Episode , “Good-bye My Daddy” 7

 今日の朝食は、窓辺で水と陽をあげて育てた若菜のサラダに、溶いた卵と牛乳にひたしてバターで表面を焼き上げたトースト。それにラフトおじさんにもらった蜂蜜と木苺を潰して作ったジャムとを添える。お茶は南大陸の茶畑から摘まれたという少し渋みのある紅茶を。朝が弱いリユンのために濃い目に煮出してある。

 トーストとサラダをきれいに平らげ、食後の紅茶を嗜みながら新聞をめくるリユンの顔をわたしは手付かずのトーストを持て余しながらぼんやり見つめた。ときどき思いついたようにフォークを動かしてパンを口に運ぶのだけど、蜂蜜をたっぷりかけたはずのパンは砂を噛むような味がして、わたしは無理やり濃い目の紅茶でパンを飲み下した。


「……ブランカ? 具合わるい?」


 わたしの様子に気付いたらしいリユンが新聞から顔を上げて問う。大きな手のひらが熱をみるように額にあてがわれ、わたしは首をすくめた。吐息すらかかりそうなくらいすぐそばで藍色の双眸が自分を見ているのに気付き、いったいどんな表情をしたらよいのかわからず、わたしは大きな手の下で視線を彷徨わせた。


「熱はないみたいだけど、」


 呟いてリユンは台所に立ち、温めたミルクを作ってくれた。蜂蜜で甘くしたミルクを両手に包んで少しずつ飲んでいると、洗い物を手早く片付けてくれたリユンがコートを取りながら言った。


「じゃあ行ってくるけど、ブランカ。具合がわるいなら、学校は休むんだよ。先生にはあとで僕から言っておくから。それと、夜食べたいものはある?」


 そう訊くからには今日の夕食は彼が作る気でいるのだろう。この忙しいひとが夕食時に帰ってくることが容易でないのをわたしはよく知っている。へいき、という意味合いで首を振り、それからわたしはリユンの軍服袖の折り返しを少しだけ摘んだ。


「はなしたいことがあるの。今晩。遅くなっても、ずっと待ってるから」

「話したいこと?」

「うん」


 それ以上は今は言いたくなくて、うなずくにとどめる。彼はしばらくうかがうようにわたしを見ていたが、やがて「わかった」とだけ言って、ソファのそばに洗濯物と一緒に置いてあった毛織のカーディガンを取った。わたしの頼りなげな肩をカーディガンでくるむ手つきはとても優しい。いってらっしゃい、と声をかけたわたしに、いってきます、と彼は曖昧に微笑ってドアノブを回した。



 学校には結局行った。食欲がないだけで、別に熱があるわけでも具合が悪いわけでもない。それに、フィア先生の後任になる先生のことも気になっていた。これまでは別のクラスを担当している先生たちが代わる代わるみてくれていたのだけれど、フィア先生が学校を去って二週間目の今日、わたしたちのクラスに新しい先生がやってきた。


「はじめまして、皆さん」


 最愛の師と別れてどことなく気落ちしているわたしたちの前に現れたのは、フィア先生とはまったく雰囲気の異なる、白いあごひげを生やしたおじいさんだった。


「ハルシオン=スピネルズです」


 穏やかな口調で告げて、先生はわたしたちひとりひとりの手に小さな種を握らせていった。


「私と君たちが大好きな花嫁に、お祝いの花を植えましょう。彼女の幸せを祈って」


 ハルシオン先生は眦を優しく細め、わたしたちを連れて裏庭へ向かった。

 初夏の庭には、訪れた遅い春を謳歌して花たちが咲き乱れている。かつて初めての授業でフィア先生が皆に植えさせた春告げ姫エスペリーゼもまた、花期はすでに終わっていたものの、柔らかそうな若葉を風に揺らしていた。

 くすんくすんと泣き出したリーアの手を引き、わたしは土を少し掘って手の中の種を植えた。それまで戸惑いがちにたたずんでいた他の子どもたちもわたしたちにならっておのおの種を植え始める。来年の春、今日植えた花たちはこの庭を美しく彩るのだろう。それが険しい道を選んで飛び込んでいったわたしたちの先生を祝福し続けてくれるといい。種に胸いっぱいの愛情を傾けながら、わたしは祈った。


