Episode , “Letters" 3
翌週の日曜は珍しく晴れたが、わたしは自室にこもって朝から昨晩やり残してしまったぶんの宿題をしていた。同室のシオンは病院の実習に当たっていて今日は一日いない。一教科を終えたところですっかり冷めた珈琲を啜り、窓から射し込む陽の高さに目を細める。
ブランカ、とサリューシャに薄いドア越しに声をかけられたのは、ちょうど教会の鐘が十二時を告げた頃だった。
「若い軍人さんが来てる」
窓から外を臨めば、表門に背を預けてたたずむゼノンの姿が見えた。先日のブローチの返事は、互いのすれ違いからする機会を失っていた。気まずさを感じて俯いたわたしに「門限は守りなさいよ」と忠告して、サリューシャは 蜂蜜リップをわたしの唇にひと挿しする。
淡い花色のリップはわたしたち学生の精一杯のおしゃれだ。わたしは生成りのロングスカートと赤い毛織のカーディガンの上に、いつもの胡桃色のコートを羽織った。抽斗の奥にしまっていたブローチをポケットに入れ、外に出る。
「ゼノン」
「……ブランカは、どうしていつも寒そうなかっこなんだ」
門前で白い息を手に吹きかけていた少年は、何故か怒った風に言って、わたしの首に太い毛織のマフラーを巻きつけた。歩こう、と門番さんをちらりとうかがい彼が言ったので、わたしはうなずき、歩きだした少年の背中を追う。
てっきり駅まで歩いていって、いつものミルクシチューのお店に入ると思ったのだけど、ゼノンは途中の公園で足を止め、樹下のベンチへとわたしをいざなった。意識してしまい、わたしはゼノンから不自然な距離をあけてベンチの端と端に座る。
「あのさ」
しばらくのちに声をかけたのはゼノンのほうだった。
「こないだのブローチ、ブランカの答えを聞かせて欲しい。俺は、」
そこで少し口下手で気難しいところのある少年は、ためらいを帯びた息継ぎをする。狭い眉間が今にも泣き出しそうに歪んだ。
「……すきだよ、ブランカ。おまえのこと、すきなんだ」
そばかすの痕の残る彼の頬から耳端にかけてがみるみる赤く染まってゆく。羞恥に歯を食いしばる少年を見つめ、ああなんて可愛らしい男の子なんだろう、と思った。
想像する。きっと彼なら、わたしの話に熱心に耳を傾け、時に労わり、励ましてくれるにちがいない。道を歩くときにはいつも手を繋いで、すきだよ、だいすきだよって飽きるくらいに囁いて、望む数だけぎゅっと抱き締めてくれる。
不意に沸いたくるおしいくらいの衝動は胸を激しく乱して、わたしを戸惑わせた。
ゼノン、わたしも。わたしも――。
思わず口をついて出そうになった言葉を飲み込み、わたしは答えを探して彼の肩越しに空を仰ぐ。雲の切れ目、蒼く澄み切った空は光の加減か、七色に輝いて見えた。こんな光を、かつて見たことがある。
――ブランカ。
甘やかにわたしの名を呼んで、手を伸ばす男のひと。強くて、優しくて、ときどき冴えた刃のような鋭さや、子どもみたいな駄々や弱さを見せるひと。さみしがりのひと。名前を呼ばれると胸が甘く疼いた。手を繋ぐと指先から伝わる熱に苦しくてたまらなくなった。ブランカ。その声。その四音。わたしが恋したのはあなた。
わかっていた。わたしが手を繋いで欲しいのも、すきだよって名を呼んでぎゅっとして欲しいのも、ゼノンじゃない。ゼノンではないの。さみしがりのわたしはさみしくて、心が弱くなって、優しい少年に甘えようとしていただけ。
「ゼノン」
いつの間にかわたしの頬を伝っていた涙に、ゼノンは驚いた風に瞬きする。
「ブランカ?」
指を伸ばしかけて、わたしの手に載ったブローチに気付いた少年は目を瞠り、それから泣き笑いにも似た表情をした。この賢い少年はそれですべてを察してしまったらしい。
