Episode , “Good-bye My Daddy” 1

 プラムの裏葉を透かした光が窓辺からしずやかに室内へと射している。先ほどから時は流れを止めたかのようで、足元に落ちた影は微動だにしない。沈黙を有する室内を時計の針だけがせわしなく動いている。


「一個、訊いていい?」


 やがて遠視用の銀縁眼鏡を外して、フィア先生は目を通していた書類を机に置いた。藍色の眸がひたとわたしを見据える。


「あんたはそれでいいのね? ブランカ」


 先生の問いは簡素かつ的確だった。わたしは息をひそめ、フィア先生を見た。フィア先生は組んだ手に顎を乗せ、わたしの答えを待っている。不意に、わたしの脳裏にさまざまな情景が蘇る。リユンに手を引かれエスペリアにやってきた日のこと。雪の丘にそびえ立つ古城と銀獅子王。それからの優しくいとおしい日々。ラフトおじさんの雑貨屋さんの不思議な音色を奏でる鈴や、ポルコさんの素朴なミルク粥の味。ゼノンやリーア、今は大好きな級友たち。フィア先生。そしてわたしの手を引いてくれた、つよくやさしいひと。

 わたしはきゅっとこぶしを握ると、やっとの思いで顔を上げた。

 はい、と答える。

 はい、フィア先生。わたし、決めました。

 はずみに目に入った光は痛々しいくらいにまばゆく、白く、けれどその先に微かな若葉の呼吸をもひそめていた。十五歳。初夏の季節、わたしは国立学校四年生の課程を無事修了し、五年生を迎えようとしていた。


 *


「ブランカ、今日少し時間はある?」


 久方ぶりのふたりで過ごす休日だった。ラフトおじさんにもらった珍しい東洋産の花茶を味わっていたリユンは、手にしていた新聞をぱさりと置くと、おもむろに尋ねた。茶器から葉を取り出していたわたしは彼の突然の誘いに目を瞬かせ、「お散歩?」と小首を傾げる。公園のマグノリアの花はちょうど今が咲き頃だ。今日は天気がよいし、昼ごはんを持ってピクニックへ行くのも素敵かもしれない。

 わたしがうきうきと昼ごはんの中身を考え始めていると、「ううん」とリユンは申し訳なさそうに首を振った。


「公園はまた今度。たまには街のほうへ出てみない?」

 

 ――街へ買い物に行く。

 普段、ラフトおじさんの雑貨屋さんでだいたいの用を済ませているわたしたちにとって、それはめったにないことだった。自然浮き立つ気持ちを胸にひそめて、わたしは半年前にポルコさんから譲ってもらったアンティーク調の化粧台の前で着る服を選ぶ。

 裾と襟にスカラップレースの縁取りがなされ、胸元のコサージュが愛らしい生成りのワンピース。とっておきの一枚を選び出し、わたしは椅子に座って櫛を取った。ときどきポルコさんに揃えてもらいながら、伸ばし続けたわたしの灰かぶり色の髪は、すでに背中にふんわりかかるくらいになっている。少し伸びた前髪には花をかたどったピンを挿し、最後に、化粧台の抽斗の奥に仕舞っていた小瓶へと手を伸ばす。

 少し前に戯れで買ってしまった、淡い花色をした蜜。

 唇に挿して使うものであったが、わたしのそれはもっぱら観賞用と成り果てており、人前で使えた試しはない。手中で無為に転がしつつ、わたしはためらいの息をつく。

 鏡の中には、まだ大人とはとても言えない、少女のわたしがいる。小瓶の蓋に指先を滑らせてから、わたしは首を振ってそれをまた抽斗の奥に仕舞い直した。


「いくじなしって思ってる?」


 ベッドの上で呆れた風な顔をしてこちらを見つめているセーム曹長に尋ね、だってきっと似合わないもの、とひとり言い訳をする。毛織のカーディガンと手編みのポシェットを肩にかけ、わたしは部屋を出た。


 初夏のエスペリアは美しい。

 街路に植えられたマグノリアの花は真白く開き、甘やかなにおいを方々にくゆらせている。たわいもない会話を交わしながら、わたしたちは並んで石畳の道を歩いた。リユンの手はポケットにしまわれている。わたしの手もまた左肩に提げたポシェットに何気なく添えられていた。わたしは咲き綻んだマグノリアの花を見上げる男のひとの横顔を見つめ、ポシェットからそろりと手を離してみる。強張っていた指先を解き、手を伸ばそうと試みるが、やがてその指を力なく下ろした。

