Episode , “Twinkle Star”
「鷲と酒樽亭」の裏にそびえるモミの木の頂には、ぴかぴかの金色をしたお星さまが飾ってある。他にも、縞模様のキャンディ・ケインやジンジャーマンクッキー、林檎のオーナメント。飾りつけられたモミの木を囲んでいる子どもたちを見つめ、わたしは憂鬱げな吐息を漏らした。凍った窓硝子を吐息が白く曇らせる。
待ちに待ったその夜を、わたしはポルコさんの家のベッドの上で迎えた。理由は語るにたやすい。真冬のエスペリアでかつての御主人様に折檻を受けたわたしは、身体のあちこちに打ち身や火傷を作っており、そのあと病院に行ってきちんとした手当てを受けたものの、患部の発する悪い熱に悩まされることになった。それでも、深刻な捻挫や骨折がなかったのが幸いと言えるのかもしれない。
あの晩、リユンに連れられて帰ってきたわたしを大きな腕で抱き寄せたポルコさんは「あんたはとても馬鹿な子よ!」とたくさんなじって、たくさん怒って、少し泣いた。
「こんなに心配させて。あんた、あたしの心臓を潰す気?」
ぐすっと鼻を啜ったポルコさんの頬に頬をくっつけ、ごめんなさい、とわたしは広い背中に回りきらない腕をやって謝る。
「ほらね、いっぱい心配されてた」
わたしたちを見ていたリユンが微笑い、わたしの灰かぶり色の髪を緩く撫ぜた。
――それももう少し前のこと。
追憶に想いを馳せ、わたしはしばらくモミの木に集う子どもたちを眺めていたが、未だ熱の引かない額に手を当ててもう一度息をつくと、ベッドに身を横たえた。こちこち。こちこち。外界と遮断された部屋の中では、時計の音だけがよく響く。枕元に置いてあったセーム曹長の人形を引き寄せて、わたしは目を閉じた。
「ブランカ? 起きてる?」
ドアを叩く微かな音に、かすれた声でうなずけば、ポルコさんが顔を出した。
「夕飯持ってきたわよ。具合はどう?」
「だいじょうぶ」
トレイには、ほかほかと湯気を立たせているミルク粥と生姜湯、それから赤い蝋燭を立てた小さな丸いチョコレート・ケーキが添えてある。
「ちょこれーと、」
目を輝かせたわたしに、「聖誕祭だものね」とポルコさんは人差し指を立てた。
「おとなしく眠っていたご褒美。ロスク先生には内緒よ」
かかりつけのお医者様の名前を持ち出して悪戯っぽく笑い、「食べられる?」とポルコさんが訊いた。わたしはこくんとうなずく。しばらく養生していたことが功を奏したのか、高かった熱は少しずつ下がって、今は食欲も戻りつつある。
よかった、と微笑み、ポルコさんは半身を起こしたわたしの肩に毛織のショールをかけた。甘いにおいを立てているミルク粥を匙ですくう。何年経っても変わらない、素朴でどこか懐かしいポルコさんの味が舌に蕩けた。
「……おいしい」
「そ? 残さず食べなさいよ」
どうやら、思ったよりもおなかがすいていたらしい。そう時間を要さずすべてを平らげて、デザートのチョコレート・ケーキのほうはポルコさんとふたりで分け合った。ケーキの中に埋め込まれた玩具の指輪を見つけたわたしに、よかったわねブランカ、と心優しい女主人はそ知らぬ顔をして笑う。
聖誕祭の「鷲と酒樽亭」は忙しい。ふたりきりのささやかな晩餐を終えると、ポルコさんはわたしに歯磨きをさせ、汗で湿ったネグリジェを洗い立てのものに着替えさせた。横になったわたしに暖かな毛布を何枚も重ね、氷水に浸した手巾を額に載せる。
「あら、それあんたがもらったの?」
ベッドから落ちかけたセーム曹長をわたしが抱き寄せたのを見て、ポルコさんが意外そうに問うた。わたしは浅く顎を引く。
数日前、わたしが病院へ行ったその日にリユンはちょうどロスク先生曰く「勝手に」退院した。荷物を詰めるのは手伝わせてもらえなかったけれど、ベッドの片隅に所在なく置かれていたセーム曹長に気付いて、わたしは継ぎはぎだらけの小さな身体を抱き上げたのだった。
「曹長さん、もらってもいい?」
衣服やたまった本を鞄に詰めていたリユンのシャツの裾を引き、尋ねる。わたしの申し出は思いも寄らないものであったらしい。藍色の眸を瞬かせ、リユンはわたしとわたしに抱かれたセーム曹長とを見やった。
「……ブランカ」
開きかけた口を閉ざすと、彼は長身を折ってわたしの前にかがんだ。
「悪友、なんだ」
ぽつんと落ちた声は思いのほか苦い。
「軍学校にいた頃からさ、落ちこぼれの悪戯好き。尖った鼻が特徴で、真面目くさった口調で冗談ばかりを言う。そしてリトルセームをとてもあいしてた」
訥々と語って、「大事にしてあげて」と最後に彼はくたびれた曹長さんの背中を押した。
