Episode , “Good-bye My Daddy” 8

 プラムの裏葉を透かした光が窓辺からしずやかに室内へと射している。先ほどから時は流れを止めたかのようで、足元に落ちた影は微動だにしない。沈黙を有する室内を時計の針だけがせわしなく動いている。


「一個、訊いていい?」


 やがて遠視用の銀縁眼鏡を外して、フィア先生は目を通していた書類を机に置いた。藍色の眸がひたとわたしを見据える。


「あんたはそれでいいのね? ブランカ」


 先生の問いは簡素かつ的確だった。わたしは息をひそめ、オフィーリア妃殿下を見た。妃殿下は組んだ手に顎を乗せ、わたしの答えを待っている。

 不意に、わたしの脳裏にさまざまな情景が蘇る。リユンに手を引かれエスペリアにやってきた日のこと。雪の丘にそびえ立つ古城と銀獅子王。それからの優しくいとおしい日々。ラフトおじさんの雑貨屋さんの不思議な音色を奏でる鈴や、ポルコさんの素朴なミルク粥の味。ゼノンやリーア、今は大好きな級友たち。フィア先生。そしてわたしの手を引いてくれた、つよくやさしいひと。

 わたしはきゅっとこぶしを握ると、やっとの思いで顔を上げた。

 はい、と答える。

 はい、フィア先生。わたし、きめました。

 聖メイティル教会付属看護学校へ、ゆきます。


 *


 エスペリアを発つまでのひと月は急ぎ足に駆け抜けた。

 フィア先生――「オフィーリア妃殿下」というより「フィア先生」と慣れ親しんだ名前でわたしはどうしても呼んでしまうのだけれど、フィア先生に聖メイティル教会付属看護学校への進学を報告したわたしは、まだ王都に滞在していた学長さんを直接訪ねて、遅れてしまった入学同意書を渡した。聖メイティル教会付属看護学校のあるハイネスは、王都からは汽車で三日もかかる国境の僻地である。学校で勉強をする三年間、わたしは長期休暇の帰省を除いて王都に戻ることができない。

 友達や家族とも会えなくなりますよ、という学長さんの厳しそうな青い眸を見つめて、わたしは顎を引いた。無論、聖メイティル教会付属看護学校への進学を希望するときに心に決めたことだった。

 四年生の修了証をもらったわたしに、リーアたち級友たちはささやかなお別れ会を開いてくれた。すでに軍学校へ進学してしまったゼノンには会えなかったけれど、噂を聞きつけたらしい彼はわたしに手紙を送ってくれた。


『がんばれ、ブランカ』


 美しい針葉樹林のスケッチとともに入っていたのは、彼らしい短い一文。

 それを大事に畳み直すと、リーアが庭の胡桃で作ってくれたお守りと一緒にトランクの中にしまった。

 リユンとは、あれ以来きちんと話せていない。故意なのかもしれないし、単に仕事が忙しいからなのかもしれない。けれど、あの晩以来、リユンが帰宅するのは深夜過ぎになることが多く、わたしは彼を待っているうちにソファの上で眠り込んでしまうことがほとんどだった。朝、目を覚ます頃には、彼は家を出てしまっていて、ただ毛織のブランケットがわたしの身体にかけられている。一枚のブランケットときれいに片付けられている夕食のお皿が、リユンがこの家に帰ってきているという頼りない証だった。

 リユンは怒ってしまったのだろうか。

 四年前、御主人様の奴隷に過ぎなかったわたしに名を与え、手を引き、エスペリアまで連れてきてくれたのは彼である。どころか、卑しい異国の娘を養女にし、惜しみない愛情を与えてこの歳になるまで育ててくれた。わたしの、養父。リユンは怒っているのかもしれない。恩に報いず、彼の意に添わなかったわたしを。許せないのかもしれない。もう、許してくれないのかもしれない。ひとりきりでハイネス行きの準備をしていると、そんなことばかりが頭をよぎって、わたしは悲しくなった。