「ごめんなさい。ゼノン」
ごめんなさい、と繰り返すわたしの手をブローチごとぎこちなく両手で包み、「それはおまえにやる」と彼は言った。
「返すなよ、ブランカ。それはおまえのだから」
わたしが泣き止むまで握り締めてくれていた手を名残惜しげに離されたとき、きっと十六歳のわたしたちはもう三年前のようにもとの友人には戻れないのだと悟った。くすんとしゃくり上げるわたしに、バイバイブランカ、と少し大人びた顔をして言い、ゼノンはマフラーを結び直した。
日が傾いた空からは銀灰色の雪が舞い始めていた。ゼノンが去ったあともずっと力なくベンチに座っていたわたしは、頬に触れた淡雪の冷たさにのろのろと顔を上げた。見れば、あたりは群青色の翳りに沈み、昼の賑わいを見せていたはずの公園からもすっかりひとが捌けてしまっている。冷え切った肩を少しさすり、わたしはきつく握り締めていたブローチをポケットに入れた。
「ブランカ!」
そのとき前方から思わぬ声がかかり、わたしは目を瞬かせる。シオンだ。けれど、彼女は確か夕方まで病院で実習だったはず。
「ここにいた……」
わたしの困惑をよそに、シオンは乱れてしまった息を整え、わたしの腕をつかむ。
「何かあったの?」
「ニナが」
声をひそめて尋ねたわたしにシオンが片頬を歪めた。
「ニナがいなくなった」
*
極寒の王国、その北西に位置するハイネスの夜は獰猛だ。ニナのような小さな子どもなら、一晩の嵐がたやすく命を奪い去ってしまうくらいに。
シオンにニナの不在を打ち明けられたわたしは、すぐさま聖メイティルに引き返した。孤児院にはすでに先生や級友たちが集まり、ニナの捜索が始まっていた。聖メイティルの敷地は広大で、子どもひとりの隠れ場所ならいくらでもある上、背面には林や小さな水路もある。冬は凍って、落ちると危険な場所だ。
ニナは昼前まではセーム曹長を抱き締めて窓辺にひとりでいたが、ごはんの頃にふらりといなくなり、気付いた先生たちが孤児院の中を探したもののどこにも見当たらなくなってしまったのだという。門番さんにも尋ねたが、ニナらしい女の子の姿は見ていないらしい。
車椅子でなければ動けないニナが、大人の肩ほどの高さはあろう鉄柵を飛び越えたとは考えにくい。門戸は常に開いているが、そこには門番さんが常駐しているし、裏門は鍵がかかっていて、ニナには開けられない。それでも院長先生は街の自警団に、夜の巡視の際ニナらしき少女を見つけたときは保護してもらえるよう頼みに向かい、残された先生とわたしたちは手分けして聖メイティル内を捜索することにした。
わたしはシオンと図書棟の捜索にあたった。
司書さんや図書棟にいた学生さんにも理由を話して、一階を中心に一緒に探してもらう。書架と書架のあいま。閲覧室。カウンターの影。隠れるところはたくさんあったし、地下の書庫にあやまって落ちてしまった可能性だってある。わたしは司書さんに手提げ用のオイルランプを貸してもらって地下に降り、ニナを探して歩き回った。
――ニナ。ニナ、どこにいるの。
いつも寂しげに伏せられている青い眸を思い出して、わたしは胸が潰れそうになった。ニナがいなくなってしまったのは、きっとわたしのせいだ。だって、小さなニナの頬をわたしは打ってしまった。きっとあの繊細な子を深く傷つけた。あの子はいつもさびしげにしていたのに、いつだってわたしのほうを見ていたのに。どうしてもっと言葉を尽くして向き合おうとしなかったのだろう。ニナは言葉が話せないのに。そのさみしさをわたしはとてもよく知っていたのに!
