五 エスペリア歴891年 (四)

 負傷兵たちを率いて砦を抜けると、ちょうど左方の舟橋が燃えながら川に落ちていくのが見えた。そこに、コーネイン将軍の姿があったかどうかは定かではない。

 リユンたちは、水路を伝って外へ抜け出るルートを選んだ。

 付近を以前、マハリ少尉の一派が探索していたのを思い出す。あのときは判然としなかったが、ここにきて理由がわかった。外へ繋がっている水路と浮かべられた幾艘もの舟。それらはエディルフォーレの手引きした者たちが砦からの脱出用に準備していたものにちがいない。舟はいくつかがすでになくなっていた。砦への砲撃が始まった時点で、逃げ出したのだろう。

 マハリ少尉の一派が手引きの者であるとリユンは踏んでいた。

 もはや死地とも言えたフェビラ砦への輸送隊を自ら引き受け、とどまったことが証左だろう。この地に連れてきたこと自体が、マハリ少尉なりのリユンへの意趣返しであるにちがいなかった。

 しかし、状況はいまだ厳しい。砦を抜け出せはしたものの、川を繋ぐ舟橋が落ちたため、遥か迂回したルートからバルテローに向かわねばならない。エディルフォーレの追撃は執拗でこそないものの、それでもまばらな兵と出くわすたび、銃剣を取らねばならなかった。

 人に剣を向けたのは生まれてはじめてだった。殺したかどうかはわからない。倒れ伏した兵の生死を確かめている暇などなかったからだ。敗走のさなかに、幾人かの負傷兵は斃れ、リユンたちはその遺骸から食糧を取り、バルテローを目指した。祈りを捧げる暇も惜しかった。


 三日三晩歩きつめて、ようやく遠方にバルテローの砦が見えてきた。

 その晩は川辺で野営をした。フェビラ砦からはだいぶ離れたが、念のため焚き火はせず、見張りを置くだけにする。樹の幹に背を預け、リユンは目を瞑る。バルテローが近づき、少し気が緩んだのかもしれない。眠りは抗いがたい泥濘のように訪れた。

 ほんのひととき、眠っていたようだ。草の根を踏みしだく音がしたので顔を上げれば、レーヴェがこちらの隣に腰を下ろすところだった。


「サーネフが死んだ」

「そう」


 それは負傷兵のひとりだった。

 リユンは顎を引き、膝を抱え直す。


「手引きしたのはおそらくマハリ少尉だよ」


 思いついたことを口にしてみたが、レーヴェはそうか、と呟いたきりだった。もはやどちらでも構わないことだ。フェビラ砦は落ちた。ナグー平原はエディルフォーレに奪われた。バルテローで戦が始まるかはわからないが、この先もこの国はしばらく戦火が絶えないだろう。そんな暗い予感がよぎった。

 かさりと、微かな木の葉を踏む音がしたのはそのときだ。


「エディルフォーレの悪魔め!」


 背後の林から小柄な人影が飛び出してくる。相手は問答無用でレーヴェに向かって飛びかかり、ベルトから拳銃を抜いた。


「待て!」


 もみあったはずみに相手の手から拳銃が離れ、草むらに転がる。月光が射して、目を血走らせた少年の顔を映した。銃の代わりにナイフを抜いた少年は、それをレーヴェの喉元へと走らせる。何がしかを叫んで、リユンは草むらに転がった銃を拾った。

 ――ああ下手くそだな、教えてやるよサイ。

 そのとき、リユンの脳裏に蘇ったのは、場違いに明るい友人の声だった。

 定めて、リユンは引き金を引く。吐き出された銃弾は少年の後頭部にきれいに吸い込まれた。至近距離だった。間違えるはずもない。少年は二三度魚のように跳ねたのち、ぱったりと動かなくなった。

 しばし呆然として、リユンは動かなくなった少年の前にかがみこむ。肩の紋章で気付いた。それはエスペリアの少年兵だった。


「敵兵と思い込んでいたのか……」


 少年の手に握られていたナイフを取って、レーヴェが低く呻いた。

 リユンは少年の肩に手を添えたまま動くことができない。糸が切れたように、声を発することもできなかった。


「リユン」


 静けさをひそめた声が自分の名を呼び、引き金から外せなくなっている手のひらを包む。その手は雪をぬるくする陽みたいにあたたかかった。未だうまく動かせない五指の上からレーヴェがリユンの手を握った。


「……泣いているのか」


 頬を伝うなまぬるい何かがもはや血や脳漿であるのか、それともレーンが言うように自分の涙であるのかリユンにはわからない。ただ、瞬きすらせず虚空を必死に睨み付けていた。

 気付いて、しまったのだ。血と脳漿を浴びたシャツはもうとっくに自分のものではない血と体液を重たく吸っていたこと。割れた爪には固まった血が詰まり、泥と血で汚れた手のひらはこの数日の間にすっかり銃剣のかたちが馴染んだ。

