Episode , “Nightmare” 4

 ――安静にして寝ているように。何かあったら枕元の鈴を鳴らすこと。

 繰り返し説いて聞かせ、ポルコさんはお店の準備のために階下へおりていく。遠ざかっていく足音を寝かしつけられたベッドの中で聞き、わたしは熱っぽい息を吐いた。枕の下を探って、小さく折られた紙片を取り出す。御主人様に握らされた紙片。そこには、マラキア地区にある酒屋の名と、お金の受け渡しの刻限とが記されていた。

 あと、三日。わたしは顔を覆い、きつく眉根を寄せる。


 

「あたしは買い物に出かけるけど、ブランカ。何か欲しいものはある?」


 翌朝、ポルコさんの呼びかけにわたしはベッドの中で首を振った。食欲のないわたしのために摩り下ろした林檎に蜂蜜を加えたものを作ってくれたポルコさんは、わたしの汗ばんだ額に氷袋を載せて、「何か果物を探してくるわ。あんたはゆっくり寝てなさい」と言った。


「熱が下がったら病院に行きましょう。午後には一度戻ってくるから」


 ポルコさんの後姿を白く凍った窓から見送り、わたしはゆっくりと身体に負荷をかけないよう注意して起き上がった。床に足をつければ、足裏に刺すような痛みが走る。わたしは目を瞑ってそれをやり過ごすと、衣装棚から外行きのセーターを引っ張り出して着込み、ポルコさんから拝借した少し丈の長い外套の釦を閉めた。手編みのマフラーを首に巻きつけ、ブーツに履き代える。

 朝も早い時間であったため、人気のない店はしんとしていた。裏口から抜け出て鍵を閉め、ポストの中に入れる。考えた末、わたしが向かったのは街の銀行だった。


 銀行、という場所にはじめてリユンに連れられて行ったのはもうずいぶん前のことになる。サイ家のお金は基本的にはリユンが管理しているので、ひとりで行ったことはない。前時代風の堅固な造りをした建物を仰ぎ、わたしは少し尻込みした。お金を貸し借りするところだとは、知っている。けれども、それはリユンだからできたことであって、わたしのような異邦人の子どもが無条件で紙袋をいっぱいにするほどの大金が借りられるようにはとても思えなかった。それでも、細い糸をたぐる気持ちでふたりの守衛さんが立つドアの前へ踏み出す。


「あーら、あなた。リユンのとこのコムスメじゃない。何してるの?」


 そのとき、背後から思わぬ声をかけられ、わたしは肩を跳ね上げた。案の定、先日リユンの病室で行きあった黒髪の女性――フローリアさんが腰に手をあててこちらを睥睨している。あのとき美しい襞を織り成していたシェルピンクのスカートの代わりに毛皮のコートからのぞくのは、上質なモスリンで仕立てられた流行のストライプ地のドレス。動物の毛で作ったファーは艶やかな光沢を放っており、それらを品よく身につけてしまうのがフローリアさんのすてきなところだった。サイ家、リユンの実家についてわたしは深くを知らなかったが、もしかしたらこの国では知られた名家なのだろうか。フローリアさんの背後には道に横付けされる形で馬車と、さらには侍従らしい老紳士までが控えている。


「何よ。こっちじろじろ見ないでよ」

「ごめんなさい」

「なぁにー、銀行? あなた銀行へ行くの? リユンのお使い?」

「チガウ」


 わたしが首を振ると、「ふぅん? そう」とフローリアさんは無関心そうに相槌を打って、「でもあたしやあなたみたいのはろくに借りられやしないわよぉ?」と意地悪く言った。


「わたしや、アナタ?」

「そう。あなた。コドモ。あたしも、コドモ」


 コドモと言うにはフローリアさんのたたずまいは社交界入りした淑女のそれだ。貫禄だってどことなしにある。目を丸くさせたわたしに「なによう」とフローリアさんは唇を尖らせた。


「あたし、もう十五なんだからね。あなたより二歳もオトナなんだから。あとね、リユンと先に結婚の約束したのはあたしだから、よく覚えておきなさいよ」


 最近はあんまり帰ってきてくれなくなっちゃったんだけど、と長い睫毛を悲しそうに伏せ、「あなたのせいよわかってんの」と今度は目を怒らせて腕を組む。くるくると変わる表情はまるで万華鏡か何かのようだ。


「ちょっと。聞いてんの?」


 睨み付けられてしまい、わたしはおずおずとうなずいた。


「さいしょコイビトだと、おもった」

「……そりゃあ、なりたかったわよ」


 ふんと鼻を鳴らし、フローリアさんは肩に落ちた黒毛を振り払う。はばかりなくフローリアさんが銀行の正面階段に腰を下ろしたので、わたしも真似をして隣に座った。

 妹だと、リユンの口から告げられたときと同じ、へんな安堵が胸を包んでいた。

 ――よかった。あの手は。やさしく、わたしの小さな手を繰り返し包んでくれるあの骨ばった手のひらはまだ、わたしだけの。


「なによ、その顔」


 そっと息をこぼすわたしに一瞥をやり、フローリアさんは勝気そうな吊り目を眇めた。


「リユンとあたしがコイビトだったらヤなわけ?」


 とっさにわたしは首を振った。振ってみたけれど、疑問にも思う。

 ――嫌。わたしは嫌、だったのだろうか。病室から女のひとの甘い笑い声が弾けたとき。フローリアさんの唇がリユンの頬に触れたとき。わたしは嫌だって、やめてって思ったのではなかったのか。考えると、訳もなく頬が熱くなってきてしまい、わたしはぺたりと火照った頬に手をあてがう。


