Episode , “Good-bye My Daddy” 2

 翌日、学校の帰り道にわたしはシンシアさんの勤めるお店へ寄ることにした。

 学校から市街地に出るには少し時間がかかるが、青天の下の初夏の散歩はそうつらいものではない。軽いステップを踏みながら、ひらりとワンピースの襟を撫でるそよ風のにおいに目を細め、淡紫の花びらを咲かせるリラの花と出会い、花枝にとまって蜜を吸う駒鳥と挨拶をする。

 やがて鉄と硝子のアーケード街にたどりつき、わたしはシンシアさんからもらった名刺を頼りにミシンの丸看板を探した。磨き抜かれたショー・ウィンドウに飾られているのは、バレエのチュチュを思わせるドレス。檸檬色のシフォンの向こうにシンシアさんのスーツ姿を見つけて、わたしはおそるおそる扉を開いた。


「いらっしゃい、ブランカ」


 振り返ったシンシアさんが溌剌とした笑顔を向ける。昨日真紅のルージュを刷いていた唇は、今日は明るいオレンジだ。パンツスーツであるのは変わらないけれど、化粧の仕方が少し違っていて、昨日よりも中性らしい印象が強くなる。

 こんにちは、と頭を下げたわたしに、「来てくれてありがとう」とシンシアさんが椅子を勧めた。

 店内に他にひとはいない。少し待ってて、と言い置いてシンシアさんが一度奥に戻ってしまったので、わたしは慣れない椅子に身を固くしながら店内を見回す。

 ショー・ウィンドウの前でマネキンが着こなすリラ色のデイ・ドレス。

 夜会仕様の、襟ぐりが大きく開き、巻貝のような流線を描いているもの。

 装飾品も多く置いてあった。ルビーを惜しげもなく散りばめた首飾りや、真珠に羽根をあわせた髪飾り。羊の毛で作ったショール。どれもがきらきらと輝いていて素敵だったけれど、わたしにはとても似合わない気がした。

 この何年かでわたしの身長はずいぶん伸びたものの、すらりとした長身の多いエスペリアのひとびととは違って、同世代の中でも頭ひとつぶん小さい。初潮を迎え、次第にまろやかな線を描きつつある身体も、女性というにはまだ薄っぺらく貧相だ。


「ブランカ」


 華やかにたたずむマネキンの前で浅くうなだれていると、シンシアさんの明るい声が背にかかった。オーナーさんに店を任せ、「こっちよ」と店の裏口を指す。わたしは昨日の砂糖菓子のお礼をオーナーさんにすると、肩掛け鞄を抱えて席を立った。

 

 案内されたのは、店の裏側に隣接した工房のほうだった。マネキンをいくつも飾ったおしゃれな店内とは異なり、工房は無骨な石造りで窓も安い濁り硝子を使っている。奥に古びたミシンがひとつあり、所狭しとさまざまな布地が置かれていた。


「汚い部屋でごめんね」

「いえ」


 少なくともわたしには整然とした店内よりもこちらのほうが落ち着く。知らず息を吐いたわたしに、シンシアさんがマグカップを渡した。甘いチョコレートの中に溶けかかったマシュマロを見つけてわたしは、あ、と口元を綻ばせる。それから、シンシアさんの優しげな視線に気付いて、また子どもみたいなそぶりをしてしまったと少しだけ後悔した。甘さと苦さの混じるココアをちびりと舐める。


「……おいしい」

「そう? よかった。オーナーが甘党なの。兄さんと一緒」


 シンシアさんは切れ長な眸を細めて微笑む。リユンは好き嫌いなく何でも食べるひとだけど、甘いものには昔から目がなく、休日にはわたしが焼いたクッキーやアップルパイをいつも蕩けそうな顔で食べてくれる。その顔を見ているのが好きで、わたしはポルコさんに習ってたくさんのお菓子を焼いた。

 シンシアさんに促されて木製の椅子に腰を落ち着けたわたしは、作業台らしき机のかたわらに古い写真が一枚飾られていることに気付いた。セピア色のそれに映るのは、端正な顔立ちをした男性と清楚な女性の姿、彼らに寄り添うようにたたずむひとりの青年とふたりの少年、四人の少女たち。まだ産着の赤子は女性の腕に抱えられている。

