Episode , “Letters" 1

 拝啓 リユン=サイ様


 お元気ですか。風邪などはひかれていませんか。

 ごはんは、きちんと食べていますか。わたしは元気です。

 王都はまもなく春を迎える頃でしょうか。リーアに、学校の裏庭に蒔いた春告げ姫エスペリーゼが雪の中から芽を出したと聞きました。あなたの好きなリラの花ももう少ししたら咲くのでしょうね。春を謳歌する王都が目に浮かぶようです。

 ハイネスは未だバケツに湛えた水も凍ってしまう寒さですが、数日前、可愛がっている牝牛のリィンが元気な子牛を産みました。わたしもお産の手伝いをさせてもらったのよ、リユン。薄い膜にくるまれた子牛は濡れていて、いとけなく、それでも少しすると自分の足でたどたどしく立ち始めました。動物たちは皆勇ましい。

 考えた末、名前はエレンにしました。荒野に咲くしなやかな花の名前。リユン、あなたにもいつか見せてあげたい。

 お仕事が忙しくても、きちんと食べて、眠ってくださいね。

 そればかりが心配です。

 

 いつも忙しいひとへ           

              ハイネスより ブランカ



 封をした手紙を目抜き通りのポストに投函する。ハイネスから王都までは十日ほどかかるから、この手紙がリユンに届く頃には王都には本当に春が訪れているかもしれない。わたしはハイネスの厚く雲の垂れ込めた空を仰いで白い息を吐き、コートの上にかけた毛織のショールをかき寄せた。

 山間の街であるハイネスは王都より春が訪れるのが少し遅い。絡み合わせた手のひらはすっかりかじかみ、降り続ける銀灰色の雪がわたしの足跡をみるみる消してゆく。ハイネスで迎えた、二度目の冬。この地にやってきたときはまだ十五であったわたしも、二年を経て十七歳を間近に控える少女になっていた。王都の国立学校では、同級のリーアたちが卒業する年だ。

 わたしは懐かしい級友たち宛の手紙もポストに入れると、祈るように目を閉じ、ひっそりと銀灰色に沈む街をまたひとり歩き始めた。


 ハイネス郊外にある聖メイティル教会は、広大な敷地内に礼拝堂、墓地、孤児院、病院、そしてわたしの在籍する学校と寄宿舎を持つ、この街の要だ。煤けた煉瓦の建物と尖塔は遠目にもよく目立ち、街のひとびとは困ったことがあればたいてい聖メイティルを目指す。また、門戸を叩く者は誰であれ受け入れるのが聖メイティルの掟にもなっていた。

 雪の積もった表門をくぐると、わたしはまず学校の裏手にある厩舎へと向かい、藁にくるまれて眠る母牛のリィンと子牛のエレンにただいま、と声をかけた。リィンのどっしりした身体に身を寄せて眠る小さなエレンの、薄ピンクの肌が透けたお腹を優しく撫でる。温かく、少し湿ったエレンのお腹。長い睫毛を震わせて見つめてきたリィンも撫でて、わたしは藁を引き寄せた。寒くないようたくさんかけてやり、藁のゆりかごを作る。


「おやすみなさい。またね」


 うたた寝するリィンに微笑み、わたしは厩舎の鍵を閉めた。

 降りしきる雪のせいか、聖メイティルの敷地内に人影はまばらだ。炭を運ぶ当番の子たちと道行きで労いの挨拶をし合い、わたしはさくさくと深雪の中を歩いてゆく。

 寄宿舎に戻る前に、隣接する図書棟へ立ち寄るのはわたしの習慣だ。本来、図書棟の本を生徒に貸し出すことは禁止されているのだけれど、毎晩閉館ぎりぎりまで入り浸るわたしに呆れたらしい司書さんが、近頃ではこっそり古くなった蔵書を貸し与えてくれるようになっていた。探していた本の他にも欲張って何冊か貸してもらい、司書さんに苦笑されながら、わたしは若干危うい足取りで階段を下る。


「ブランカ!」


 そのときひとりの学生が階段の踊り場に飛び込んできた。ルームメイトのシオン=イーザだ。


「どうしたの、シオン」

「ニナがまた癇癪を起こしてるって」


 本を抱え直しつつ尋ねたわたしに、シオンは困り果てた様子で眉根を寄せる。

 『ニナ』。その名前でおおかたは想像できた。わたしは司書さんに借りた本をいったんすべて返すと、シオンと連れ立って階段を駆け下りた。


 ニナは聖メイティルの孤児院で暮らしている女の子だ。

 三年前のバルテローでの戦乱の際、流れ弾で父親と母親と兄を吹き飛ばされ、家をも失った彼女はもう六歳になるけれど、言葉を喋らず、ここに引き取られてから一度も笑ったことがない。意思疎通の手段を持たない彼女はときどき些細なことに苛立ち、手に負えない癇癪を起こしてしまうのだった。