「なんだ、ムジカク。つまんない」


 舌を出し、フローリアさんはスカートを払って腰を上げた。


「それと、あなた」


 馬車のステップに足をかけたフローリアさんが何かを思い出したようにこちらを振り返る。普段はどこか少女めいた表情をするそのひとの顔に不意に歳相応の聡明さがよぎった。


「やばげなことにひとりで首突っ込むのはやめといたほうがいいわよ。どうでもいいけど」


 胸にひそめたやましさを的確に見抜かれた気がして、わたしは息を詰める。フローリアさんはやはり先日同様に手を振りもせず、馬車の扉を閉めた。


 そのあと窓口の女性に、カウンター越しに爪先立ちをして紙袋いっぱいのお金の貸し借りを申し出たのだが、それはフローリアさんの言うとおり、保護者を伴ってと断られた。わたしは浅くうなだれ、外に出る。雪は再びちらつき始めていた。こほ、と弱い咳をしてマフラーをきつく巻きつけ、傘を持たないわたしは雪の中を歩き出す。

 今からどこかで働くにしても、刻限は迫っている。普通の仕事ではまず得られない量のお金だ。どうか一時でいい、ポルコさんやラフトおじさんに借りられないだろうか。考え、わたしは即座に首を振る。きっと、心優しい彼らは何故だと理由を訊くだろう。御主人様のことをわたしはこの国でよくしてくれる誰の耳にも入れたくなかった。もしも御主人様がポルコさんをぶったら。ラフトおじさんを蹴りつけたら。想像するだけでわたしの胸は凍り、四肢は震え出しそうになる。

 わたしは御主人様が、恐ろしい。かつてはあの手に殴られること、食事を抜かれること、折檻を受けること、ただただそればかりが恐ろしかった。けれども、今はこの温かくいとおしい日々を奪われてしまうことのほうが、恐ろしくてたまらない。なんとしても紙袋いっぱいのお金を用意する必要があった。

 気付けば、見慣れた官舎の前に立っていた。わたしは、リユン=サイとブランカ=サイの木製プレートがかかったドアを見上げる。いつもの癖で首に鍵をかけたまま出てきていたことに気付き、たぐり寄せてドアを開ける。しばらく留守にしていた部屋からはしかし、変わることのない甘く懐かしいにおいがした。

 ――ただいま。

 誘われるように中に足を踏み入れ、歩き疲れたわたしは糸の切れた人形みたいに床にしゃがみ込む。暗闇に沈むひとのいない長卓。そこで毎日リユンと食事をしていたのが遠い昔のことのように思えた。しばらくとりとめもなく視線を彷徨わせていたわたしは、ようやくのそりと重い身体を動かし、オイルランプのつまみを回す。ほのかに明るくなった視界の端に、ふと小さな木箱を見つけて、わたしは息を詰めた。その箱には見覚えがある。リユンがわたしにお遣いを頼むときなどにたびたび開く箱。中にはこの家で使うお金がしまってあった。

 箱を長卓の上に下ろす。異国風の寄木作りのそれには中央に鍵穴がついていたが、幸いにもわたしは鍵の在り処をも知っていた。リユンの書斎のノブを回し、わたしは机の一番目の抽斗を引いて中を探る。ほどなく冷たい鉄の感触が指先に当たり、引き寄せると、記憶にあるものと同じ形をした鍵が現れた。わたしは抱え上げた木箱の鍵穴にそれを差し込む。かちゃり。乾いた音を立てて鍵穴が回った。

 中に入っていたのは、少しの札束と銀行の預かり証らしき書面、そして印鑑だった。リユンは普段は慎ましやかな生活をしているけれど、それなりの役職についているひとだ。御主人様の言はそのとおりであって、紙袋をいっぱいにするくらいの蓄えはあるはずだった。

 手を、伸ばした。わたしは預かり証をポケットに突っ込み、それから印鑑と、それから、よれた紙幣を一枚一枚、伸ばして、畳み。畳んで、ポケットにしまって、また畳んで。

 ぽたり、と紙幣の上に丸い雫が落ちた。それはじんわり広がって、安い紙幣に染みを作る。気付けば、わたしの目からは大粒の涙が溢れていた。

 なにを、しているのだろう。握り締めた紙幣を見つめてわたしは思う。わたしは、なにを。あのひとが朝も夜も、身体を削るようにして、それで得たお金を。わたしはどこへ持って行くというのだろう。誰に渡すというのだろう。

 なんていやしい。いやしい、むすめ。

 力を失った膝が崩折れ、わたしは床に跪いた。うずくまり、ゴメンナサイとここにはいないひとに懺悔する。ごめんなさい。ごめんなさい。リユン、ごめんなさい。額づいた床は氷のように冷たく、わたしはしんしんと夜の更ける部屋の中でひとりあてどもなく泣き続けた。

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