 ――そう、だから。もう自分には帰る場所がない。

 橙色の蝋燭も、赤々と燃える暖炉の炎も、三段のチョコレートケーキ、下手くそなバースデーソングも。笑いあう兄弟たち。そんな情景はどこにもない。すでにうしなったものだ。もうずっと前にうしなっていた。家を出たあの日に、あの家に置いてきた、捨ててきた、もう取り返せない。帰る場所などない。行く場所が、あるだけだ。

 こぼれかけた嗚咽を殺し、リユンは赤く腫らした目で虚空を睨み続ける。そうでもなければ、足元に忍び寄る漠々とした何かに絡め取られてしまいそうだった。リユンはだから、虚空を見据えて、己のこぶしに爪を立てる。膝を折ってやるものかと、悲鳴を噛み殺しながら。


 *


 フェビラ砦の戦いはエスペリア史上、最悪と呼ばれる大敗を喫した。長く難攻不落を誇っていた砦は雪女王の前に陥落し、南部地区フェビラの奪還には以後二十年を待たねばならない。

 当時の総司令コーネイン将軍は砦を捨て、敗走したところを舟橋に火をつけられ橋もろとも川に沈んだとされる。将軍に付き従った手勢を含め、大きな犠牲を出した。史上最悪、と呼ばれる所以である。

 バルテローに砦を移して火蓋を切るかと思われた戦いはしかし、思わぬ形で終着を見た。エディルフォーレの東地区で大規模な奴隷による乱が勃発したためである。事態の対応に追われたエディルフォーレは、フェビラ砦を攻略したことでいったん兵を引き、エスペリアはさらなる苦戦をまぬがれた。この東地区の奴隷の乱について、エスペリアのオーリン公がひそかに焚きつけ役を担っていたとするものもあるが、資料に乏しく定かではない。

 ただし、戦終結の一年後、オーリン公はかねてから集っていた反シンミア派を束ね、第一王子レーヴェ=エスペリアの名のもとに王都で決起し、城を取り囲んだ末、国王代理シンミア=エクスペリアを訴追した。ここにおいて議会の多数の支持を得て、レーヴェ=エスペリア王が即位する。

 空白の十年は幕を閉じた。


 

 回廊に高らかな靴音が響く。この数年ほどですっかり馴染んでしまった紺の軍服に身を包み、彼は古城の回廊を歩いていた。途中でサーベルを預け、さらに奥深くの謁見の間に足を踏み入れる。彼の王はそこで以前と変わらぬ顔をして、肘掛けに頬杖をついていた。即位してすでに三年になるのに、彼の王は彼と相対するときいつも在りしの少年じみた顔をして玉座に座る。

 あの日もそうだった、とリユンは回想する。

 即位したレーヴェ=エスペリア王にリユンが呼び出されたのは、軍学校を卒業し、見習士官として戦場で功績を挙げ、帰ってきたあとだった。表向きは勲章の授与だった。謁見の間に向かったリユンはそこで懐かしい友人との再会を果たした。

 レーン。今は銀獅子王の名で親しまれるこの国の王、レーヴェ=エスペリアだった。

 ちょうど、春の暮れだったように思う。濁り硝子を嵌めこんだ窓からは柔らかな春の陽射しが入り、石床をまだらに染めていた。二言、三言義務的なやり取りを交わし、リユンが辞去の挨拶を述べたとき、ふと「リユン」と。懐かしい声がリユンを呼び止めたのだった。

 ――なあ、おまえは今もおまえの戦場を生きているのか?


「リユン=サイ」


 頭上から降った声に、リユンはつかのまの回想を切り、顔を上げた。


「バルテロー作戦の第三師団長を命じる。エネイ総司令のもとでバルテロー砦を守るとともに、フェビラを奪還せよ」


 リユンにとっては階級がひとつ上がることをも意味する。国王にわざわざ呼び出されたのはこのためでもあった。御意に、とこうべを垂れる。南部バルテローに向け、明日には出立の予定であった。ひとつふたつ話をしたあと、早々に辞去を申し出れば、ふと「リユン」と懐かしい声がリユンを呼び止めた。


「……おまえは、今もおまえの戦場を生きているのか」


 玉座に深く腰掛けた銀獅子王は、在りし日の少年の眸をリユンに向ける。それはとても懐かしい。懐かしいものだった。リユンは微笑う。


「すでにご存知でしょうに。我が王」


 かつて即位した親友を見据えて、リユンはこう答えた。

 ――キミがキミの戦場にいるかぎり、僕も僕の戦場にいる。そばにいるよ、レーン。最期まで。

 それは彼の王への誓約であった。また、あいする友への約束でもあった。かつて絶望に沈みそうだった自分の手を夜が明けるまで繋いでいてくれたように。レーン、キミを孤高の王にはしないのだと。

 濁り硝子のはめ込まれた窓から柔らかな春のまどろみの風が吹く。つかのまの回想は過ぎ去ったのか、彼の王は次の瞬間には玉座にふさわしい支配者の顔をして、彼に命じるのだった。――必ず俺のもとに戻ってこいと。

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