 長卓がいっぱいになるくらいの料理を用意し、今日こそは帰ってきてくれるのではないかと淡い期待を抱いてリユンを待つ。時計はいつも緩慢に九時を過ぎて、十一時を過ぎ、やがて窓の外では日告げの鐘が鳴った。くすん、とわたしは抱えた膝に顔をうずめてしゃくり上げる。そうしているうちに泣き疲れ、気だるいまどろみに沈むのがこのひと月の常だった。

 夢の中で、今よりずっと小さくなったわたしはエディルフォーレの森でリユンを探し、ひとり彷徨い歩いていた。探しているひとの背中はいつまで経っても見つからない。りゆん。りゆん。かすれる声を張り上げ、彼を呼ぶ。そのうち力尽きて、倒れ臥したわたしに、しんしんとエディルフォーレの真白い雪が降った。

 ――ぶらんか。

 視界が閉ざされる間際、あいするひとのくるおしいくらいの呼び声が聞こえたのは、わたしの願望が見せた幻だったのだろうか。


 *


 出発の朝は、わたしを待たずにやってきた。

 ハイネス行きの汽車は早朝にセント・トワレ駅から出発する。わたしは鎧戸を開いて、まだ夜明け前のエスペリアの街を見下ろし、澄んだ空気を深く吸い込んだ。散り初めの白い花が飾る石畳の坂道はまっすぐに伸び、その果てにそびえる緑の丘には御伽噺に出てくるような古城が見える。若葉の吐息をひそめた朝のにおい。ここから見える景色を瞼裏に焼き付けようとそう思う。

 ラフトおじさんやポルコさん、級友たちにお世話になった先生、隣の奥さん、サイ家のひとびととはすでに別れの挨拶を済ませていた。

 あなたがいなくなってせいせいするわ、とフローリアさんには最後までつんとそっぽを向かれてしまったけれど、エルンさんは訥々とした言葉でわたしをたくさん励ましてくれた。ラフトおじさんはわたしの選んだ道を祝福してくれたあと、気に入っていた異国の鈴をお守りにくれ、ポルコさんはお手製のミルク粥を二杯もご馳走してくれた。出発の前日、最後にハルシオン先生に短い間のお礼を告げると、わたしは裏庭のまだ土の中で眠る種たちに水をやり、プラムや林檎の樹にさよならをして、校門をくぐった。

 鏡の前に立ち、この四年の間にずいぶん長くなった灰かぶり色の髪で細い二本の三つ編みを結う。シンシアさんに餞別にと仕立ててもらったブラウスと深緑のフレアスカート。いつもより大人らしいそれらに着替えると、わたしは大きなトランクを引いて部屋を出た。しんと静まり返るリビングには誰もいない。リユンはもう出かけてしまったのだろうか。浅くうなだれて、わたしはトランクを持ち直す。


「ブランカ」


 声は、背後からした。驚いて振り返ると、軍服に着替え終えた養父が立っていた。今はまだ六時前だ。目を瞬かせたわたしにリユンは微笑み、おくるよ、と言ってトランクを持ち上げた。

 有無を言わさず歩きだした養父をわたしは戸惑いながら追う。

 彼の手が鞄で塞がっていたので、鍵はわたしが閉めた。返したほうがよいのだろうか。鍵を握り締めて考えているうちに彼が階段を下り始めてしまったので、少し悩んだ末、スカートのポケットに入れる。

 夏とはいえ、エスペリアの朝は肌寒い。小さく震えたわたしの肩へ、ふと大きなコートがかけられた。染み付いた煙草の苦い香がふんわりくゆる。ベージュ色のそれはリユンが軍服の上に羽織っている夏用のコートだった。肩から危うくずり落ちそうになった男物のコートを引き寄せて顔を上げたわたしに、リユンは無言のままに手を差し出した。驚き、目を瞠る。ずっとずっと、繋げていなかった手だ。そして、ずっと繋ぎたかった手だった。ぎこちなく伸ばして、きゅ、と指先を握りしめたわたしの小さな手をリユンの骨ばった大きな手のひらが包む。そして、力強く引かれた。

 夜明け前のエスペリアの道をわたしたちは手を繋いで歩く。

 夜の翳りを未だ引きずる街に、わたしたち以外の人影はない。若葉を茂らせたリラの樹を仰ぎ、まだ花をつけてない金木犀の側を通り過ぎる。不意にわたしの脳裏に、初めて学校へ通った日のことがよぎった。

