interlude 6
彼の麗しの妃殿下はたいそう機嫌が悪い。
「まったく失礼な野郎だったわ!」
隣国の外交官との会食を済ませ、気に入りの猫足と薔薇の刺繍の長椅子に腰を落ち着けたオフィーリアは、さっそく毒を吐いた。
「あたしの歳を聞いてきた! 三十路の何がいけないって言うのよ、七歳年上の王妃で何が悪いっての、あたしはあんたの丸い子豚ちゃんみたいなお嬢さんよりずっとお肌はつるつるだし、くびれはばっちりだし、手間暇かけてるんだから!」
めまぐるしく次から次へと言葉が飛び出すのはサイ家の女性の特徴だ。並の男はたいていそれに圧倒される。
「ちょっとレーン、ぼぅっとしてないで足揉んでよ。疲れた」
シミューズ一枚のしどけない姿で爪先を上げ、オフィーリアは彼の肩を小突いた。催促するように、また一度。二度。
「レーン」
「はいはい。女王様」
しょうのないひとだ、と息を吐いて、レーンは肩に載せられた女の白い足を取る。つかんだ足首は存外華奢で、真紅の爪紅が艶やかに五指を彩っている。変わらない、昔から足のきれいなおんなだった。
レーンが七歳年上のこの美しい人妻に出会ったのは、十年以上前のことになる。レーンには過去、名と身分とを偽り、軍学校に通っていた時期がある。叔父のシンミア=エクスペリアが国王代理に就き、国政を牛耳っていた時分、後見人のオランド公が暗殺を恐れてレーンを軍学校に紛れ込ませたのだが、その際にレーンはのちに深い縁で結ばれるリユン=サイと姉オフィーリア=サイに出会ったのだった。
その日は、エスペリアでは珍しい、夏のぬるい雨が降っていた。傘を傾け、外の郵便受けに寄宿生たちの配達物を取りに行っていたレーンは大きな楡の樹からじっとこちらを見つめている少女に気付いた。少女といっても、このときのオフィーリアはすでに初婚を済ませた十八歳の乙女だったのだが。
彼女は、傘を持っていなかった。
ひと目で上等なものとわかる光沢あるサテンのデイ・ドレスに張り付いた黒髪は濡れそぼり、そのくせ艶かしいというよりは、獣のような張りつめた緊張がある。軍学校の正門を見据える少女の双眸は鋭利で、これから学校に殴りこみに行くといっても驚かない。――実際、このときのオフィーリアは、軍学校へ喧嘩を売りに行く途中だったらしい。
「うちの学校に何か用?」
気付けば、足が動いていた。もともと人見知りはしないたちであるが、商売女でもない、いかにも訳ありげな少女に声をかけた自分に内心驚いた。少女が警戒を帯びた双眸でこちらを睥睨する。素性を見定めているのか、赤い唇を開くまでは少し時間がかかった。
「ここにリユン=サイってのいる?」
令嬢風の外貌にはそぐわぬぞんざいな口調だった。
「ああ、いるよ。友達だ」
「ともだち?」
少女のほうに傘を傾けながらレーンが答えると、彼女は異国語を聞いたみたいな顔をした。ともだち、とレーンの言葉を繰り返し、きつく寄せていた眉間をほんのり開く。そうすると、痛いくらいの緊張が緩んで、年相応の愛らしい少女の表情になった。
「……その、リユンは、げんき?」
「まぁね」
「い、いじめられたりとか、してない?」
「してないけど」
「ごはんはちゃんと食べてるんでしょうね! 先生にいびられてたりは?」
「ないよ。リユンは頭がいいから。おねえさん、リユンのおねえさん?」
意固地な横顔にふと友人の面影が重なり、試しに尋ねてみる。はっと目を見開いた少女がみるみる真っ赤に頬を染めた。
「馬鹿言わないで! ちっ、違うわよ!」
「……そうなんだ?」
「そうよ、いけない?」
「いけなくなんかないさ。リユンは俺のいっとう自慢の友達だよ」
「あっそ」
少女は表向きは無関心そうに、そのくせ口元に隠しきれない笑みを乗せて呟いた。
「かえる」
きっぱり告げる声は澱みない。そのとき、少女の細い指が赤いミュールのストラップを摘んでいることに気付いて、レーンは眉をひそめた。ミュールのヒールは半ばで折れてしまっている。
こんなやわいミュールで、雨の中、傘も差さずに歩いてきたんだろうか、このひとは。思うと、おかしくなってしまって、レーンは少女の肩に傘をかけた。
「あげるよ、おねえさん。あとこれも」
使い古した汚い靴を脱いで、少女の足元へ置く。
「ちょっと! こんなの、いらないわよ!」
「なんで? 汚いから?」
「そういうことは言ってない」
「じゃあ、あげるよ。俺はすぐそこだし」
半ば無理やり押し付けてしまうと、少女はしぶしぶといった様子で靴に足を入れる。垣間見たまるい爪先は濡れてほんのり薄紅を帯びており、不思議と可憐だった。
*
「レーン、ちょっとあんた聞いてんの!」
耳元で響いた怒声に、レーンはよそにやっていた視線を戻す。
「ああ、うん。なに?」
「だから! 最近あいつ、煙草と酒のにおいばっかりぷんぷんさせてるのよ。くさいったらありゃしない」
「リユンが煙草と酒好きなのは昔からじゃないか」
「量が多いの! ずっとあっちで寝泊りしているって聞くし、苛々する」
唇を尖らせて呟く女の足裏を押し、「さみしいんだよ」とレーンは苦く微笑った。
臣下であり友人である男が、愛娘を看護学校へ入学させて半年ほどが経つ。昔のリユンは女はいても、家や家族といったひとところに留まるものは持たない性分だったので、養女にすると言って小さな少女を連れてきたときは驚いたものだ。それでも、いつの間にか、あの小さな女の子はリユンが帰る「家」になっていたらしい。彼女が巣立ってしまった家にひとり帰らなければならないリユンの心中が、レーンにはなんとなく察せられた。そして、たぶんオフィーリアもまた、不器用に弟の心配をしているのだろうことも。
「そういえば、さっき手土産に葡萄酒をもらったんだっけね」
隣国産の葡萄酒を差し出していた外交官を思い出し、レーンはにっこり頬を緩める。
「今度、リユンと三人で飲もうか。君もお酒好きだろ、フィア」
尋ねれば、この意固地な王妃はしばしこちらを見つめた末、「……考えとく」と耳まで赤く染めた顔をふいと可憐な猫のごとくにそらした。
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