「ブランカ=サイさん」


 放課後、リーアと別れたあと裏庭に回り、如雨露で花に水をやっていたわたしのもとへ、ハルシオン先生がやってきた。


「美しい庭ですね」


 とりどりの花たちを眺めて、ハルシオン先生は惜しみのない賞賛を贈る。はい、と未だに人見知り癖の治らないわたしは控えめにうなずいた。


「フィア先生からあなたことは聞いてますよ。引っ込み思案だけれど、ひと一倍頑張り屋のブランカさん。あなたが今、思い悩んでいることも」


 軽く瞑目したわたしに、「答えは出ましたか?」とハルシオン先生が穏やかに訊く。わたしは力なく首を振った。期限は間近に迫っていたけれど、この期に及んでわたしは未だリユンにわたしの話ができていない。

 あの夜会の晩以来、わたしたちの関係は決定的に何かが崩れた。まるで薄氷の上を歩くかのようで、互いが互いを探り合っている気がする。

 たとえば、朝一緒に学校へ向かうとき。以前よりもこぶしひとつぶん多く距離を空けて歩くようになった。ごはんとお風呂を終えておのおのの寝室に戻るとき。リユンは必ず自室の内鍵をかけるようになった。かちり。ドア越しにする乾いた音は暗にわたしを遠ざけるようでもあって、わたしは悲しくなってしまう。こんな状態。こんな状態のまま、話をすることにためらいがあった。けれどもう、そうも言っていられない。

 リユンは何故あんなことをしたのだろう。考えているとわたしの胸は潰れて、なんにも喉を通らなくなる。リーアに貸してもらった小説の中で乙女たちは恋を歌う。甘やかな胸の疼きを、頬を染めて語り合う。かつてわたしも、だいすきなひとに手を引かれて歩くそのとき、恋に染まって七色に光る美しい世界を見たはずだった。それなのに今、どうしてこんなに苦しい。こんなにつらいの。こんな恋ならしなければよかった。あのひとの娘のまま、あいされているほうがずっとしあわせだった。

 空になった如雨露を抱いてうずくまったわたしのかたわらに寄り添い、ハルシオン先生は何も言わずに肩に手を置いてくれた。


 学校を出たあと、二週間ぶりにシンシアさんの勤める服飾店のドアを叩いた。

 ドレスの御礼を伝えるのが遅れてしまったことを詫びてから、ラフトおじさんからもらった南国の珍しい花茶とそれに添えて焼いた黒砂糖を使った焼き菓子とを渡す。わたしが結局リユンとワルツを踊れなかったことを、シンシアさんは追及しなかった。ただ仕立てたドレスがとてもわたしに似合っていたと嬉しそうに語って、奥から茶器を三つ持って現れたオーナーさんを喜ばせた。

 オーナーさんやシンシアさんとお茶を味わいながら服やおしゃれの話をするのは楽しい。沈んでいた気持ちが和らいで、なんとはなしに離れがたい心地でいると、店の時計が六時を告げた。見れば、窓の外の空も暗い。

 後ろ髪を引かれながらも、シンシアさんとオーナーさんに別れを告げて店を出る。途中ラフトおじさんの雑貨屋さんで夕飯に必要な野菜や卵を買い込み、足早に家路についた。リユンが帰ってくる前に、夕飯の仕度を済ませなくてはならない。紙袋を抱えて階段をのぼり、ドアの前で首にかけていた鍵を引き寄せようとする。そこで微かな違和を覚え、わたしは思い直してノブを回した。かちゃり。扉はすんなり内向きに開き、中から漏れる光がわたしの足元に落ちる。リユンが、帰っているのだ。