 孤児院にたどりつくと、ニナは一階の廊下の真ん中で同級のサリューシャたちに腕や肩を押さえつけられていた。身をよじり、腕をばたつかせて、唸り声を上げる。そのかたわらにはニナに貸していたセーム曹長が力なく横たわっていた。


「ニナ」


 わたしに気付いたサリューシャが肩をすくめて、お手上げという表情をする。


「ニナ。ニナ、わたしよ」


 彼女の名前を何度も呼んで、わたしはその背をさすった。癇癪を起こしたときのニナは獰猛な獣の子のようだ。わたしの胸を力いっぱい叩き、腕に噛み付き、引っかき、髪をむしって、ようやく少し落ち着いたらしい。わたしの腕を食んだまま、くすんくすんと泣き出した。熱い滴りが膝から足にかけて伝わる。小水だった。廊下の突き当たりにあるトイレを見上げ、わたしはああ、と苦笑する。


「ごめんね、ニナ。気付いてあげられなくて」


 しゃくり上げるニナに頬をくっつけ、震える背中をさすった。

 可愛いニナには両足がない。ニナの上半身が無事だったのは、とっさにニナのお兄さんがニナを庇ったからだと聞いている。お兄さんの身体からはみ出したぶんだけ、ニナには足がない。ニナはときどき、それがもどかしくてたまらない風にむせび泣く。


 *


 聖メイティル教会付属看護学校の一日は忙しい。

 朝は六時に起床。八時から授業が始まり、昼休みを挟んで午後は病院で先生についての実習。牝牛のリィンとエレンの世話は生徒の間で持ち回りで行っていて、今期の担当はサリューシャとわたしだった。授業は土曜まであり、日曜は休み。何週かに一度は病院のお手伝いに出なければならないけれど、今日のわたしは休みのほうだった。

 日曜のミサのあと、シオンといつもより遅めの朝食を取り、窓から外をうかがうと、昨晩から降り続いていた雪はやんでいた。わたしはワンピースに暖かな毛糸のセーターを重ね、今では背にかかるくらいになった灰かぶり色の髪を櫛で梳く。後ろでシニヨンを結い、花色のシュシュを巻いた。


「おはよう、ブランカ」


 胡桃色のコートに毛織のショールを重ねて寄宿舎を出ると、門前で雪かき当番をしていたサリューシャが「おでかけ?」と尋ねた。


「うん。サーシャ、一緒に買ってきて欲しいもの、ある?」

「あ、じゃあハイネさんちの蜂蜜リップ」


 馴染みにしている雑貨屋さんの名前を挙げ、サリューシャはポケットに入っていた小銭をいくらか渡した。わたしの腕を引き、にやりと笑う。


「逢引のお相手は若い軍人さんかな?」

「そういうのじゃ、ないよ」


 困惑してわたしは頬を染めるのだけれど、サリューシャは一向に信じてくれない。門限は守ってね、と変なお節介をきかせて、わたしのことを送り出す。


 昼下がりのハイネス駅は昨日とは違い、活気があった。日曜は安息日にあたり、多くの店は休みになるけれど、ハイネさんの雑貨屋は日曜しか休みの取れないわたしたちのために開いてくれている。

 サリューシャに頼まれたリップと、シオンと部屋で飲む茶葉を何種類か選び、それから便箋や万年筆用のインキ、安い蝋燭も紙袋に詰めてもらった。思いのほか大荷物になってしまった紙袋を抱え、待ち合わせの公園へ向かう。


「ブランカ」


 公園の入り口までやってきていた軍人さんがわたしを呼んだ。所在なさげにたたずむ軍人さんの姿を認め、わたしは笑みを綻ばせる。


「ゼノン」


 十二の文字盤から数分傾いた時計塔を仰いで、「待たせた?」と謝る。べつに、とゼノンは耳端を染めて、わたしが抱えていた荷物を奪い取った。


「どうする?」


 歩き出しながらゼノンが訊くので、わたしはすっかり紳士になってしまった少年にくすりと微笑い、「いつものところへ」と彼の袖を少し引いた。


 三年前、王都から旅立ったゼノンが二年の修学を経て軍学校を卒業し、見習い士官としてこのハイネスの街に赴任したのは今から半年ほど前のことだ。久方ぶりに再会を果たしたわたしたちは以後、予定が合う日は公園で待ち合わせて一緒に昼食をとるのがならいになっていた。日曜でも開いている、濃いミルクシチューがおいしい食堂に入り、わたしたちは日当たりのいいお気に入りの席に向かい合って座る。


