Episode , “Nightmare” 5

 でぃんごん、でぃんごん。窓の外から微かに聞こえる日告げの鐘の音に、わたしはぼんやりと泣き濡れた顔を上げた。壁掛け時計を確認すると、すでに午前零時を指している。部屋を抜け出したきり戻らないわたしをポルコさんは心配しているだろうか。わたしは長卓の足伝いに床から身を起こすと、ペンを取って、リユンへ、とメモ用紙に書き付けた。ごめんなさい。そう走らせてから、それは違うような気がして、いままでありがとう、と書き直す。

 けれど、それも、違う気がした。かつて名無しだったわたしに名を与え、本当の娘のように惜しみのない愛情を注いでくれた彼。彼に抱く気持ちは、感謝などという一言では到底くくりきれない。凍える雪夜に灯った蝋燭のように温かでかけがえがなく、溢れる気持ちを言葉にしようとすればとたんに胸が詰まって苦しくなる。

 ふさわしい言葉を見つけることができず、わたしはペンを置いた。結局、留守にします、と簡潔に用件だけを書いて、マフラーを巻き直し、外に出る。鍵を閉める間、ふと背後に視線を感じて振り返ると、官舎のそばのひょろ長く伸びた糸杉に小さな淡雪のような影が留まっていることに気付いた。ミセス・ローレンス。リユンの可愛がっている白い小鳥はわたしが呼んでも囀ることなく、感情のない黒い双眸でただ監視者のごとくわたしを見つめていた。


 マラキア地区六番街、「虫と花瓶亭」。御主人様に握らされた紙片を片手に赤錆びた門をくぐると、わたしは標識をたどってお店の看板を探す。六番街はどうやらいちばん手前の区画であったようで、そう手間取らずにNo.6と書かれた標識を見つけることができた。不規則に明滅するガス灯の近くや、店の明かりのそばには派手な化粧をした女のひとたちが談笑している。白くたおやかな手のひらがこまねきして、吸い寄せられた男のひとの身体を絡め取る。先が見通せない路地裏の翳りからはくぐもった嬌声が時折して、ここはそういう場所なのだとわたしはおのずと理解した。この場所で、幼いわたしは存在ごと異質だ。好奇をあらわに向けられるひとびとの視線を背に感じつつ、足早に歩く。

 どの店にも看板らしい看板はなく、あっても煤や脂に汚れて黒ずんでいたり、重い雪に隠されて見えなくなっていたりする。わたしはガス灯の下で春をひさぐ女のひとたちに道を問い、からかいや冷やかし混じりの答えに何度か道を間違えかけながら、なんとか「虫と花瓶亭」と赤ペンキで走り書かれたドアを見つけた。歩いている間に乱れてしまった呼吸を整えて心を決め、ひしゃげたドアノブを回す。とたん中からむっと酒臭いにおいが押し寄せて、わたしは軽く咳き込んだ。ドアに吊るされた安物の鈴が申し訳程度に客の来訪を告げたが、騒然とした室内にはほとんど届かなかったにちがいない。

 中を見回し、わたしは御主人様の剥げた鼠のごとき後ろ姿を探した。酒瓶が倒れ、赤ら顔をした客としどけなく足を絡ませ合う女の嬌声が響く室内に、けれど御主人様の見知った背中はない。落胆とも安堵ともつかぬ気持ちに駆られ、わたしはドアを閉めようとする。


「名無しか?」


 生温い吐息がまるで見計らったかのように首筋にかかった。


「なんだ思ったより早かったじゃねぇか」


 びくっと肩を跳ね上がらせたわたしに御主人様は言い、わたしの手に罅割れた手を重ねてドアノブを閉める。おととい見たときと寸分変わらない姿で御主人様はうっそりとそこにたたずんでいた。変化といえば、肩にわたしから取り上げた外套をかけていることくらいだろうか。御主人様は昔から鼠のように痩せぎすで背丈も低かったが、そうは言っても十三歳の少女であるわたしとは体格の上で雲泥の差だ。中年を過ぎた男のひとが少女用に繕った外套を引っ掛ける姿は気味が悪く、得体の知れない不協和音を奏でていた。


