Episode , “Letters" 2

 その日は朝から雪が降った。銀灰色に曇る窓硝子越しに見える教会前の小道では、今しがた刻まれた馬車の轍がみるみる雪に消されてゆく。わたしは冷めた珈琲を啜って講義のノートに目を落とした。干からびたハムとチーズを挟んだだけの固パンで軽い昼食を済ませると、本とノートを抱えて聖メイティル病院へ向かう。

  病院と学校の間は吹き抜けの渡り廊下で繋がっている。横から吹き付ける雪混じりの風に身をすくめつつ院内に渡ると、わたしは手早く着替えを済ませ、カルテ室からいくつかのカルテを取り出した。カルテはこれから始まる午後の回診で必要になる。院内をきょろきょろと探し歩き、ようやく洗濯室で洗い籠に隠れるようにして煙草を吹かしている男のひとを見つけた。

 ヘルバせんせい、と声をかけると、先生は悪戯が見つかった子どものような顔をして、「なんだ、サイか」と唸った。


「またいちばん乗りだな。おまえはいつも早いんだよ」

「すいません」


 わざとではないのだけれど、わたしは級友たちの誰よりも早く病院に着いて、実習の担当医――つまりヘルバ先生を呼びに来てしまうらしい。


「俺の休憩時間潰しだなおまえは」


 ヘルバ先生はそう悪態をついて、わたしの頭をこぶしで小突いた。いたいです、と訴えれば、「吸えなかった煙草のぶんだ、甘んじて受けろ」とまだ半分ほど残っていた紙煙草を潰してサンダルを返す。ヘルバ先生が肩越しに手を差し出したので、わたしは腕に抱いていたカルテを渡した。


「あいつらは?」

「今日はノエルせんせいと補修です」

「今日も、のまちがいだろ」


 午後いちばんの回診は先生ひとりにつき数人の学生がついて行う。わたしの相方のサリューシャとアレンは居残りの補修を受けていたので、今日ヘルバ先生について歩くのはわたしひとりだけだった。

 ヘルバ先生はざんばら髪にサンダルというおよそ医者らしくない出で立ちをしているけれど、腕はとてもよいお医者さんらしい。先生が患者さんと話をしているかたわらで、わたしは患者さんの首筋に手をあてがい、脈拍や呼吸数といったものを測ってゆく。ここへ来たばかりの頃はうまく測れなくて、患者さんを苛立たせてしまったけれど、今ではそれもずいぶんうまくなった。仲良くなった患者さんは、ブランカ、と声をかけて話しかけてくれたりもする。子どもたちとはヘルバ先生がカルテを書き込む間、よくお手つき遊びをした。

 ひと通り午後のぶんの回診を終えたあとは、看護婦のセシルさんについて仕事を行う。まだ看護学生であるわたしたちは、直接の治療はできないけれど、そのぶん患者さんの身体を洗ってあげたり、爪のお手入れや髭剃り、包帯の交換、ベッドシーツや下着の洗濯、夕ごはんの運び出しや食べ終わったあとの食器洗いといった雑用は皆こなさなければならなかった。

 聖メイティルには一般の患者さんの他に、三年前のバルテローの内乱に駆り出され負傷したひとびとも未だ多くとどまっている。ヘルバ先生の受け持っているイワンおじさんもそのひとりだった。元軍人さんであるというイワンおじさんは、内乱で銃弾を背に受け、下半身を動かせなくなり、軍を退役した。治療後、一度は退院をしたそうなのだけれど、動かない足を放置したせいでくるぶしのあたりの皮膚が壊死してしまい、再び聖メイティルに戻ってきたのだった。

 ハイネスのふたつ隣の街に生まれたイワンおじさんはひどい訛りがあり、それから短気で、ところ構わず大声で怒鳴り散らすことでも有名だ。


 ――ブランカ、ブランカ。ブランカはどこにいる。


 イワンおじさんはことあるごとにわたしを呼びつけるものの、生粋のエスペリア人でないわたしにはイワンおじさんの訛りの強い早口の喋りは聞き取れないものが多く、そのたびイワンおじさんを怒らせてしまう。今日も夕飯の片付けのさなか、イワンおじさんがわたしを呼んでるとの言付けを受け、わたしは憂鬱に塞がる胸のうちを引きずっておじさんの病室に向かった。


