Episode , “Good-bye My Daddy” 6

 驚いてしまった。

 件の花嫁が、リユンのお姉さんにあたる女性が、わたしの知っているフィア先生だなんて考えもしなかったから。そもそも、ふたりが今までわたしの前で姉弟のように振舞っていたことがあっただろうか。わたしが食卓で学校の話をするとき、リユンがフィア先生は自分の姉であると明かしたことは。

 記憶をたどってもそんな片鱗は見当たらなくて、けれども一方で、やっぱり、とわたしの心の一部は納得してしまってもいる。

 フィア先生は、リユンを常に「リユン」とファーストネームで呼んだ。皆のように「将軍」と呼ぶのではなくただ「リユン」と。それに、わたしが国立学校に入学した日、フィア先生と話すリユンは初めから親しげで、とても初対面という雰囲気ではなかった。道を見つけたと言って、学校を去ったフィア先生。先生の見つけた「道」は、この国の王妃だったのだ。


「ブランカ」


 気付けば、銀獅子王、次期王妃の挨拶も、ふたりの優雅なワルツも終わり、再びオーケストラの奏でる緩やかな音楽とともに、招待客は談笑を始めていた。フィア先生の思わぬ登場で退出しそびれてしまい、壁際でひとりぽつんと立っていたわたしは、近づいてくる純白の影にふと顔を上げた。


「フィア先生」

「ちょっとあんたの隣にいてもいーい?」


 挨拶の合間に抜け出してきてくれたらしい。フィア先生は襞のたっぷり入った重たそうな純白のドレスを持ち上げると、近くにあった長椅子に腰掛けた。華やかな化粧で隠しているけれど、普段の溌剌としたフィア先生を知っているわたしには、今の先生はどことなく疲れて見える。わたしは小さくうなずいて、フィア先生の隣に座り、先生のほんのり火照った頬に手をあてた。


「せんせい、だいじょうぶ?」

「ぜーんぜん大丈夫じゃないわ。先生はお疲れよ」

「……びっくり、した」

「でしょうね」


 フィア先生は艶やかな紅を刷いた唇に笑みを載せ、わたしの肩に頭をもたせた。後れ毛が少しかかった白い首筋から薔薇の花を思わせる香水が微かにくゆる。耳たぶに挿された真珠の耳飾。先生はとてもきれいな花嫁さんだった。


「別にね、あんたを騙したかったわけじゃないのブランカ。ただ、あんたとはきっちり先生と生徒として向き合いたかった、伯母と姪じゃなくね」


 リユンに口止めしたのはあたしよ、とフィア先生は明かす。


「フィアはあたしの子どもの頃からの愛称。あんたはわかんないかもしれないけど、オフィーリアってね、いかにもご令嬢ってかんじの長ったらしい名前なのよ。だから、サイ家を飛び出して先生になるって決めたとき、名前はただのフィアにしたの。フィア=ローゼン。ローゼンは前の旦那の姓ね」


 シンシアさんから確か「オフィーリア姉さん」は二度の結婚と離婚を繰り返したと聞いている。どちらのほうのだろう、となんとなく考えて、わたしは首を振った。この花嫁さんにはきっと聞いても栓のないことなんだろう。


「怒ってる? ブランカ」


 考え事をするとき、周囲に気をやれなくなってしまうのはわたしの悪い癖だ。浅く相槌を打つだけのわたしを案じたらしい。気丈さのうちに弱い不安が見え隠れする声で、フィア先生が問うた。わたしは肩に頭をもたせた花嫁さんを見つめて、ふんわり微笑む。


「とてもきれい。せんせい」


 気だるげに伏せられていた藍色の眸がわたしのほうを見て瞬く。とてもきれいです、と頬を紅潮させながら繰り返すと、フィア先生は急に唇を引き結んで拗ねたような表情で目をよそにやった。それが照れ隠しをするときのフローリアさんとおんなじ表情で、わたしはおかしくなってしまう。先生でないオフィーリアさんは、とってもかわいいひとだ。フィア先生もオフィーリアさんも、同じくらいわたしは好きになれる気がした。


「オフィーリア様」

「今行くわ」


 呼びに来た老紳士を軽く手を振っていなし、フィア先生はおもむろにわたしの肩を引き寄せる。びっくりして目を瞬かせたわたしの背に腕を回して、あんたはね、ブランカ、とフィア先生がそっと囁いた。