「金は持ってきたな?」


 わたしの抱えた紙袋を見つめて、御主人様が訊いた。舐めるような御主人様の視線から紙袋を隠し、わたしは小さく顎を引く。


「ついてこい」


 きびすを返した御主人様を追って歩き出そうとすると、翻ったマフラーの先がドアのささくれに引っかかってしまった。しかし、ここで御主人様の不興を買うわけにはいかない。マフラーごと捨て去って、わたしは御主人様のあとを追う。

 吐く息も凍りつきそうなくらいの寒さの中、御主人様の痩せた背を見て歩いていると、わたしの意識は曖昧になって、容易に三年前の過去へと遡った。

 鉄の扉が悲鳴のような軋みを上げて開く。結露が白く凍った階段。転ばないよう手すりにつかまって慎重に降りる。そのひときわ暗い鉄格子の中に彼はいた。傷ついた背中へ御主人様が罵声と嘲笑を投げかける。カンテラの明かりが揺れて、眩しさに眇められた藍色の目がこちらを見た。透き通った、夜の湖面のような。彼は視線ひとつでたやすくひとを威圧するほどに美しく、平素はそれを気付かせぬほどに優しかった。

 御主人様が足を止める。そこは、高い側壁に囲まれた路地裏だった。わたしはさくりとブーツで深雪を踏みしめて、厚く雲の立ち込めた空を仰ぐ。月も星も見えない空。ガス灯からも遠く、あたりは暗い翳りの中にあって、己の影の輪郭すらも定かではない。


「お前は可愛い奴隷だったよ名無し」


 お酒を少し入れているのか、今日の御主人様は機嫌がいい。まず聞いたことのない猫撫で声で、可愛い奴隷だった、と御主人様は繰り返した。


「俺の言うことを何でも聞く。俺が命じれば、雪の中でだってずっと立っているし、肥溜めの掃除だって毎日欠かさずやった。他の奴隷はだめだ。ずるをする。お前はとても俺の言うことを聞く、良い奴隷だったよ、名無し」


 御主人様の罅割れた手が伸びてわたしの灰かぶり色の髪をいじる。とびきり自慢の家畜にするようなその仕草。かつてのわたしであるなら、喜んだのだろうか。いつもわたしを殴りつけ、罵倒し、蹴りつける御主人様が優しい声で労わるようにわたしを撫でる。もしかしたら、うれしくなったのかもしれない。愛情のように錯覚して胸を弾ませたかもしれない。

 わたしは抱き締めていた紙袋を御主人様に差し出した。御主人様の言いつけ通りぱんぱんに膨ませた紙袋。受け取った御主人様の口元がだらしなく綻び、爪の伸びた手が中をまさぐる。そうして御主人様の顔が徐々に青黒く変化していくのをわたしは静かに見つめていた。


「これはなんだ名無し」


 流れ込んだ風が御主人様のつかんだものを煽る。それは紙片だった。ただの。あとはゴミになるのを待つだけの紙片が細かく切られて中に詰めてあるだけだった。


「……ない」

「今、なんと言った?」

「あなたにあげるものは、なにもない。“スーリさん”」


 御主人様の目が大きく見開かれる。


「今、なんと言った名無し」


 御主人様の目が血走り、御主人様の喉がひゅうと変な音を立てた。


「俺をなんと呼んだ。もう一度言ってみろ、奴隷のお前が御主人様をなんと呼んだんだ!」

「スーリさん」


 にわかに口をつぐんだスーリさんにわたしは告げた。


「あなたにリユンのものを渡すことはできない」


 だって、わたしはブランカ=サイ。リユン=サイの娘だ。それは何も持たなかったわたしに芽生えたたったひとつの繋がりであり、矜持でもある。わたしは名無しではない。御主人様の名無しでは、もうない。


「名無し!」


 咆哮し、スーリさんの手のひらがわたしの襟をつかみ寄せる。もう片方の手が容赦なく翻ったのを見て取り、わたしは目を瞑った。

 パン! 