一度官舎のほうへ戻ると言ったリユンとは、道の途中で別れてしまったけれど、少し離れた花屋で足を止めた彼が白薔薇の造花を一本買い求めているのを見つけて、たぶんあのひとは最初に教会墓地のほうへ行くのだろうな、とわたしは思った。
「だいじにするの。リユンのかわりに」
セーム曹長の身体を引き寄せて呟くと、ポルコさんは碧眼に驚いたような、それでいて深く慈しむような不思議な色合いを載せて、「あんたは強い子ね、ブランカ」と苦笑した。
曹長さんがどんな風に戦死したのかをわたしは知らない。けれど、きっと夜空のお星さまになってしまったのだと思っている。継ぎはぎだらけのセーム曹長の中にはリユンのかなしい気持ちがいっぱい詰まっているので、それはわたしが抱き締めて眠ることにした。
薬が効いてきたおかげもあるのだろう、そう時間がかからず訪れたまどろみの中でわたしは、頬に触れる男のひとの手のひらや、かじかんだ指先の温度を思い返したり、リーアたちと食べたクリスマスプティングや、ゼノンがくれたクリスマスカードのことをとりとめもなく考えたりした。そういえば、フィア先生の出した宿題はまだできていない。詩集の音読。裏庭のプラムの樹の下でゼノンと別れたあと、一度口ずさんでみた詩はどんなだったろう。
――大好きだよ。
そう、確かそんな一文で始まる。
――ブランカ。キミのことがすきだよ。わらうなよ。キミが、すきなんだ。
ふっと、天からほろりと雪が舞い降りたかのように、ゼノンの告げた言葉の意味に思い当たって、わたしは目を瞬かせた。まどろんでいた意識が急速に覚醒する。もともと火照っていた頬が真っ赤に染まっていくのが鏡を見なくともわかった。
うそ、そんなの、と否定しかけ、だけど、やっぱり、と級友の林檎みたいに染まった頬を思い出して確信する。どうやらあの日、プラムの樹の下で、わたしは生まれて初めて男の子に恋を打ち明けられていたらしい。
わたしは熱くなった顔を両手で覆い、枕に突っ伏した。心臓が脈を早める。こんなことは初めてだったから、どうしたらよいのかわからなくなった。毛布を頭までかぶって、わたしはきつく目を閉じる。こん、と控えめにドアをノックする音がしたのはそのときだった。
未だ混乱のさなかにあるわたしが答えないでいると、微かな扉の開閉音がして、部屋の中に長身の人影が滑り込む。つまみ螺子が回され、独特の饐えたにおいを発してオイルランプが灯った。頭にかぶった毛布からそろりと顔を出したわたしを見やって、「起きてたの? ブランカ」とリユンが笑う。木製の丸椅子を引き寄せてかたわらに腰掛け、シーツに落ちていた手巾を畳み直してわたしの額に載せてくれる。
「かお、赤いね。熱あがっちゃった?」
「……ううん」
リユンの手の下でぷるぷるとわたしは首を振る。わたしの異変には気付いていない様子で、「そう?」とリユンは首を傾げ、少し乱れた毛布を丁寧にかけ直してくれた。長いこと外にいたらしい彼からはさやかな雪の気配がする。
「……おかえりなさい」
遅まきにわたしが告げると、ただいま、といつものように言いかけてから、窓の外で響いた日告げの鐘の音に気付いて、ああ、とリユンは微笑む。
「メリークリスマス。ブランカ」
聖誕祭が、やってきたのだ。いちばんに教えてくれた男のひとに、わたしはくるまれた毛布の中で、めりーくりすます、と元気なく返す。できれば、今日までに身体を治して、聖誕祭の前夜はリユンやポルコさんと楽しく晩餐がしたかった。オーブンで焼いた七面鳥にクランベリーソース。きのこのシチューはパイ皮に包んで。リユンが好きなアップルパイにはシナモンを振った林檎をたくさん詰める。自分のせいではあったけれど、思い描いていたことが何ひとつ叶えられないのはやっぱりかなしい。
「クリスマスプレゼント、ありがとう」
消沈するのを隠せないわたしの頭を優しく撫でて、彼は言った。
「セーター。あったかそう。ポルコ姐さんもテーブルクロス、とても喜んでたよ。ツリーの下に置いててくれたんだ?」
うん、と頬を染めて顎を引くと、リユンはベッドに頬杖をついて、「キミへのプレゼントは今がいい? それとも起きてからのお楽しみにする?」と尋ねる。
「いまがいい」
「じゃあ、目を瞑って」
乞われるままに目を閉じる。小さな衣擦れの音のあと、いいよ、と告げる声に促されて目を開くと、枕元に座ったセーム曹長の腕の中で銀色のきら星が輝いているのを見つけた。まるで流れ星がひとつ空から滑り落ちたかのような。半身を起こして、星に触れると、指先に固く冷たい銀の温度が伝わった。