 今よりもずっと背も小さく幼かったわたし。肩につくくらいの長さの髪でふたつのお下げを結って、不安でたまらない顔をして歩いている。その手を引いてくれたのはリユンだった。

 学校に慣れるまでは、時間がかかった。あの頃のゼノンは意地悪で、わたしは大事なノートを破られてしまった。先生に叱られてうなだれて帰った、あの日もリユンはわたしの手を引き続けてくれた。

 御主人様と再会して、間違いを起こしかけた日も。エスペリアにやってきた夜、たまらず泣き出したときも。リユンは、手を繋いでくれた。さみしくないよ。もう、さみしくないよ、ブランカ。そう言って何度でも手を繋いでくれた。そして、今も。

 地平線の向こうに朝の光が射す。空が明るい。セント・トワレ駅の駅舎に入ると、人気のないプラットホームに停まる大きな汽車が見えた。

 別れが、近づいているのだと知る。

 けれど、わたしは顔を上げることができない。

 リユンがわたしの手を引き歩く間も、チケットに印字された乗車席を探してくれる間も、ただ繋いだ手を握り締めているだけで顔を上げることができなかった。乗車する車両の前にたどりついたリユンがトランクを中に運ぼうと汽車の扉を引く。ついに、わたしは足を止めた。わたしが動こうとしないことにリユンもまた気付いたらしい。


「ブランカ?」


 不思議そうに呼んで、わたしの顔をのぞきこむ。そして、藍色の眸を瞑目させた。

 顔をくしゃくしゃにして、わたしは泣いていた。繋いでいないほうの手をきつく握り締めていないと、せり上がる嗚咽が咽喉をついてしまいそうだった。それでもこらえきれず、肩を震わせてしゃくり上げたわたしを、彼は柔らかく眸を細めて見つめた。


「ブランカ」


 優しい声がわたしを呼ばい、ぽろぽろと頬にこぼれる涙をぬぐった。彼は昔から涙をぬぐうのがうまくない。不器用な手つきで、わたしの涙をひとつひとつすくってくれようとする。


「キミはとてもさみしがりやだから」


 リユンは苦笑し、わたしの頬を丸く包んだ。


「とても、とてもさみしがりやの子だから――」


 言い差して、彼はああちがうね、とわらった。


「……さみしいよ、ブランカ。さみしくなる」


 リユンの腕がわたしを引き寄せる。わたしの十五になってもまだ小さな身体は彼の大きな腕の中にすっぽり閉じ込められる。固い軍服に顔をうずめると、リユンの、少し苦い香りがした。いとしいその香りを吸って、わたしは声を上げて泣き出した。彼の胸にしがみついて、ゆきたくない、ゆきたくないと幼子みたいな駄々をこね、りゆん、ゆきたくないよ、と何度もしゃくり上げる。

 子どもに返ったみたいに泣き喘ぐわたしを、リユンは朝陽の射し込み始めたプラットホームでただ抱き締めていてくれた。少し苦い香りのする、あたたかな、おとこのひとの腕の中。ずっとわたしを守り慈しんでくれたその腕の中で、わたしは発車を告げるベルを聞いた。


 列車が動き出す。

 トランクを下ろすなり窓にすがりついたわたしは、プラットホームにたたずむ男のひとの姿を必死に追った。高らかな汽笛が上がり、列車はどんどん速度を上げていく。

 ――リユン。

 最後に目が合ったとき、彼は何かを言って、微笑んだ。

 ――いってらっしゃい、ブランカ。

 そう、聞こえた。

 セント・トワレ駅を出て加速する汽車の中、わたしはおぼつかない手つきでトランクを置き、シートに力なく座った。眦に残った涙をぬぐう。

 いってきます、リユン。

 別れてしまったひとに、胸の中で告げた。

 わたしの大好きな養父。あいする男のひと。彼のいない日々を、わたしは耐え抜けるのだろうか。不安に押し潰されそうで、何かをたぐるように窓を開く。まだ濡れた眸に映るエスペリアの空は、まばゆい夏の光をひそめてどこまでも蒼く、そして美しかった。

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