 いつからだったか、わたしはリユンとうまく手を繋げていない。

 最初は手を繋ぐ日もあれば繋がない日もあって、それは釦をときどき掛け違えてしまうみたいに交互にやってきたのだけれど、徐々に手を繋がない日のほうが多くなり、今ではまったく繋がなくなってしまった。リユンはわたしを拒んだりはしない。原因はわたしのほうにこそあるのを、わたしは痛いくらい知っていたのだけども。

 ――ちりん。ドアの開閉とともに可憐に奏でられた鈴の音にわたしは伏せがちだった顔を上げる。優美な曲線を描くモダンな練鉄製の扉から現れたのは、侍従を従えた壮年の女性だった。磨き上げられたショー・ウィンドウにはマネキンが並び、美しい襞を描くクリノリン・ドレスが飾られている。普段あまり目にすることのないドレスに、かわいい、と感想を言いかけ、わたしは彼の手が閉まりかけた扉の取っ手を引いていることに気付いた。


「リユン」

 

 驚いて彼の上着の裾を引く。すると、彼はわたしを安心させるように微笑んで、「間違ってないよ、ブランカ」とわたしをドアの内側へと招いた。ちりりんと硝子製の鈴がわたしたちの来訪を告げる。


「いらっしゃいませ。あら、リユン兄さん!」


 巻尺をしまっていた女性がこちらに気付いて華やいだ声を上げる。エスペリア人らしいすらりとした長身に、漆黒の髪と藍色の眸。髪を男性のようにばっさり襟首で切った女性にはどことなく既視感があり、あ、とわたしは思い当たった面影に驚きの声を漏らす。


「――当たり。一番目の妹のシンシアだよ」


 リユンは目を細めてうなずいた。


「シンシア。こちらはブランカ。僕の可愛いおひめさま」

「はじめまして。会えてうれしいわ、ブランカ」


 シンシアさんは真紅のルージュを載せた唇を綻ばせ、わたしに右手を差し出した。短い髪や細身のスーツのせいだろうか、どこか中性的な雰囲気を醸すひとである。はじめまして、とぎこちなくわたしが手を差し出すと、力強く握り返して、「噂どおりの愛らしいおひめさまね」とシンシアさんは少しかすれた低めの声で言った。


「今日は? 例の?」

「そう。この子にドレスを一着見繕って欲しいんだ」

「リユン、」


 思いも寄らないリユンの申し出に、わたしは大きく目を瞠らせる。だって、ドレスだなんて。一介の学生に過ぎないわたしがいつ着るというのだろう。


「実はね?」


 戸惑うわたしの視線を受けて、リユンは声をひそめる。


「レーヴェ王……僕らの王様が近く結婚をするんだ。お相手は僕の姉」

「おねえさん?」


 声を上げそうになったわたしに、しー、と人差し指を立てて、「まだ内緒なんだけど、」とリユンはそれとなく店内を見回した。幸いにも、店にほかにひとはいない。


「婚約を発表する式典がひと月後。夜会には僕はもちろんだけど、キミもお呼ばれされている。花嫁たってのご希望でね。……嫌かな、ブランカ」


 わたしが内気で人見知りをする娘であることをリユンはよく知っている。気遣いをこめた彼の問いに、わたしは悩みつつもふるりと首を横に振った。リユンはいつも、真摯にわたしの声に耳を傾け、わたしの意思を尊重しようとしてくれる。けれど、小国であっても一国の王様、あるいは時期王妃様からの招待を断るのは失礼にあたるに違いなかった。リユンのお姉さんが何故わたしをご所望なのかわからないものの、わたしは養父であるリユンに恥をかかせたくない。


「ありがと、ブランカ」


 リユンの手が幼い娘にするようにぽんぽんとわたしの頭を撫でる。それでも胸いっぱいに押し寄せる不安に勝てず俯いたわたしに、へいきだよ、と彼は明るい声で言った。


「夜会って言ったって、僕もいるし、シンシアやフローリアもいるから。何をするってもんでもないしね」

「そうよ、ブランカ」


 リユンの隣から顔を出したシンシアさんも同調する。


「任せて。とびきりのドレスを仕立ててあげる。知ってる? とびきりの服はね、女の子に魔法をかけられるのよ」


 ひとつウィンクをすると、「それじゃあ、まずは採寸ね」とシンシアさんはわたしの背を押した。


 普段、既製品やお下がりを繕い直して使っていることが多いわたしにとって、採寸から服を仕立てるのは初めての経験だった。シンシアさんは手際よくわたしの、十五になってほんのりと曲線を描くようになりつつも、未だ起伏に乏しい薄っぺらな身体を測っていく。すべてを終えると、作業台の上で何枚かの図面を書き出した。