「こんなに何買ったんだ?」


 紙袋を隣の椅子に置きながらゼノンが呆れた様子で訊くので、蜂蜜リップ、とわたしはわらった。


「りっぷ?」

「唇がかさかさしないように女の子は塗るの。たいへんなのよ」

「ふぅん……?」


 賢しげに説明すると、ゼノンはわたしのほうを見て、なんだかよくわからないような顔をした。そのとき、ミルクシチューと焼きたてのパンが運ばれてきたので、わたしたちは会話を一度中断させた。冷たくなっていた身体に濃いミルクシチューはおいしい。わたしも王都で養父と暮らしていた頃はよくシチューを作ったけれど、こんな風に濃くておいしい味は出せなかった。いつもどんな隠し味があるんだろうと謎解きを試みるものの、わからないまま食べ終えてしまう。悔しい、と呟くわたしを、ゼノンは口端に笑みを引っ掛けて眺める。

 食後は、オーナーさんが淹れてくれた珈琲を飲みながらおしゃべりをした。といっても喋っているのはほとんどわたしで、ゼノンはたまに短い相槌を挟みながらわたしの話を聞いている。

 十六歳のゼノンは、わたしが知っていた頃よりも背がぐんと伸びて、そばかすもなくなり、少し寡黙で気難しい少年へと成長した。あるいはこの年頃の男の子は皆こんなものなのかもしれない。駐屯地の生活について訊くと、ゼノンはあまり話したがらず眉間に皺を寄せたので、わたしは苦笑して、彼の気難しい皺を指先で押した。

 珈琲一杯で一時間ほどお喋りをしてから、お店を出る。

 ゼノンは夕方から食事当番があるというので、今日はもうお別れだった。おくる、と再び紳士みたいなことを言う彼に、いいよ、と微笑い、わたしは買い物袋を受け取った。日はすっかり翳り、代わりに重い雪雲がハイネスの空を覆い始める。

 今晩もまた雪が降るのだろうか。ふるりと身を震わせたわたしに気付いてか、ゼノンはおもむろに巻きつけていた毛織のマフラーを取ってわたしに押し付けた。


「……さむくないの?」

「べつに、平気だよ」


 尋ねると、ぶっきらぼうに返される。


「ブランカ。あのさ」


 マフラーを結ぶ手がふとわたしの頬に触れた。睫毛を揺らしたわたしから彼は視線をよそへ向け、「……おまえ、まだ好きな奴いんの」とぼそぼそと続ける。

 四年前、暗にそれを告げて彼の告白を断ったのはわたしである。首を傾げ、自分より長身の影を見上げると、どうしてか怒ったような顔をして、やめちゃえよ、と投げやりにゼノンが言った。


「だって、おまえの好きな奴、おまえに一度も会いに来てくれないじゃんか。もう二年になるのに、ひどい奴」


 どうやら〝わたしの好きなひと〟に彼はひどく腹を立てているらしかった。苛立たしげにいくらかなじったあと、沈黙するわたしのほうをうかがい、とたん虚をつかれた風な顔になる。


「……わるい、そういう意味じゃ」


 そのときのわたしはもしかしたら思い切り傷ついた表情をしていたのかもしれない。それを目の当たりにしたらしいゼノンは、思い詰めた顔つきで歯噛みする。無防備だったわたしの身体をぎゅっと引き寄せると、手の中に無理やり何かを握らせ、彼は疾馬のごとくきびすを返した。


 十七を間近に控えたわたしは、長い恋に疲弊していた。

 王都であいする養父と別れてもうすぐ二年になる。その間、わたしたちは数え切れない文のやり取りをしたけれど、一度も顔を合わせてはいなかった。ハイネスはエスペリアの僻地で、王都までは汽車で三日ほどかかる。聖メイティルの学生に与えられる長期休暇は十日がせいぜいで、休みの間も患者さんの世話は代わる代わるにしなければならない。結果、近隣の級友たちを帰らせ、わたしは聖メイティルに残るのが毎年の長期休暇の過ごし方になっていた。

 ――リユンは。今年二十五歳を迎えたわたしの養父はさらに多忙を極めているのだと聞く。若く有能な彼に惹かれるひとは多い。先日も、エルトラン伯爵家のご令嬢が夜会で熱心に花を贈って誘っていたのだとフローリアさんからの手紙で聞き、わたしはかつて夜会で垣間見た艶やかな真紅のドレスを思い出して、胸に棘が刺さったような心地になった。

 手の中に握りこんでいたものを開く。花をかたどった銀細工のブローチ。中央には本物ではないのだろうけれど、淡いピンクの石が嵌めこまれている。

 昼にゼノンから握らされたものだった。この地方でブローチを贈りあうのは恋人たちのならいであり、つまりはそういうことなのだった。彼はいま一度、わたしを望んでくれた。

 わたしはブローチの宝石を月光に透かし見て、目を細める。わたしの想いが別のひとにある以上、返さなければならないことはわかりきっていたけれど、そして四年前のわたしであったのならあの迷いのない目でまっすぐ彼に返したのだろうけれど、十七歳のわたしはブローチを手離すことができずに抱えた膝をぎゅっと引き寄せた。

 理由が欲しかった。この恋から逃げる理由。

 もうずっと、わたしはつらいばかりのわたしの恋から逃げてしまいたかった。

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