 足元から崩折れるような衝撃が走ったのは直後だった。鋭い、鼓膜を痛ませる破砕音。背を押し付けられた壁がびりびり震えている。そうであるのに、わたしの頬にはいつまでたっても痛みが襲ってこない。そっと瞼を押し上げたわたしは、スーリさんの顔がまったく別の方向へ向けられていることに気付いた。


「その子を離してもらえる? エルスト=スーリ元少佐」


 凍てついた静寂の中をその声はよく通った。わたしは目を大きく瞠らせて、声のしたほうを振り仰ぐ。ここにはいるはずのない、そのひとを。


「リユン=サイ将軍」


 スーリさんが忌々しげに舌打ちした。

 リユンの左手には今、一丁の拳銃が握られている。銃口はこちらに向けられており、先ほどの破砕音はそこから発せられたのだろうと察せられた。


「裏切ったな、名無し」


 怯んだスーリさんはあとずさり、蔓のごとき腕でわたしの身体を引き寄せた。もがこうとするが、スーリさんの腕の力はいよいよ強く、わたしを締め上げる。


「撃てるなら撃ってみろ、リユン=サイ! 代わりにお前の娘の内臓が飛び散るぞ!」


 唾を撒き散らしてスーリさんが叫ぶ。

 ――リユンは。わたしの養父であるひとは、微かにも表情を動かさず、ただ冷ややかな眸でスーリさんを見ていた。やがてその口元が酷薄な笑みをかたどる。


「耄碌なさったねえ、元少佐」

「なんだと」

「僕を誰だと思っておられる。自分の娘に間違えて弾当てるなんてヘマすると思いますか。もう一度言うけど、その子を離さないとキミの額に小さな風穴があくよ」


 ぎりりとスーリさんが奥歯を噛む。馬鹿な。スーリさんは呟いた。


「そんなことを、できるわけが……」


 スーリさんの動揺を背で感じ取ったわたしは巻きついた腕を力任せに振りほどいた。


「名無し!」


 叫び、スーリさんがわたしに手を伸ばす。わたしは、走った。夢中で、追いすがる声には目もくれず一心に。


「りゆん」


 わたしの喉がつたない呼び声を紡ぐ。男のひとの未だ添え木をあてた右腕が飛び込んだわたしを引き寄せた。


「選んで、スーリ元少佐。この国をおとなしく出ていくか。それとも今この場で僕に撃たれるか。捕えて本国に送り返すって手もあるよ。軍法会議にかけられる前に逃げ出したって聞いたけど、国に戻ったら貴殿も大変そうだよね」

「泥棒め! お前は俺の奴隷を盗んだ!」

「キミが価値に気付けなくて、僕が必要だと思ったものをもらい受けただけだよ」


 撃鉄が立てられる。ひっとスーリさんが息をのんだ。青黒く染まっていた顔がみるみる蒼白に転じる。


「ちくしょう」


 スーリさんは舌打ちした。


「ちくしょう、ちくしょうちくしょう! 名無し! 俺の奴隷! おまえは俺の!」


 叫んでいるさなか雪に足をとられ、スーリさんは尻餅をつく。


「ちくしょう。ちくしょう……」


 雪まみれになって呻くスーリさんは青白く、突き出した鼠のような前歯がとても貧相で、悲しいくらいにみすぼらしい。爪を噛んで独語し続ける男のひとを見つめ、わたしはわたしの御主人様はもうどこにもいないのだと悟った。


「何故だ。皆俺のものであったはずなのに」


 スーリさんの眸からとめどなく伝う涙を、わたしは声もなく見つめた。



 エルスト=スーリ元少佐の身柄は、あとから追いついてきた憲兵に確保された。わたしは知らなかったのだが、スーリさんはリユンを逃した一件のあと、軍法会議に召喚される前にエディルフォーレから逃亡していたらしい。しばらく付近の国を転々としたのち流れついたのがエスペリアで、不幸にもそこでわたしたちは悪夢のような再会を果たした。

 スーリさんはぶつぶつと意味をなさない独語を続けている。もしも本国に送り返されたとして、スーリさんを迎える家族や友人はいるのだろうか。憲兵さんに支えられるようにして連れていかれるスーリさんの痩せぎすの背中を見つめ、わたしは前を通りがかった別の憲兵さんを呼び止めた。首を傾げる憲兵さんに、拾い上げて雪を払ったわたしの外套を渡す。