 奥で湯を沸かしていたオーナーさんが淹れ立ての紅茶を持ってやってくる。他に職人さんはいないようだったが、気のよさそうな年嵩のオーナーさんは、眉根を寄せて唸っているシンシアさんをちらりとうかがっただけで口を挟むことなく、わたしに色とりどりの砂糖菓子を勧めてまた奥へと戻ってしまった。

 砂糖菓子は口に含むと、ほろりと淡雪みたいに甘く溶ける。それを紅茶と一緒に味わい、わたしは小さな店内に飾られた流行のクリノリン・ドレスや古風にペチコートを何枚も重ね、襞を作ったイブニングドレスを眺めた。


「色は何がいいかしらね。兄さん、何か意見ある?」

「男の僕にそういうセンスを求めないでよ。あ、肌はあんまり見せないのにして」

「何よ兄さん、エルン兄さんみたいな物言い。うーん、シェルピンク、パウダーピンク、可愛い色でまとめるのもいいけど、初夏だし、グリーン系も捨てがたいなぁ」


 わたしの若葉翠の目を見つめて、シンシアさんがほぅと息をつく。できれば、シンシアさんの力になれればと思うのだけど、服飾の知識に乏しいわたしにはどうにも想像しがたく、色と言われても首を傾げてしまう。そうこうしているうちに次のお客さんがやってきて、「ひとまず」とシンシアさんは鉛筆を置いた。


「次までにデザインをまとめておく。ブランカ、よければ今度、また来てくれる? あなたの話が聞きたい」

「わたしで、いいんですか?」

「あなたがいいのよ」


 シンシアさんは店の地図が書かれた名刺を渡すと、お皿の上に残った砂糖菓子を三つおみやげに包んでくれた。


「悪いね、忙しいときに」

「いいわよ。姉さんのドレスならもうできあがっているし。やらせて」


 職人さんらしく毅然と告げると、シンシアさんはわたしとリユンを店の外まで見送ってくれた。ちりん。涼しげな鈴音を立ててドアが閉まる。


 

「どうしようか。お昼でも食べてく?」


 アーケードの合間から射したまばゆい白日に目を細め、リユンはわたしのほうを振り返る。それで何かに気付いたらしい。おもむろに少し背を折って、わたしの額にかかった灰かぶり色の髪に触れた。


「ピン、落ちかかっちゃってる」


 ひんやりした指先がするりと花をかたどったそれを引き抜く。去年の聖夜祭に、リーアから贈られたピン。リユンはわたしの前髪をそっと押さえて、ピンを挿しなおした。男のひとの指先が乱れた髪を梳いて直す。低い体温の手のひらが頬をかすめると、心臓がとくとくと早鐘を打って、わたしは息をするのも苦しくなった。頬が熱くなっていくのがわかる。耐え切れず、わたしは目を伏せて俯いた。


「何が食べたい? ブランカ」


 ちいさな、ちいさなわたしの拒絶に彼は気付いただろうか。わたしの髪に触れさせていた指先を離し、リユンが歩き出す。少し乱された前髪を直すと、わたしは彼の背を追った。


 初めての恋を、十五歳のわたしは持て余してしまっている。 最初はただ、胸が弾んだ。彼と言葉を交わすことは楽しく、彼と過ごす時間は皆きらきらと輝いていた。手を繋ぐことも、髪に触れられることも、うれしくて仕方がなかった。

 そのうち、溢れる想いが口をついて出そうになった。

 だいすき。だいすき。りゆん。だいすきなの。

 たとえば、朝そのひとの無防備な寝顔を見つけたとき、新聞に目を落とす怜悧な横顔を見るとき、ただいま、そう言ってわたしの編んだマフラーを解くとき、わたしの胸にふっと水が溢れるようにそんな想いが去来して、わたしはたまらない気持ちになる。

 そして、花が萎むがごとくに恐れた。

 かつて、わたしに同じ言葉を告げてくれた友人にわたしは、ゴメンナサイ、と答えた。ごめんなさい。あなたの気持ちには、こたえられない。あなたはわたしの友人でしかないから。同じことを、リユンもまたわたしに告げるだろう。ごめんねブランカ。キミは僕の娘でしかない。僕の娘でしか。

 わたしはそれを、恐れた。この恋が暴かれたとき、きっとリユンとわたしのか細い糸のような繋がりも一緒に断たれてしまうのではないかと。だから、どうかまだ気付かないでほしい。あなたにくるおしいくらいの恋をしてしまったわたしに。

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