「とびきり魅力的な女よ。あんたを四年見てきたあたしが断言する。だから顔上げなさい、胸張んなさい。あんたはとびきり美しくなれる、ブランカ。あたしの自慢の教え子」


 わたしは瞬きを繰り返してフィア先生を仰ぐ。それに大輪の薔薇が華やぐように微笑んで、フィア先生は純白のドレスの裾をふわりと持ち上げた。

 老紳士に付き添われて、銀獅子王のもとに向かうフィア先生の横顔にはすでに先ほどの疲労の色はない。輝くばかりの次期王妃の姿がそこにあるだけだった。わたしだって知っている。先生がとても強くて愛情深い先生だったこと。内気なわたしにとって、凛と教壇に立つフィア先生はずっと憧れだった。

 わたしは俯きがちだった顔を上げる。

 飾り鏡に映るわたしはやっぱり今にも泣き出しそうな娘で、さっきの赤薔薇の女性と並んだら霞んで消えてしまいそうなままだったけれど。

 口を引き結び、涙の滲んだ目元を拭った。少し乱れてしまったドレスや髪を直し、チュールの裾を翻す。白磁の花瓶を見つけて、とりどりに咲き綻ぶ花の中から迷わず一本引き抜いた。真紅の薔薇。その手の機微に疎いわたしにだってわかる。赤い薔薇は愛情の証。本来、娘が養父に捧げるべき花の色ではない。

 リユンを探そう、とわたしは思った。自信なんてないけれど、まだ、不安で不安でたまらないけれど、でも、リユンを探そう。だって、この花は。このあかいあかい花は、リユンのために咲いたわたしの花だから。

 学校ひとつぶんの広さはありそうな大広間を、わたしはリユンを探して彷徨う。談笑する貴婦人たち、グランドピアノの前で語り合う男女、テラスにバルコニー。けれど、わたしの探すひとはちっとも見つからない。

 常より重い衣装をまとって慣れないミュールで歩きまわるのは、わたしのなけなしの体力をひどく消耗させた。クリスタルガラスを吊り下げたシャンデリアに何千もの蝋燭を並べた広間はひといきれも混じって独特の熱気に包まれており、わたしは足を止めたはずみに軽い眩暈を起こしそうになる。よろけて、とん、と固い胸にぶつかった。


「すいません、」


 驚いて身を離し、謝ろうとすれば、相手の男性はわたしを一瞥するなり手首を取り上げて、早口で何かを話しかけてきた。容姿からするに、どうやら純粋なエスペリア人とは違う、混血であるらしい。いちおうエスペリア語らしきものを喋っているが、訛りがひどくて、エスペリア育ちでないわたしにはほとんど聞き取れない。

 彼はもうひとり体格のいい男性とふたり連れだった。リユンのものとは少し異なるが、軍服らしき正装をしている。自分よりもずっと大きなふたりの軍人さんに淡い恐怖を感じ、わたしは会釈だけをしてその場を逃げ出そうとする。そこへ相方の軍人さんが立ちはだかった。すでにお酒を入れているらしく、赤ら顔をしたふたりは何がしかを機嫌よさそうに言い立てて、わたしの肩に手を添える。

 こういうときのわたしはひどいでくのぼうで、相手の手を振り払うことも、嫌だと口に出して拒むことすら、怖くてできなくなってしまう。腕に抱いていた薔薇を知らず胸に引き寄せると、それに気付いた最初にぶつかったほうの軍人さんがわたしの手からするりと薔薇を抜き取った。


「かえして」


 それはリユンにあげる花だ。そのためにずっと抱き締めていたわたしの花。

 泣きそうになってわたしが追いすがると、軍人さんは鼻歌交じりに薔薇の花を手折って自分の胸ポケットに挿してしまった。わたしは悲鳴を上げる。だって、折られてしまった。折られてしまった、わたしの花。替えの花が花瓶にいくらでもあるのは知っていたけれど、まるで今までずっと温めていた自分の恋ごと踏み躙られた気がして、わたしは深く傷ついてしまう。シャンデリアの下で舞う男女を指してふたりは笑い、動かぬわたしの腕を引こうとする。


「その子を離してもらえる?」


 それを、背後から回された別の腕がはばんだ。驚きすくんだわたしの身体をふうわり引き寄せ、腕の主が冷ややかに相手を睥睨する。


「サイ将軍!」


 ふたりが目を丸くさせ、揃って敬礼をした。


「わからなかった? この子嫌がってたでしょう。それでも、この子にワルツを申し込みたいなら、ふたりまとめて外に出るといい。僕に勝てたら一曲くらい躍らせてあげるよ」


 リユンが手袋を脱ごうとすると、軍人さんたちは面食らった様子で首を振り合う。すっかり酔いもさめてしまったらしい。わたしに向けて直角に頭を下げ、彼らはリユンが顎でしゃくったのを見て取ると、軍隊行進さながらに逃げていく。