「ブランカ!」


 戸口に立つなり、雷のごとき怒声が飛ぶ。


「……どうされましたか?」


 後ずさりかけた心持ちを何とか立て直し、平静を装って尋ねると、早口で何かを喚き立てられた。見れば、サイドボードに置かれたコップが倒れ、水がクロスに染み込んでいる。こぼしてしまったのだろうか。


「すこし、待っててください」


 わたしがタオルを探していると、イワンおじさんはますます声を荒げてわたしの前髪を引っ張る。元軍人さんの力は強い。わたしが途方に暮れていると、どうしました、とやってきたセシルさんがイワンおじさんに訊いた。どうやらシオンが呼びに行ってくれていたらしい。

 セシルさんはしばらくイワンおじさんの話に耳を傾けたあと、わたしに尿袋を持ってくるよう言った。おじさんの身体を動かし、ズボンと下着をさげるのを手伝う。セシルさんに指示され、わたしは水で濡らした綿と潤滑用のゼリーとを渡した。排泄を自力でできないイワンおじさんはこうして管を使い、尿を促してやらなければならないのだ。排泄のお手伝いをするとき、イワンおじさんが必ず癇癪を起こすのを知っているセシルさんは、わたしに尿を溜めた管を持たせて、片付けてくるよう言った。

 部屋を出るとき、軽くわたしの肩を叩いたシオンに目だけでお礼を言って、わたしは院内の共同トイレに向かう。溜めた尿を捨て、管の中をきれいに洗い、消毒をする。病室へ返しに行くと、イワンおじさんは瞼を固く閉じて寝入っており、わたしはおじさんを起こさないよう息をひそめて病室を出た。


 先ほど中途で止まっていた食器の片づけをシオンと手分けして行う。拭いた皿を棚にしまいきる頃には時計は七時を過ぎ、ハイネスの早い夜はすっかり更けていた。夜勤は学生のわたしたちには課されていない。

 午後の仕事終わりに淹れる、野苺ジャムを匙一杯ぶん混ぜた紅茶はわたしたちふたりの近頃のお気に入りだ。甘やかな湯気を立てるマグをかたわらに置き、今日のぶんの日誌を書いていると、ヘルバ先生が控え室の戸口から顔を出して、サイ、とわたしの名を呼んだ。先生の感情というものが薄い碧の双眸を見て、わたしはひとつの予感めいた確信を抱く。

 先生に連れられて向かった病室では、わたしがずっとお世話をしていたアリおばさんが手を組み合わせて目を瞑っていた。お別れをしてこい、とヘルバ先生に肩を押される。

 ――アリおばさん。

 ひっそり呼ばい、わたしはまだ微かに温もりの残るアリおばさんの手を握り締めた。この手も、夜が明ければ冷たく固くなることをわたしは知っている。

 



 親愛なるブランカへ


 お元気ですか。こちらでは春告げ姫が盛りを迎えました。ハイネスはまだ冬のさなかだろうか。キミが風邪など引いてしまわないか心配です。

 エレンのこと、おめでとう。キミが彼女を可愛がる姿が目に浮かぶようです。ブランカ。花が育つのに必要なものは? 水とひかり、それから愛情。ちいさなキミが僕に教えてくれた言葉です。水とひかり、それから愛情をこめてキミに育てられる牛の子はきっとエスペリアの牛たちの中でいちばんのしあわせものだね。

 こちらでも、先日よい報せが届きました。オフィーリア姉さんが懐妊したらしい。生まれてくる子どもはキミにとってははじめてのいとこになるね。レーンと姉さんの血を引くとなると、たいそうなきかんぼうになりそうだけれど。今から、秋が待ち遠しいです。

