interlude 3

 セント・トワレ駅の汽笛が鳴っている。ゼノン=エストは乗車手続きの間降ろしていた旅行鞄を荷物棚に上げると、むっつりと指定の座席に座った。

 ゼノンは今日、十三年間生まれ育った街を離れて、東部の軍学校へと向かう。王都にも軍学校はあったが、それはごく一部の成績優秀者だけが入学できる狭き門で、ゼノンの中程度の成績だと東部がちょうどよいくらい、むしろ合格できたことに感謝しなければならない。家族とは家の前で別れの挨拶を済ませており、友人たちにも汽車の発車時刻は教えなかったから、セント・トワレ駅のプラットホームにゼノンを見送るひとはいない。友人たちはともかく、少し過保護なところのある母親などは駅まで見送りについてくると言ってきかなかったが、それは頑なな態度で拒んだ。何故かと問われれば、それはもちろん、

 ――泣きそうだからだよ!

 しかめ面で歯を食いしばり、ゼノンはそれでもなお熱くなりそうな目頭をきつく抑える。彼の生まれ育った街、王都エスペリーゼは今、駆け足の初夏を迎えようとしていた。冬の間街を厚く覆っていた雪はすでに溶け、まばゆい光が燦々と庇から射し込んでいる。その眩しさに目を細めつつ、ゼノンは級友たちとの別れを思い出す。

 三年間、ともに過ごした仲間たち。けれど、結局初恋の女の子にはぶっきらぼうに、じゃあな、と一言言えただけだった。そも、彼女には去年の冬期休暇の前、東部の軍学校の入学が決まったときに想いを告げて玉砕済みであるのだから、今さらじゃあな、以外に伝える言葉なんてないのだけども。苦い思い出が蘇ってきて、ゼノンは汽車の窓枠にこつんと額をくっつける。

 視界端にたなびくアッシュグレイの髪房を見つけたのはそのときだ。おかしなことに、あるときからゼノンはその女の子を見つけ出す天才になってしまっていて、どこにいても、何をしていても、彼女のことを考えていてもいなくても、近くにいるとすぐにわかってしまう。彼女の周りにはいつも淡い七色の光が舞っているかのようだった。


「ブランカ!」


 気付けば、勢い込んで立ち上がっていた。窓を開けようとしたが、安物の窓サッシは立てつけが悪くうまく開けることができない。舌打ちして、汽車のコンパートメントを出る。何事かと目を剥く乗客たちにはわき目もふらず廊下を駆け抜け、降車口からプラットホームに飛び降りた。少女は誰かを探しているようなそぶりできょろきょろとあちこちを見回している。


「ブランカ!」


 まさか違う……奴じゃないよな? 探しているのは俺だよな? 一抹の不安に駆られながら、彼女の華奢な肩をつかみ寄せると、ふんわり銀灰の睫毛を震わせたのち、「ゼノン」とブランカはほっとした風に微笑んだ。忘れていたはずの胸の高鳴りが急に押し寄せてきて、なんで、とゼノンは尋ねる。


「なんで、ブランカ。俺、この便だって言ってないのに」

「妹さんにきいたの。ゼノンに渡したいものがあって、」


 初夏らしい生成りのワンピースに身を包んだ少女は、その小さな背丈に合わない大きな布製の鞄をさげていた。そこからまず可愛らしいナフキンの包みを取り出し、「さんどいっちと、」次に大きな水筒を出して「紅茶と、」さらには初夏の今時分にはとても暑苦しげな「マフラー。東はさむいってきいたから。あとは……」次々に魔法みたいに取り出されていく品々に、さすがのゼノンも呆気にとられる。渡したいものが、と緊張した面持ちで告げた少女に、一瞬艶めいた何かを想像した自分は馬鹿なのだろうか。阿呆なのだろうか。

 あっという間に、腕いっぱいに水筒やマフラー、靴下に至るまでを抱えさせられてしまい、「あのさ、ブランカ」とゼノンは少女に待ったをかけようとする。彼女はもしや知らぬ間に自分の『友人』という立ち位置を『母親』か『姉』に書き換えてしまったのだろうか。


「あっ、それから」


 ゼノンの言葉を聞いているようで聞いてないのは彼女の常だ。いそいそとまだ何か取り出す少女にもういいよと言いかけ、見つけた翠の眸のひたむきさに一瞬言葉をつまらせる。少女がゼノンの手に握らせたのは、布切れを縫い合わせて作った、ちょうどゼノンの手のひらにすっぽりおさまるくらいの小さな袋だった。眸を瞬かせたゼノンに、少女はほろりと雪花が舞うように微笑む。


「おまもり。ゼノンの夢がかないますように」


 小さな袋はどうやらひとさしひとさし少女が縫ったものであるようだ。よくよく見てみれば、サンドイッチもマフラーも靴下もセーターも。ぜんぶ手作りだ。はにかんだ風に目を伏せる少女に初夏の淡い陽光が射す。微笑む女の子は風にそよめく小さな花みたいに可愛かった。

 たまらない気持ちになってしまって、腕に抱えたものごと少女の華奢な身体をぎゅうっと抱き締める。アッシュグレイの髪房がはずみに揺れて驚いた風に固くなる彼女の背に落ちた。――ああ、ちくしょう。こんなやつの。こんなやつのことなんか。


「だいすきだよ、ブランカ!」


 叫ぶ。そのとき彼女の肩越しに目に射した光がまばゆくて、ずっとこらえていた涙がぽろりと一粒頬を伝った。口の中に広がるしょっぱい味を噛み締める。だいすきだった。手に入らなかったけど、この先もたぶんずっと。翠の目をした、はにかみやで実は気の強い、いつもがんばっている女の子。

 背後で発車を告げるベルが鳴る。ずっとそうしていたかったのをこらえて、ゼノン=エストはこのいとおしくてたまらない初恋の女の子にさよならを告げた。

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