 これはあのひとのものだから、とわたしはつたないエスペリア語で説明した。


「渡してください。アノヒトに、あげてください」


 憲兵さんは押し付けられた少女物の外套をしばらく不思議そうに眺めていたが、やがて、わかりました、と言ってスーリさんのほうへ向かっていった。わたしはスーリさんから視線を解く。スーリさんがこの先どんな人生を歩むのかわたしにはわからないけれど、わたしたちの道が重なることはもうないのだろう。そんな気がした。


「もう帰っていいって」


 たたずんでいたわたしに、憲兵さんと話し終えたリユンが戻ってきて言った。背を折ったそのひとの藍色の眸がわたしを見つめる。そこに、いつもの真綿でくるみ込むような優しさはなかった。拳銃をしまった左手がわたしのほうへと伸びる。わたしは小さく肩を強張らせた。叩かれるのではないかと、思ったのだ。それくらい、わたしを見つめるそのひとには冷ややかな鋭利さがあった。

 頬にふと手のひらが触れ、まるく包み込む。ぬくもりを確かめるように。頬にかかるわたしの灰かぶり色の髪をひんやりした指先がいじって耳にかけた。


「ブランカ。僕はね、今すごく怒ってる。どうしてか、わかる?」


 「虫と花瓶亭」のドアに置いてきてまったマフラーを外套の内ポケットから取り出して、リユンはそれをわたしの首に丁寧に巻いていく。


「どうしてひとりでこんなことをしたの。ポルコ姐さんが気付いてくれて、ミセス・ローレンスがキミの居場所を知らせてくれなかったら、大変なことになってた」

「……ごめんなさい」

「ブランカ」


 そうではないとリユンは言外に告げる。

 リユンが欲しいのが謝罪の言葉でないことをわたしは知っていた。けれど、あまりにも。あまりにも、わたしのしたことは情けなく卑しい。わたしはリユンと目を合わせていられなくなって視線を足元に落とした。


「……おかね、を」


 どうしても震えそうになる声でわたしは懺悔した。

 おかねを、ぬすもうとしたの。あなたの。あなたのおかねを。鍵を探して、あなたの木箱をあけて、預り証と印鑑をポケットに入れて。少しだけ残っていた紙幣もポケットに入れようと。ぽろぽろとこらえていたはずの涙が堰を切ったように溢れて止まらなくなった。


「ごめんなさい」

 

 わたしはしゃくり上げて、くすんと喉を震わせる。ごめんなさいリユン。わたしはあなたのおかねをぬすもうとした。ぬすもうとした。ぬすもうとしてしまったの。だけど、どうかおねがい。きらいに、ならないで。

 苦し紛れにそう乞うた瞬間、大きな腕にぎゅっと身体を引き寄せられた。


「まったく、キミはどうしてそう、」


 すぐそばから弱りきったような声が漏れて耳朶に吐息が触れる。


「どうしてそう可愛いの。こまる。叱りつけようと思ってたのに」


 男のひとの腕の中でわたしは瞬きをする。微苦笑する気配が頭上でさざめき、「間に合ってよかった」とリユンは息を吐いた。それからわたしの泣き濡れた頬に触れ、眦にたまった涙を指の腹ですくう。左と右を、同じように。華奢な指先に触れられるのがくすぐったく、わたしはすんとしゃくり上げた。


「……ここ、ろーれんすが?」

「うん。ポルコ姐さんがブランカがいないって夕方、血相変えて飛び込んできてさ。姐さんとあと何人かに声かけて探していたんだけど、そしたらミセス・ローレンスがキミを見つけて戻ってきたんだ」

「さがす? 夕暮れから、ずっと?」

「あのねー、当たり前だよそんなの。キミはもっと自覚するべき」

「じかく」

「僕らがキミをとても大事に思っていることをだよ」


 さっき触れ合ったときリユンの左手はひどく冷たくなっていた。わたしはためらいがちに手を伸ばして男のひとの頬に指先を触れさせる。頬もやはりとても冷たかった。ああ、本当にずっと探してくれていたのだ、と理解する。やさしいひとたち。胸がいっぱいになってしまって、おさまりかけていた嗚咽をまたこぼすと、「だから、もう二度とひとりでぜんぶ頑張ろうとしないで」とリユンが言った。


