

 むかないのではないかとしばしば自問した。

 時に、自分が何を思い、何のためにこの道を目指したのか、その意味すらも見失った。かえりたい。ひとびとが「嵐」にさらわれるたび、わたしは無力な雛鳥のように震え、ものを吐いてしまう。かえりたい。誰にも知られたくなかった。トイレにうずくまり深夜にえづくのを繰り返した。かえりたい。かえりたいよ、リユン。口にしてしまえば、わたしをとどめる一抹の砦すらも壊れてしまいそうで、決して言えなかった。かえりたい。そう泣き喘ぐわたしは今でもなくならない。けれど。

 わたしはニナがつたなく縫い付けてくれた右腕ごとセーム曹長を抱き締めて、彼を仰いだ。つらくて、厳しくて、苦しい。煩悶し、葛藤し続けるこの日々を。時に憎み、厭いながらも、この生活を、ここに生きる彼らを。そしてわたしは。わたしの恋を。


「あいしてる。だからまだ、がんばれるよ」


 わたしを見つめるリユンはふと目を瞠って、それを弱りきった風に細めた。


「……そう」


 頬へ触れていた手の甲が離れ、するりと髪を梳く。しばらく同じ仕草を繰り返していた彼は、薬が効いてきて重い瞼を下ろしたわたしの目元に手を置いた。


「おやすみ、ブランカ」


 甘やかな囁きと、ひんやりした手のひらの作る心地よい闇のおかげでわたしは深いまどろみに沈みこんでゆく。意識が途切れる間際、雪のにおいが淡くくゆって、唇にそっとひとひら儚い熱が触れた。

 ああ、とても幸福な夢を見たのだと、わたしは思った。



 *



「ベッドが足りなくなる」


 数日後、ヘルバ先生の一言で、わたしの長く思えた入院生活は終わりを告げた。

 一週間ぶんの荷物を抱えて寄宿舎に戻ってきたわたしは、級友たちとエレンとリィン、それにニナから温かな歓待を受けた。わたしが留守の間に、車椅子を繰って孤児院から寄宿舎までやってくることを覚えたニナは、シオンたちと一緒に焼き上げたクッキーをわたしにくれた。


「ぶあんか」


 自慢げにクッキーを差し出すニナが愛らしくて、たまらずわたしは少女の身体をぎゅっと抱き締める。

 喧騒の静まった晩、蜂蜜をひと匙垂らしたホットミルクを作り、わたしは月の架かる窓辺でひとり手紙を開いた。窓の外に広がるハイネスは未だ春を待つ銀世界だ。白く凍った窓硝子から離れ、わたしはリユンのいつも使っている簡素な便箋に目を落とす。それはわたしが彼と夢の逢瀬をしたと思った翌朝、セーム曹長が抱えて持っていた。



 親愛なるブランカ


 気分はどうだい? 今、眠るキミのかたわらでこの手紙を書いています。目を覚ましたら、きっとキミは怒り出すにちがいない。ごめんね、ブランカ。元気になったキミを待たずに旅立ってしまう僕はほんとうにひどいおとこです。キミに愛想を尽かれてしまっても文句ひとつ言えません。

 ブランカ。僕はキミにひとつ謝らないといけない。

 二年前、キミがこのハイネスへ旅立つ決意をしたときのこと。僕はキミがきっとすぐに音を上げて僕のもとに戻ってくるだろうと踏んでサインをしました。もちろんキミの真摯な決意を軽んじていたわけじゃない。ただ、キミはやさしい子で、ブランカ。とてもやさしい子だから、きっとつらくて耐えられなくなるんじゃないかって。あの日の僕は無知でした。キミは僕が思うよりずっと強い女の子だった。

 言えなかったことがある。キミの夢を、僕は応援しているよ。ブランカ。誰よりも。つまらない意地でずっと言えなかった愚かな男をゆるして。キミが夢を叶えて戻ってくる日を信じて、待ってる。


 愛するブランカヘ      リユン 



 リユンは確かにこのハイネスの街に来ていた。

 呼び出したのは、他ならぬシオンとヘルバ先生。わたしの不調をシオンから相談されていたヘルバ先生は院長と話し合った末、内々に養父であるリユンに手紙を出し、一度わたしを王都へ連れ帰るよう頼んでいたらしい。

 手紙を受けたリユンは三日をかけてこの地へやってきた。彼が聖メイティルに到着したとき、わたしは入院中で、ヘルバ先生曰くわたしの養父は「血相を変えて」面会時間の終わった病室に駆け込み、院長からお叱りを受けたらしい。そのとき、すぐにでも連れ帰る算段を立てていた養父が、院長先生に反対のことを頼みに行ったのは深夜も過ぎた頃だったという。

 ブランカがここにとどまれるように。

 彼女はそれを望んでいるし、自分もそう願っている。

 ――彼女を潰す気ですか。

 厳しい目をして言った院長先生に、リユンはわらって断じた。

 ――いいえ、彼女は必ず乗り越えます。そしてきっと花を咲かせる、見事な大輪を。ブランカはそういう子だから、と。

 気付けば、ずっとずっとこらえていた涙がぽろりと一粒頬を伝っていた。

 リユン。リユン。リユン。

 わたしは手紙を抱き締めて、この街をもう発ったひとの名前を呼ぶ。溢れるいとしさを胸に秘めて、わたしは少し苦いあのひとの香のする手紙にそっと口付けた。

 十七歳のわたしの秘め事を、ハイネスの月だけが見ていた。


 ハイネス在学中、わたしが養父と会ったのはそのただ一度きりだった。代わりにひとひら、ふたひら、細い糸をたぐるように数多に交わした文たちを、のちにわたしたちはまるで恋文みたいね、とわらった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る