Episode , “Nightmare” 3

 悲鳴を上げた。声にならない、か細い悲鳴を。あとずさり、考えるよりも先に身を翻そうとしたわたしのマフラーの先をひっつかみ、「逃げるな」と御主人様が低い声で命じる。


「ずっとお前を探していたんだ、名無し」


 御主人様の生温かな吐息が首筋にかかる。顔をそむけたわたしをより引き寄せて御主人様は嗤った。


「知っているか、お前。あのあとの俺を」


 そう問うてわたしの首を締め上げる御主人様の指先は黄ばみ、爪も割れ、以前のようなすべらかさはなかった。


「笑劇さ。あのあとの俺は、妻に逃げられ。子にも捨てられ。俘虜を逃がした咎にも問われ。役職を奪われ。家を奪われ。財産も。奴隷も。家畜たちすらも。すべて。すべて、うしなった!」


 突如として爆ぜた怒号に、わたしはきゅうと縮こまった。このあとに起こるであろうことを「名無し」は痛いくらいに知っている。


「おまえは見違えるようじゃないか、名無し」


 御主人様はねっとりと猫撫で声を出して、わたしの灰かぶり色の髪を撫ぜた。


「この、毛織のコートも。マフラーも」


 御主人様のあかぎれた手がわたしの外套を留める胡桃色の釦を外し、中に着ていたワンピースをつかんで容赦なく引きちぎる。下着一枚にさせられ、わたしはかつてとびきり悪い失敗を犯したときにおしおきを受けるのと同じように雪上に転がされた。


「この髪も!」


 背に流れる灰かぶり色の髪を引っ張り、御主人様があげつらう。御主人様のかつて油でべとべとに撫で付けられていた髪は今やほとんどが抜け落ち、残っているものも白髪に変わっていた。引き寄せた髪を力任せにむしられ、わたしは悲鳴を上げた。雪面に、ちぎれ飛んだワンピースの釦と、わたしの灰かぶり色の髪がひとつかみ散った。


「何故。何故だ。何故……」


 わたしの髪を引きずり回し、うわごとのごとくに御主人様は独白する。


「何故、おまえが俺よりも血色のよい肌をして!」


 鋭いブーツの踵がわたしの背を踏みつけ、


「俺よりもよいものを食べ!」


 紙袋から転がったジンジャークッキーをかじり、御主人様はわたしの腹をも蹴りつけた。


「美しく成長しているんだ! 名無し!」


 凍て付く雪上で、わたしは折檻を受けた。わたしは腹を蹴られ、背を踏みつけられ、二の腕に、太腿に、火のくすぶる煙草の先端を押し付けられた。腹を蹴られたはずみにおなかのものを少し吐く。吐くものが腹に入っていたことが気に食わなかったらしい。御主人様は執拗に同じところを蹴りつけた。細い悲鳴を上げ、わたしはついに弱々しく泣き出した。

 ここは、いったいどこなのか。果てなく続く暴力のさなか途切れ途切れの意識の中でわたしは自問する。エスペリア。リユンに連れられ、やってきたわたしの国。エディルフォーレ、雪女王の支配する国。わたしは、だれ。


「名無し!」


 名無し。確かに、雪上に力なく転がされ、衣服を剥ぎ取られ、折檻されるわたしは名無し以外の何者でもなかった。名無し。名無し。名無し。瞑った目から涙が溢れる。りゆん。わたしはうずくまり、か細く乞うた。


「リユン……サイ将軍?」


 それを目ざとく聞きつけた御主人様がふと振り上げた足を止めて呟く。そして、薄い唇を歪めて不気味に嗤った。


「傑作だな。どうやら噂は本当だったらしい。リユン=サイ将軍がエスペリアに帰還する際、エディルフォーレの奴隷の少女をひとり連れ帰ったと。その憐れな娘を養女にしていたく可愛がっていると。名無し。笑えるな、おまえのように賤しく何の能もない奴隷が、将軍の養女になった? この服も、この外套も、このマフラーも、すべて異人に買ってもらったのか。雌犬め!」