 家族写真だ。引き寄せられるようにわたしは写真立てに指を伸ばす。リユンの姿は、すぐに見つけられた。今よりもずっと幼い。歳はおそらくわたしが彼と出会ったときと同じくらいではないだろうか。そばで服の端を握る少女に柔和に微笑し、彼はそこに映っていた。


「リユン兄さんはその写真を撮ったあとすぐに家を出たのよ」

「え?」


 思いもかけぬシンシアさんの言葉に、わたしは目を瞬かせた。リユンがサイ家を出ているのは察していたが、まさかかつてのわたしとそう変わらない歳だとは思わなかった。物問いたげなわたしに微笑み、シンシアさんは写真立てを引き寄せた。わたしにも見えるように掲げて、「父様、母様、エルン兄さん。イアン兄さん」とひとりひとりを指差していく。


「父様は今は隠居なさっていて、エルン兄さんがサイ家を継いでいるの。イアン兄さんはその手伝いをしている。それと、フローリア。ああ、この子には一度会ったことがあるのよね。アリア。フローリアの双子の姉よ。レイディア。今は海外で勉強をしている。ミディア。夏に国立学校に入学するわ。オフィーリア姉さんは、一度目の結婚をしていていないわね」


 件の次期王妃となる女性の姿がなく、わたしは少しがっかりする。それにしても一度目の結婚、とは。


「姉さんは二度の結婚と離婚を繰り返しているの。苛烈で、手のつけられない獣みたいなひとなのよ」


 辛辣なようで、どこか愛情深くシンシアさんは苦笑した。


「この写真を撮ったあと、リユン兄さんは家を出て行ったわ。十歳だった。王都の軍学校に入学するって言ってね。父様に話したときはもう合格通知までもらっていて、だけどあの頃は今よりずっと国の中も外も不穏で、軍人を志望するなんて死ににゆくようなものだったから、家族はみんな猛反対だった。特にエルン兄さんはひどくてね。毎日喧嘩ばかり。リユン兄さんはおとなしくて、それまで絶対に父様や兄さんたちに逆らうことなんてなかったから、私びっくりしたのよ。このおとなしいひとのどこにそんな激情があったんだろうって。そして兄さんは家を出て行った」


 リユンがひとと激しく言い争う姿を想像するのは難しかったが、それでいてわたしは彼が一度そうと決めたら最後まで押し通す頑なさを持っていることを知っていた。

 本当はもっとたくさん知りたい。

 聞きたくてたまらない、リユンのこと。

 けれど、子どもであるわたしにはそれを推し量る術がなく、リユンもまたわたしが子どもであるがゆえに多くを語らないのだろうかとも邪推してしまう。

 ――はやく、おとなになれたらいいのに。

 不意にわたしはさっき華やかなドレスを見ていて考えたことをほろりと漏らしてしまった。おとなになりたいのに。あなたが娘だなんて思えないくらい、大人の女性に。けれど、わたしは未だ十五歳の少女で、懸命に背伸びをしても、なかなかリユンには届かない。

 あとどれくらい年を重ねたら、あのひとにふさわしい女性になれるのだろう。悲しくなってきて、わたしはゆるりと睫毛を伏せた。


「ブランカ」


 ふとシンシアさんが驚いた風な顔をしてわたしを見つめる。


「ねぇあなた、もしかして」


 その先をシンシアさんは珍しく言いよどんだ。首を傾げたわたしに微笑み、はずみにわたしの肩を滑った髪をひと房すくう。


「きれいなアッシュグレイね。結い上げてみてもすてきだと思う。髪飾りには本物の花を使うのはどうかしら。化粧をして、爪紅も塗って、首筋にはシプレの香水を一滴垂らす。きっとあなた、とってもきれいになるわよブランカ」