 ブランカ。食事は毎日きちんと取っているかい? からだを壊してはいない? がんばりやなキミががんばりすぎていないか、少し心配です。リィンのようにキミをそばで見守れたらいいのだけれど、僕の手は椅子にかかったコートを取るので精一杯の長さなので、花の香だけを届けます。


                王都から   リユン



 封筒からはらりと落ちたのは春告げ姫の押し花だった。白い花びらを指でなぞり、わたしはそっと押し花に唇を触れさせる。春告げ姫の淡いくゆりをしばし夢想して、目の上に腕を乗せた。

 先ほどまで共同トイレの便器にうつ伏してお腹の中のものをすべて戻していたわたしには、わずかに動く気力すらも残っていなかった。それでも明日の授業の予習が残っていたことを思い出して、寝台からのろのろと這い出、ランプを灯してノートを開く。胃のうちはまだ熱く、椅子に座しているとよじれるように痛む。わたしは身をこごめてペンを握り締め、おろしたばかりの便箋を引き寄せた。

 ――拝啓、リユン=サイ様

 いつもどおりの書き出しを綴り、そのまま無為にペン先を走らせる。


 おげんきですか。りゆん。

 わたしは、よるがくるのが、こわいです。あさがくるのも、いつもこわくてたまりません。ひるがくるのもとてもこわい。びょういんにいくのが、こわくてたまりません。りゆん。あいにきて。あいたい。


 そこまで綴ってからわたしはペンを止め、便箋をくしゃくしゃに丸めて屑箱に捨てた。


 あんたのは睡眠というより気絶だね、とシオンはよく揶揄をする。

 早朝、机の上で『気を失っていた』わたしを発見したのはシオンだ。

 寝覚めはとても悪かった。胃の腑に巣食う熱っぽい痛みはおさまっていたけれど、身体の節々には重いしこりが残るようで、疲労は癒えるどころかひどくなっている気がした。小さく呻いたわたしに、エレンの世話に行こう、とシオンはコートを渡しながら言った。エレンとリィンの今朝の餌やりはわたしの仕事で、シオンは当番に当たってはいない。目を丸くしてすでにコートを着込んでいるシオンを仰ぐと、あんたも私の当番をよく手伝ってくれたじゃないか、とシオンは笑い、おたがいさまだよ、とわたしの首にマフラーを巻いた。

 外はまだ暗く、雪明かりの天に銀色の星たちが瞬いている。白い息を吐きながらリィンとエレンに朝ごはんをあげ、寄宿舎に戻ると、サリューシャが朝食を取り置いてくれていた。

 温めたミルクと、黒パン、野菜スープがテーブルに並ぶ。ぐったりとソファに沈んだわたしをシオンが呼び、少しでもいいから食べたほうがいい、と言ってちぎったパンをミルクに浸したパン粥をわたしの前に置く。そっけないけれど、本当は細やかで世話好きなシオン。わたしの夜ごとの嘔吐癖を知っているシオンは、言葉にはしないけれど何かとわたしの面倒をみてくれようとする。わたしは小さく顎を引いて、パン粥を啜った。


 聖メイティルに来て間もない頃、わたしは毎夜泣いてばかりいた。聖メイティルの生活は過酷だ。死は吹きすさぶ嵐のように絶え間なく訪れ、身体を快癒させて退院していく患者さんを見送る喜びと、力尽き動かなくなった骸を家族のもとへ送る悲しみに身をさらし続けなければならない。

 軒を細く滴る水が氷に転じるように、涙が引いたのはいつからだろう。代わりにわたしの身体は凍えた雛鳥のように震え、次の朝がやってくることを怯えて、身体に蓄えたものたちを外に出したがった。こんな生徒は聖メイティルのどこを探してもいない。口をゆすぐとき、手洗い場の灰色の鏡に映った自分の痩せ細った情けない顔を見つめて、そのたびわたしは胸に冷たい重石をいくつも詰め込まれたような心地に駆られるのだった。入学したとき、校内で一番だった成績もいまや落第すれすれにまで落ち込んでいた。