 一緒に暮らして四年になるが、休日以外でリユンがわたしよりも先に帰っていることはめったになかった。


「ただいま。……リユン、いるの?」


 声をかけるが、返事がない。もしかして声が届かなかったのだろうか。不思議に思いながら、わたしはそっとドアを閉め、廊下を歩く。

 思いもよらず、リユンはリビングにいた。オイルランプがひとつ灯っただけの室内のソファに深く沈みこみ、手の中の紙に目を落としている。

 ただいま、ともう一度その背に声をかけると、リユンはようやく手元から顔を上げ、おかえり、と言った。声が硬い。理由はわからないものの、彼はひどく怒っているように見えた。わたしは戸惑い、かたわらの長卓に目をやる。そこには茶色の封筒が無造作に置いてあった。心当たりがあって、封筒を取り去る。表には、リユン=サイ宛の文字、そして裏には聖メイティル教会付属看護学校の差出人名が書かれていた。


「ブランカ」


 彼は目を落としていた書類をわたしの前に置き、低い声で言った。


「説明して」


 そこには一ヵ月後のセント・トワレ駅発車の汽車のチケット、そして聖メイティル教会付属看護学校の入学通知があった。


「あ……」


 これから話そうと心に決めていたことを、思ってもみないかたちでリユン本人から訊かれてしまい、わたしは動揺した。声にもならない声を落としたきり、言葉が出てこない。

 入学通知には、この夏からわたしが聖メイティル教会付属看護学校に通う旨と、寮への案内が載せられている。同じ書類は、わたしの机の抽斗の奥にも入っていた。一ヶ月前、フィア先生づてに受け取った。きっといつまで経っても承諾書を送り返さないわたしを案じた学校側が再度、今度は自宅に送ってきたのだ。けれど、何故よりにもよって今日なのか。わたしは声を失して、うなだれた。


「今日、そこの学校の学長に会ったよ」


 満足な答えを返せないわたしに痺れを切らしたのだろうか、リユンが言った。


「聖メイティル教会付属病院には僕の知り合いも何人かお世話になってる。病院のあるハイネスは王都から汽車で三日くらいの、エスペリアの西の最果てにある国境の街だ。セレナ学長は昔から付き合いがあって、今回は王都に出たついでに、僕のところにも寄ってくれたみたいなのだけど。学長が言うには、どうやら僕の娘がこの夏から付属学校に入学予定らしい。『彼女』は、数ヶ月前に受けた難しい試験をいちばんの成績で合格して、国立学校から看護学校に編入する予定なんだとか。ブランカ。それは、キミではないよね?」


 藍色の眸にまっすぐに見つめられ、わたしは口ごもった。

 その、とおりだった。彼の語る話に間違いはなかった。わたしは昨冬にかねてからの希望であった聖メイティル教会付属看護学校の試験を受け、それに合格した。入学はする予定だが、まだ決まってはいない。後見人、つまりわたしにとっては養父であるリユンに未だ承諾をもらっていないからだ。

 わたしは入学通知とセント・トワレ駅発の汽車のチケットを握り締めると、顔を上げた。ずっと、話そうと思っていた、けれど勇気が出せず話せないでいた、その報いが今、回ってきてしまったのだと思った。


「聖メイティル教会付属看護学校へ、ゆきたいの。リユン」


 心を決め、わたしは告げた。


「どうして?」


 彼の返事はそっけない。もしかしたらリユンは快く了承してくれるかもしれない。このひと月、抱き続けていたわたしの甘い期待は打ち砕かれた。それでも、ここで引くわけにはいかない。


「看護婦になりたいの」

「看護婦なら、王都の学校でいくらでも勉強できるでしょう。ましてキミの成績なら、どこだって。ブランカ。わかってる? 聖メイティル教会付属看護学校は数ある看護学生を育てる学校でも特殊なところで、」

「従軍看護婦になりたいの」


 わたしの言葉に、リユンは今度こそあからさまに顔をしかめた。「どうして?」とさっきと同じ問いを繰り返す。答えないわたしにリユンは細く長い息をついた。


「キミは僕がこういう職業についているから、思いついたのかもしれないけれど、やめなさい。戦場をキミは知らないでしょう、ブランカ。あそこはね、敵も味方もひとがみんな頭をおかしくする。キミは顔を半分なくして泣き喚く兵士に注射を打って死なせられるの。それだけじゃないよ。砦が落ちれば、捕虜にされることもある。慰み者にされることもある。キミにはとてもつとまらない」