「やくそく。ブランカ」

「……うん」


 彼が差し出した小指に、わたしはそっと自分の小指を絡めた。絡まりあった小指はどちらも冷たい。凍えて赤くなったわたしの手を引き寄せて息を吹きかけ、リユンは片手だけで不器用にさすった。


「リユン。うでは……?」

「へーき。でもキミは病院に連れていかないとね」


 リユンが歩き出したので、わたしは彼を支えようと彼の外套に手をやる。そのときふと外套の布地の合間から鉄のかたまりがのぞいた。さっきの拳銃。視線が吸い寄せられ、わたしは無為にそれへ手を伸ばそうとする。


「ブランカ」


 厳しい声がわたしを制止した。とっさに指をのいて、わたしは彼を見上げる。


「それに触ったらだめ」


 宙で所在無く止まったわたしの手を握って遠ざけ、リユンは静かに告げる。戸惑うわたしを深い藍色の眸が見つめる。夜の翳りのような藍色。美しい眸を持つそのひとは、とても、とてもやさしい顔をして、いとおしむようにわたしの額にかかった髪に触れた。


「ブランカ。キミはこういうもののかたちも、手触りも覚えないでいて」


 ――わたしは。

 ほんとうは、メーヨーなんて馬がどこにもいないことを知っている。バルテローの雌馬に恋して帰ることを厭うた可愛い牡馬。そんな馬は、どこにもいない。本当はどこにもいなかった。あれはわたしのためになされた作り話。リユンはきっと、もっとひどい場所で、ひどいひとに、ひどい風に右腕を傷つけられたのだ。

 セーム曹長は、リトル・セームに作られた継ぎはぎの兵隊さん。彼女の父親だったセーム曹長はどこにもいない。知っている。もうどこにも、いないのだ。新聞を毎日何度も何度も読み返したわたしはその名をちゃんと覚えていた。戦場でお星さまになってしまったかなしい曹長さん。夕暮れの病室でリユンがひとりセーム曹長の尖った鼻をいじっていたのをわたしは知っている。ひとり戯れるように。悼む、ように。そうしてリユンは、やってきたわたしの頬に曹長の尖った鼻をあてて微笑むのだ。

 わたしは、知っているの。リユン。あなたの嘘を、やさしさを、知っている。あなたがこの悪夢のような悲しみたちからわたしを守ろうとしてくれたことを、知っている。

 帰ろうか、そう言って差し伸べたあなたの手に、わたしは右手を乗せる。かじかんだ左手と右手を繋いでわたしたちは歩きだした。わたしの以前よりも少しだけ大きくなった手のひらを、それよりもずっと大きなリユンの手のひらが包む。


「メーヨーは」


 巻いてもらったマフラーに頤をうずめながら、わたしは尋ねた。


「メーヨーは、げんき?」


 厚い雲に覆われた空から花びらのごとき雪が舞い始めていた。ふうわり額に触れた雪の粒に紛れるようにして一瞬、とても静かな沈黙がわたしとリユンの間に落ちる。さくり。雪を踏みしめるブーツの音が響き、リユンはやがて藍色の眸を和やかに細めて、うん、と言った。


「元気だよ。あっちの可愛い女の子と結ばれて、しあわせそうだった。きっと春には仔馬も生まれる」


 ああ、わたしは。


「よかった」

「そうだね」


 わたしは、このひとが、すきだ。

 すきだ。とても。むねがいたくなるくらいに。リユン=サイというひとがすき。

 花が降るかのように舞う粉雪の中、わたしたちはいつもより言葉少なに、互いの手の温度をいとおしむように寄り添って家路をたどった。わたしは、ひそやかに芽吹いた花の蕾を大事に大事に胸にひそませながら、わたしの父であるはずのひとの手を握り締める。十三歳の終わり。まだ春の息吹も遠い、冬のある夜のことだった。

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