 わたしの手首を取ると、シンシアさんはふふっと悪戯っぽく眦を細めた。


「ブランカ。昨日も言ったでしょう? 服はあなたに魔法をかけるのよ。だけども、とびきりの魔法にするには努力が必要だわ。よければ、私と魔法の特訓をしてみない?」


 *


 ――魔法の特訓。そう称してシンシアさんがわたしを連れ向かったのは、郊外にある大きなお屋敷だった。てっきり、御伽噺に出てくるような不思議な塔か、あるいはどこかの洞窟へと連れて行かれるのだと思っていたわたしは、目の前に現れた、大きいけれど変哲のないお屋敷に安堵し、強張っていた肩の力を抜く。そして、別の意味で緊張した。

 古めかしい石造りのお屋敷は広大で、練鉄の門から屋敷の入り口らしき扉へは馬車か何かで通るために作られたとしか思えない広くて長い道が続いている。

 一騎、一頭立ての馬車が屋敷の前に止まっていた。門衛らしき男性に出入り用にしつらえたのであろう小さな扉を開かせ、シンシアさんは軽やかに道の真ん中を歩いていく。


「シンシアさん、」


 わたしは事の次第をうかがうべく、前を歩く女性をおずおずと仰いだ。そのとき、馬車のステップを踏んで降りてきた女のひとに気付いて、あ、と声を上げる。ウェーブがかった黒髪につば広の帽子をかぶり、日傘を腕にかけた女性もまた、大きな藍色の眸をわたしのほうへ向けた。


「ちんくしゃ! なんであなたがあたしの家にいるのよ!」


 わたしの鼻先に指をつきつけ、「シンシア!」とフローリアさんは声を荒げた。


「ちょっと、このちんくしゃ連れてきたのあんた?」

「口を慎みなさいな、フローリア。年頃のレディがはしたない」

「ちんくしゃをちんくしゃと言って何がいけないのよ。なんでこの子ここにいるの。もしかして、リユン! リユンが帰ってきたの!」


 ぱっと顔を輝かせたフローリアさんを、「残念だけどあんたが大好きなリユン兄さんは今日もお仕事よ」とシンシアさんがすげなく諭す。


「今度、姉さんの夜会で会えるんだからいいじゃない。兄さんの大事なおひめさまは私が連れてきたの。ああ、どうせあんたも暇でしょう。手伝ってくれない?」

「嫌よ、こんなちんくしゃ。顔も見たくない」


 フローリアさんはあからさまに機嫌を悪くした様子でふんとそっぽを向く。けれど、はじめて会ったときはただ怖いばかりだったフローリアさんのあけすけな物言いも、慣れてしまうとそう恐ろしいものではない。

 わたしは、相変わらず髪をくるくるときれいに巻いて、流行最先端のドレスで完璧なまでに身を固めているフローリアさんを仰ぎ、「こんにちは」と忘れていた挨拶をした。


「な、何よこんにちはって。こんにちはじゃないわよ、あなたなんか嫌いよ」


 勢いがそがれてしまったのか、フローリアさんはきれいな形の眉をひそめて、つんと背を向けた。


「お嬢様が失礼しました」


 フローリアさんのお付きらしい燕尾服の老紳士がわたしに頭を下げ、一糸乱れぬ足取りでフローリアさんを追いかける。


「早く入ってくれば!」


 呆けてたたずんでいるわたしに怒鳴って、フローリアさんは勢いよく扉を閉めた。眸を瞬かせたわたしに、「いらっしゃいって意味よ」とシンシアさんが耳打ちして、わたしの背を押す。

 足を踏み入れたお屋敷は、なるほど外観以上に豪奢だった。かつての御主人様であったスーリさんのお屋敷も、わたしにとっては息をのむほどに広く、華美なものであったけれど、ここはそれよりもさらに大きい。

 古く落ち着いた色合いの大理石の床と、頭上に吊り下がった透明な硝子製のシャンデリア。正面にしつらえられた階段には灰紺の絨毯が敷かれ、踊り場には銀縁の大きな肖像画がかけられている。とても、裕福な庶民の家という風ではなかった。年月をかけて作られた重みと洗練がどことなく漂う。