 あえて残酷な言葉を選んで突きつけられているのだとわかる。わずかにひるんだわたしの目を見つめて、「おねがいだから」とリユンは眉根を寄せて懇願した。


「考え直して、ブランカ。キミを戦場に送りたくて育てたわけじゃないんだ」


 苦しげに吐き捨てるそのひとをわたしは何も言えずに見つめる。ふと、二年前、彼が戦場から腕を負傷して戻ってきたときのことが思い出された。メーヨーという暴れ馬の嘘を彼は最後まで貫いた。いつもそうしてわたしを守ってくれようとする、この優しいひとは。わたしのあずかり知らない場所で守ってくれていたものもきっとたくさんあったのだろう。それらを他ならぬわたしが踏み躙ろうとしているのかと思うと、胸が痛くてたまらなくなった。


「ブランカ」


 大きな手のひらが頬に触れる。わたしはか細く震えているらしい。リユンの手のひらが熱く感じるくらい、蒼白になっているらしかった。こめかみが痛んで、涙が溢れそうになる。わたしはぎゅっと手を握りこんでそれを耐えた。

 わたしは、知っている。リユンの右腕に今もなお引き攣った傷痕が残っているのを知っている。リーアのおとうさんが銃創がもとで足を失ってしまったことや、セーム曹長が軍医にかかれず死んでしまったこと。そしてわたしの大事な友人であるゼノンはいずれ士官となり、戦地に赴く。

 リユンがわたしの目を塞いでくれようとする、その指の合間からでも、それらは見えてしまった。わたしは。わたしは。あなたの、その痛いくらいの優しさをあいしていて。リユン。けれど、わたしはあなたに甘えるだけの無力な少女でありたくはない。

 わたしは頬を包む彼の手のひらにそろりと自分の手を添え、包むようにして、下ろした。


「ゆきたいの、リユン」


 謝ろうとは思わなかった。許しを乞おうとも。ただ泣きたくもなくて。せめて彼が安堵してわたしを送り出せるよう、毅然としていたかった。わたしは今にも嗚咽をこぼしそうになるのを頑なにこらえて、震え出しそうな身体を握り締めたこぶしで押さえつけて、あいするひとを見つめる。リユンはてひどい裏切りをされたかのような苦悶の表情をした。


「――少し、かんがえさせて」


 やがて吐き出すように言って、リユンはわたしの手を離した。俯き、ソファに深く沈みこむ。どうすることもできず、わたしはかたわらに置き去りになっていたままの紙袋を抱え上げた。さりとて、これから夕ごはんを作る気にもなれず、おやすみなさい、とわたしは男のひとの背に告げて、自室のノブを回す。


「……おやすみ」


 扉を閉める間際、深く重い嘆息の気配を感じた。わたしは閉じたドアに背をもたせ、ずるずると床に座り込む。ずっとこらえていた涙が溢れ出した。嗚咽が強張った喉をつく。わたしはベッドに突っ伏し、引き寄せたセーム曹長にきつく顔をうずめて声を殺し、泣いた。



 いったいどれくらい泣いていたのだろう。遠くでドアが閉まる微かな音を聞いて、わたしは泥のようなまどろみから目を覚ました。

 窓から差し込む光が強い。カーテンを開いて、まだ起き抜けのエスペリアの街を見下ろした。東から昇った太陽が石壁の多い街を薔薇色に染めている。わたしはたぶん赤く腫らしているのだろう目をこすると、覚悟を決めて部屋の扉を開いた。

 リビングに、リユンはいなかった。すでに家を出てしまったのだろう。見れば帰ってきたとき椅子にかけられていた夏用のコートもなくなっていた。昨晩、彼が座っていたソファにはひとが長く座ったときにできるいびつな痕がついており、ソファの前のテーブルには灰皿とたくさんの吸殻が残っていた。

 視線をめぐらせ、長卓のほうに一枚紙が置かれているのに気付いた。書き置きかと思ったが、そうではない。一度潰されてくしゃくしゃになったそれは、聖メイティル教会付属看護学校の入学通知だった。震える指先でそれをつかんで、わたしは弱い嗚咽を漏らす。抱き寄せて、目を閉じた。

 そこには、リユン=サイのサインが走り書かれていた。

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