「……これ、髪飾り?」
「うん。そっちはセーム曹長から。僕からはこれ」
赤と緑のリボンで巻かれた包みを差し出される。わたしの手のひらにもおさまるくらいの小さな包み。
「あけていい?」
了解を取ってから、雪のまぶされたきれいな包装紙を開く。中の小箱におさまっていたのは、エディルフォーレの森を思わせる深緑色の胴軸をしたペン。万年筆だった。
「悩んだんだけど、キミにはこういうほうがいいかなあって。――どうでしょう、勉強熱心なブランカさん。お気に召してもらえた?」
「……うれしい、」
声はほろりとこぼれ落ちた。うれしい。万年筆も、髪飾りも。
「リユン、ありがとう」
もらったものを抱き締めて笑みを綻ばせると、よかった、とリユンが息を吐いた。
「……実は結構どきどきしてた」
「どきどき?」
「喜んでもらえなかったら、どうしようって」
冗談めかして言った男のひとに、わたしは微笑む。よろこばないなんてこと、あるはずないのに。そう、思ったから。頬に男のひとの指先が触れる。いつもより体温の高い肌を少し撫でてから、リユンは毛布を広げてわたしの身体をくるんだ。大きな手に寝かしつけられ、わたしはまたベッドの端から落ちそうになったセーム曹長を引き寄せた。それを見ていたリユンが藍色の眸を少し細める。
「――ね、ブランカ。どうして、わかったの」
ささめきごとめいた囁きを耳元に落とされ、わたしはリユンを仰ぐ。それは、星になったセーム曹長のことだろうか。それともあなたのついた優しい嘘のことだろうか。その両方を愛しく思ったわたしはまっすぐ彼を見てただ沈黙を貫いた。わたしの頑なさに苦く微笑い、リユンはわたしの額にかかった灰かぶり色の前髪を指先で梳いてかき上げる。夜のにおいのする影が目の前を覆い、ふわりと。雪がひとひら触れるような淡さでそれは額に舞い降りた。キス。
「おやすみ、ブランカ」
耳朶に甘やかな囁き声が触れ、影が離れた。そうして、まだらの光に染まる男のひとの指先が、オイルランプの螺子を回して明かりを落とす。
*
「ごめんなさい」
長期休暇の半ば。ようやくポルコさんから外出の許可をもらったわたしはゼノンの家に訪ねていって、いぶかしんだ顔をする級友にそう詫びた。何のはなし、とゼノンは面食らった風に眉をひそめる。わたしは長期休暇の前にゼノンがくれたクリスマスカードを差し出した。
「イミ、わかった」
「……それで?」
「ごめんなさい」
わたしが深々と頭を下げると、「だから、なんで」とゼノンは苛立たしげに呟いた。
「二度も言ってくんなよ。おまえ、俺に嫌がらせしてんの。昔の仕返し?」
次々と悪態をつく級友に、わたしは赤いマフラーを巻いた首をふるふると振る。ちがう。ちがうよ、ゼノン。でも、ちゃんと言いたかったの。あんな風な終わらせ方は嫌だったの。うまく伝えられず目の端を赤くして泣き出しそうになったわたしに、「もうなんだよおまえ」と吐き捨てて、ゼノンは頭をぐしゃぐしゃとかいた。
「――友達なんだろう、ブランカ。俺たち」
この間のわたしの言葉をなぞるように今度はゼノンが言った。
「ずっと、ずっと、ずぅっと、なんだろ。ほら約束しろよ」
眉間にわざとらしく縦皺を刻んだゼノンが小指を差し出す。わたしは目を瞠り、それからほっと微笑んで、ゼノンの小指に自分の小指を絡めた。
「……ブランカ。おまえ、誰か好きな奴いんの?」
髪を珍しく後ろでまとめて銀細工の飾りを挿したわたしに目を留め、ゼノンが尋ねた。その碧眼の奥に揺らめく恋情に気付きながらも、わたしは口を閉ざす。
ゼノンと別れ、ラフトおじさんに遅めのクリスマスプレゼントを渡すと、今日のぶんの夕飯の材料を買い、帰路に着く。そのときふと道の対面に、同じ方向へ向かって急いでいる人影を見つけた。――リユン。呼ばわる前に、彼もこちらに気付いて、ブランカ、と微笑う。まだ空は明るく、帰宅時間にしてはずいぶん早い。どうしたの、と尋ねたわたしに、おやすみもらったよ、と彼は言った。
「今日と、あした。どこへゆく、ブランカ?」
子どもみたいな顔をして訊くものだから、わたしは微笑み、差し出された手のひらにかじかんだ手のひらを重ねた。しんぞうが、早鐘を打つ。触れた手のひらから伝わる体温が胸を熱くする。わたしは花のように頬を染めて、目を伏せた。
――だいすきだよ。やさしくて、あたたかい、あなた。
それはある晴れた午後、七色にきらめく光とともに訪れた、初めての恋。
わたしはあなたに恋をした。
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