「サイ家は、エスペリア建国の頃から王家に仕えている古い家なのよ。ここもそのときから使っているものだから、湿気くさいし、黴臭くてごめんなさいね」


 シンシアさんは苦笑し、わたしを客間らしい別の部屋へと案内する。入り口があまりに豪奢なので、中もお城のような部屋ばかりが続いているのではないかと緊張したけれど、通された客間は思ったよりも質素だった。中央にマグノリアの花が描かれた絵が飾られている以外は調度なども特になく、ただからっぽの空間ばかりが広がっている。

 かろうじて置いてあったのは、紗のかけられた一基のグランドピアノ。シンシアさんは埃のうっすらかかった紗を取り去ると、ピアノの蓋を開いた。ぽーん、と鍵盤を押す。


「少し狂っちゃっているけど、まぁ問題はないわね」


 黒盤と白盤を戯れのごとく鳴らして呟くと、シンシアさんは状況をまるで飲み込めていないわたしに目を向けた。


「たぶん兄さんはあなたをあんまり表に出す気はないんだと思うんだけど。通常夜会では、歓談の合間を縫って、ワルツを踊るの」

「わるつ?」

「そう。今の学校ではダンスの授業はあるのかしら。ワルツは円舞ともいって、とても美しいダンスよ。アップテンポにスローテンポ、曲もたくさん作られていて、すべてを覚えるとキリがないけれど、基本だけはね。ブランカ、夜会ではね、花を挿した花瓶があちこちに飾ってあって、男も女もそこから一本花を引き抜いて、踊りたい相手に贈るのよ。相手が受け取ってくれたら、交渉成立。シャンデリアの下の輪に加わって、一曲踊る。それの繰り返し。遊びみたいなものなのだけど」


 シンシアさんの語る夜会の風景はきらびやかで、わたしにはとても想像がつかない。瞬きを繰り返すわたしに、「誰を、誘ってもいいのよブランカ」とシンシアさんが言った。


「もちろん誰も誘わなくてもいい。あなたに声をかける相手にうなずくのも、首を振るのもすべてあなたの自由よ。でも、ブランカ。あなた、ワルツのステップを知らないでしょう? まだ夜会まで時間はあることだし、兄さんには内緒で私と練習してみない?」


 思いもかけないシンシアさんの申し出に、わたしは驚き、戸惑った。だって、ワルツなんて。国王陛下の婚姻を祝う夜会だというのだから、当然ひとは多いだろう。高い身分のひとだってたくさんいるに決まっている。そんな場所で、わたしのような内気な娘がワルツを踊るなど、とても考えられなかった。


「ブランカ」


 俯いたわたしに、シンシアさんが優しい声色で、少したしなめるように言う。


「願うばかりじゃ、欲しいものは何も手に入らないわよ。あなた、このままずっと兄さんの〝可愛いおひめさま〟でいたいの?」


 はっと目を瞠る。顔を上げると、シンシアさんの深い眼差しがわたしを見つめていた。その目にすべてを見透かされていることを知って、わたしは頬を熱くする。

 ――どうして。なぜ。

 いつの間に、気付かれていたのだろう。シンシアさんはたぶん、わたしの胸にひそめた恋を知っている。


「……ない、で、」

「ブランカ?」

「だれにも、いわないで……」


 押し潰されそうな胸に手をあてて、かろうじてそれだけを口にした。首を傾けたシンシアさんに、おねがい、とわたしは思い詰めた表情で乞う。

 誰にも知られたくない恋だった。大事で。とてもとても大事で。わたしにとっては、たったひとつの宝物のような恋だった。


「わかった」


 ほのかに朱に染まったわたしの眦にひんやりとした指先を触れさせて、シンシアさんは微笑む。


「ありがとう。うれしいわ、ブランカ。兄さんを好きになってくれて」


 ずっとずっと押し込めていた気持ちをすくいとってくれるひとがいたからだろうか。ぽろんと一粒わたしの目から涙がこぼれ落ちる。シンシアさんは困った風に微笑って、その一粒きりの涙を指ですくってくれた。

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