 ふぅ、と息をつき、彼は手袋に覆われた手をわたしの頬にあてがった。


「少し外に出ようか」


 返事を聞かずわたしを抱え上げたリユンは、副官のニコルさんに何かを言い置いて歩き出す。

 きらびやかなシャンデリアの下、異国の娘を抱いて歩く美しい軍人さんの姿はいやがおうにもひとの目を惹いた。あちこちから向けられる好奇の視線に耐えられなくなり、おろして、とわたしは小さく訴える。いやだよ、という彼の返事はにべがなかった。わたしの頭を胸元に引き寄せると、それで周囲の視線からは遠ざけてしまい、一階のテラスから外に出る。

 初夏の、すでに冷たくなった夜風が火照った頬を撫でた。風に乗って淡く薔薇の香りがくゆる。外は庭園となっており、エスペリアの月がしずやかに咲き初めの花たちを照らしていた。遠くから時折ワルツの旋律が聞こえるが、ひとはあまりいない。半球状のドームを持った四阿を見つけて、リユンは白亜のベンチにわたしを下ろした。


「ひと酔いしたんだよ、ブランカ。キミはこういう場所に慣れてないから」


 するりと手袋を抜いた手のひらをわたしの額に置き、リユンが囁く。少し走っただけで具合を悪くした自分が情けなくて、わたしは力なく肩を落とした。


「フィア姉さんのこと、驚いた?」

「……すこし」


 ごめんね、と苦笑するそのひとの優しい目の細め方に、わたしの胸は切なく締め付けられる。わたしは首を振った。

 つと、リユンの胸ポケットにまだあの女のひとが渡した真紅の薔薇が挿されていたのに気付いて、知らず指を伸ばす。軍服の、硬い布地に触れた。蜜紅で爪端を染めたわたしの指先はほんの短い間ためらい澱んでから、首をもたげていた薔薇の花を取り去り、足元へと捨てる。

 幼子のような独占欲だった。醜いおんなの、嫉妬心だった。それを知られたくなくて、不思議そうに上げられた彼の双眸から視線を逃がす。けれど、このときの彼は優しくなかった。ブランカ。呼ばう彼の甘い声がして、俯くわたしの頤に長い指先がかかる。


「こっち見て」


 ――わたしは。混乱し、憔悴しながらわたしは。花を探していた。

 大事に抱えて、盗られてしまった赤薔薇の代わりを。

 四阿の床に落ちた影に気付いて、わたしはシンシアさんにきれいに結ってもらった髪から白い花飾りを引き抜く。はずみにほつれた髪房が一房はらりと首筋にかかった。夜気が肌を撫でて、わたしは小さく震える。こわくて。しんぞうがつぶれてしまいそうで。今にも泣き出しそうになるのを必死にこらえて、わたしは伏せていた睫毛をふわりと上げた。


「わたしと、おどって。りゆん」


 やっとの思いで告げて、白い花の綻んだ髪飾りを差し出す。


「おどってほしいの……」

「ブランカ」


 わたしを見つめる男のひとの顔が歪む。その声にひそむ常とは異なる熱にこのときのわたしは無自覚だった。顎に添えられていた指がわたしの花を差し出す手首をつかむ。引き寄せて、ふうわり花びらに口付けられた。飽き足ることなく、口付けはわたしの手のひらへと降りる。つめたくかわいた唇。それがわたしのやわい肌をなぞって、甘く吸う。吐息が指のあいまをかすめ、思わずのこうとした手をさらに引き寄せられる。手首をつかんでいないほうの彼の手がベンチに広がるわたしのドレスを縫い止めたとき、わたしはついに花飾りを取り落とした。

 はずみに解放された手をぱっと胸元に引き寄せる。呼気が乱れて、うまく息が吸えない。わたしは、ただ驚いていた。変容した彼の濃厚な男のひとの気配に驚き、戸惑っていた。萎れた花のようにうなだれたわたしの視線の先には、取り落とした白い花飾りが所在無く横たわっている。それを拾い上げて、ブランカ、と彼はわたしを呼んだ。混乱しつつもわたしはおずおずと顔を上げる。おそらく頬に触れようとしたのであろう指先にわたしが身をすくめると、それは乱れた髪を代わりに直した。


「戻ろうか」


 埃を払った花飾りを髪に挿される。そのとき垣間見た彼は痛ましげな子どものような表情で、宮殿の中では未だワルツが流れていたけれど、わたしたちが手を取り合って踊ることはなかった。

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