わたしはわたしのすべてを悔いた。
そのあともシオンとあちこちを探し回ったけれど、結局ニナを見つけることはできず、先生たちは夕暮れから探し通しだったわたしたちに一度寮に戻って仮眠を取るよう言った。だいじょうぶです、一緒に探します、とわたしは頑なに主張したが、シオンに少しだけでも眠ろうブランカ、と腕を引かれて、半ば無理やり部屋に押し込められる。
寝台に横たわり、シーツをかぶっても訪れるべき眠気はちっともやってこなかった。意識は冴え渡り、目を瞑るとニナの泣き声が聞こえるような気がして不安ばかりが募ってゆく。無為に灰色の壁と向き合いながら、わたしはここに来てひと月も経たぬうちに出会ったはじめての死のことを思い出していた。
――酒をくれ。酒をくれ、ブランカ。
それはわたしが毎日身体を拭かせてもらっていた老兵さんだった。先生によれば、老兵さんはたちの悪い酒飲みで、わたしが出会ったときには手の施しようのない不治の病を患っていたらしい。
――酒がほしいよ、ブランカ。のませてくれ。一滴だけでいいから、なあ死んでしまうよ。
わたしが身体を拭いていると、老兵さんは血走った目をぎょろりと剥いてお酒をねだる。老兵さんの枯れ枝のような手に肩を揺さぶられ、わたしはおののきながら言われたとおりにお酒を探しに行った。そしてようやく見つけた小さな酒瓶を抱えて戻ってきたとき、彼はすでに帰らぬひととなっていた。
わたしは泣いた。悲しみを覚えたのとは少し違う。死というものが嵐のように突然やってきて老兵さんをさらっていってしまったことに驚き、恐れ、泣いたのだった。そして先生ではなく酒瓶を探しに行った自分を責めた。
聖メイティルに身を置くこと、それは激しい嵐に立ち向かうに等しい。
手を尽くさねば死ぬ。手を尽くしても、あるいは死ぬ。その場所に立つとき、わたしは怖気づき、足が震えて、どうしようもなくなった。わたしはきっと心の弱い者なのだろう。ハイネスへ行くと告げたとき、リユンが猛反対したことを思い出す。きっとあのひとは、わたしの心の弱さを知っていたのだ。だから、あんなにも厳しい口調で引き止めようとした。
うとうとと半ばうなされながら浅い眠りについていたわたしは、ふと子牛のエレンの鳴き声が聞こえた気がして、目を開いた。エレンたちにはいつも夕方にごはんをやっているのだけれど、今日はニナのことですっかり当番を忘れてしまっていた。相方であるサリューシャも同じだろう。
壁掛け時計を仰ぐと、深夜零時を越えた頃で、どうしようか少し迷ったものの、わたしは椅子にかけたままになっていたコートとマフラーを取って、カンテラにマッチで火を灯し、外に出た。
さくさくと深雪をかき分け歩いてゆくと、遠目に孤児院の明かりがついているのが見えた。この様子だと、ニナはまだ見つかっていない。わたしは重い嘆息をして、厩舎の中にしまってあった荷車を出し、干し藁の積んである倉庫まで引いていく。
ちょうど孤児院の裏手にあたるこの場所には、藁庫のほか、森から切り出した材木置き場と敷地内のゴミの集積所がある。わたしは丸太小屋の鍵を開けると、藁をかいて荷車に積んだ。倉庫は藁が夜のうちに凍らないよう厚い丸太でできている。ほんのり樹の香とぬくもりに満ちた小屋から外に出ると、風は身を切るがごとく冷たい。
ニナは今どこにいるのだろう。寒い思いをしてないだろうか。
鍵を閉めて、荷車を動かそうとしたわたしは、ふと集積所の扉が少しだけ開いていることに気付いた。
ささいなことだとも言えた。けれど妙に気にかかり、わたしは荷車を置いて、集積所の扉をそっと押す。鍵はやはり開いていた。
――ニナ。
あたりは暗い。カンテラの吊り具を戸口にかけ、足を踏み入れると、くすん、と女の子が泣く声が暗がりから微かに聞こえた。転倒した車椅子と、光を感じてまぶしそうに細められる泣き腫らした青い眸。ニナだった。
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