 

 午前の授業が一限早く終わったので、わたしは先日焼いたクッキーを籠に詰めて、ニナたちのいる孤児院へと向かった。先生に挨拶をして、駆け寄ってくる子どもたちにひとつずつクッキーを渡していく。小鳥の形やお星様、月に花。いろんな形に焼き上げたクッキーには卵白に砂糖を溶かしたもので絵を描いてある。


「ニナ」


 並ぶ子供たちの列から少し離れ、ニナは窓際でひとりセーム曹長を抱いていた。わたしは少女の車椅子のそばにかがむ。


「げんきにしていた?」


 尋ねると、ニナはどうしてか不機嫌そうに頬を膨らませて、ぷいと窓の外を向いた。

 ニナについてこういうことはたびたびあった。特に、久しぶりに孤児院に訪れたとき、ニナ以外の子どもとわたしが遊んでいるのを見つけたときに多い。ニナはあなたがいないととてもさみしがるのよ、と先生に教えられてからはせめてセーム曹長を置いていくようになったのだけど、幼いニナは曹長だけではとても満足できないようだった。


「ニナ、クッキー」


 つとめて明るい声を出し、籠の中から取り出したお星様の形のクッキーを少女の手の上に載せる。弾かれたようにニナが唸った。クッキーをわたしに向けて投げつけ、籠の中に残っていたものも引っつかんで次々床に叩きつけてしまう。

 クッキーを待っていた他の子どもたちがわあん、と泣き出した。わたしは驚き、顔を歪めて割れたクッキーをさらに車椅子の車輪で潰すニナを見つめる。


「ニナ」


 わたしは固い声を出した。


「ニナ、やめて」


 少女の細腕を捉えて、懇願する。ニナの赤くなった目がわたしを見上げた。もどかしげに叫んで、ニナはじたばたと力の限りに暴れる。手に握り締めていたクッキーたちをわたしにぶつけ、さらに膝に乗っていたセーム曹長を空に掲げる。


「ニナ!」


 わたしは初めて表情を揺らした。それがニナの心を焚きつけたらしい。わたしが止める前に、ニナの手が力任せにセーム曹長の腕を引っ張る。ぷつん、と曹長の布切れで作られた腕はあっさりちぎれて、白い綿を中からはみ出させた。

 とっさにわたしはニナの頬を打った。

 ぱん、と鋭い音が立つ。手のひらに伝わった痛みに我に返り、わたしははっとしてニナを見つめた。頬を打たれたニナは眸をいっぱいに開いて、ひどく傷ついた顔をした。青い目にみるみる水膜が張る。


「う……」


 声を上げてニナが泣き始めた。

 ――ああ、やってしまった。

 深い後悔がわたしの胸にせり上がる。


「ごめん、ごめんね、ニナ」


 謝り、ニナの赤く腫れた頬をさすろうとするのだけれど、ニナはいやいやと首を振り、わたしの手から逃れるように顔をそむけた。

 子どもたちの泣き声は周囲に伝染する。ニナを発端に子どもたちが次から次へと泣き出してしまい、孤児院は一時騒然となった。駆けつけた先生がなんとかなだめてくれたものの、わたしは悄然として潰されたクッキーたちを片付ける。事情を聞いた院長先生は特別わたしを叱ったりはしなかったけれど、わたしの胸中は暗澹としていた。

 最初にクッキーを投げつけたのはニナだ。セーム曹長の腕をちぎったのも、ニナ。けれど――……。ひどく傷ついた風な少女の青い眸を思い出して、わたしは箒の柄にこつんと額をあてる。きっとニナは今頃ひとりで泣いている。

 院長先生に昼ごはんを勧められたけれど、おなかには重い石がたくさん詰まったようでまるで食欲が沸かない。わたしは午後の回診の時間が来たことを理由に孤児院から逃げるように出た。

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