 御主人様は動かなくなったわたしの髪をひっつかみ、黄色い歯をのぞかせて生臭い息を吹きかけた。


「いいか、名無し。裏切り者のお前に償う機会を与えてやる。金だ。金を持って来い。お前の将軍様の家にはたんまり金が貯めこまれているだろう? それをほんのひとかけでいい、持って来い。そうだ、この紙袋をいっぱいにするくらいの金を。――造作もないことだろう? おまえはいたく可愛がられているそうだからな、名無し。いいか、決してあいつには言うんじゃないぞ。お前の手で、持ってくるんだ。誰かに見つかったらただではおかない。この裏切り者。銅貨一枚の価値もない奴隷。紙袋ひとつぶんの金で許してやるんだ、俺に感謝しろよ。なあ、名無し」

 

 ――なにもかんじるなかんがえるなおまえはおれのいうことだけを、


「金を持ってきたら、お前は自由だ。俺は優しい御主人様だろう?」


 震えるだけのわたしにうっそり囁き、御主人様はエディルフォーレ語で走り書いた紙切れを一枚握らせると、わたしから奪った外套を肩に引っ掛け、きびすを返した。


 *

 

 ポルコさんの営む「鷲と酒樽亭」は表通りからひとつ裏道に入った酒屋街の一角に立っている。引き裂かれたワンピースをぼろ布のようにまとったわたしはどうにか「鷲と酒樽亭」にたどり着き、お客さんたちや何より心優しい女主人の目に留まらないよう裏口からひっそり身を滑り込ませた。

 食糧やゴミの搬出用である裏口は、店が開いている間は稀にお手伝いさんがやってくる以外に使われることがない。わたしは扉を閉めると、傷ついた足を引きずりながら階段を上がった。二階の奥にある角部屋にたどりつき、半ば倒れこむようにしてベッドに身を伏す。

 四肢のあちこちが軋む。今はまだ寒さで感覚を失くしているけれど、少しすれば悲鳴を上げるほどに痛くなることをわたしは知っていた。手当てをしなければならない。けれども、この見るに無残な暴力の痕を隠すことのほうが今のわたしには重要だった。破られたワンピースを棚奥に押し込め、代わりに足首までを覆い隠すズボンと袖をゆったり取った室内着、それから救急箱を引っ張り出す。腹や腕や太腿にできた火傷や殴打の痕には軟膏を塗りつけて包帯を巻き、その上に用意したものを着込んだ。幸いにも、顔は殴られていない。手ぐしで髪を梳いて、むしられた髪房をわからなくさせると、わたしは部屋を出、手すりを支えに階段を下った。


「ポルコさん」


 厨房のほうに顔を出して、急がしそうに働き回る女主人へ声をかける。


「あら、ブランカ。おかえりなさい。いつの間に帰ってきてたの?」

「さっき。今日、ツカレタ、から、ねてて、イイ?」

「構わないけど。何、あんた具合悪いの?」

「ヘイキ」


 きっぱり言って、わたしは厨房から離れた。先ほどと同じ労苦をかけて階段をのぼり、倒れこんだベッドの上で毛布にくるまる。そこで、わたしの脆弱な気力は尽きた。眠るというよりは正しく気を失ってしまったのだろう。

 夢の中でわたしは小さな名無しに戻っており、記憶に染み付いた御主人様のお屋敷で、次はいつ御主人様に叩かれるのだろう、殴られるのだろうと怯えながら屋敷の銀食器の数を数える日々を送っていた。銀食器はいつまでたっても数え終わらない。数えても数えても、またどこからともなく沸いてくるのだ。早く終えなければ、御主人様がやってくる。御主人様が。わたしの御主人様が。わたしは悲鳴を上げた。


「……ンカ、…ブランカ!」


 強い力に肩を揺さぶられ、わたしは目を開いた。身体を押さえつける大きな手のひらから逃れようと四肢をばたつかせ、泣き声を上げる。


「ブランカ落ち着いて。あたしよ。わかる? ブランカ」


 錯乱するわたしの身体を大きな腕で抱き止め、ポルコさんは何度もわたしの名前を呼んだ。背中をさする手に促され、わたしは大きく息を吸う。ポルコさんのエプロンからはバターやミルクの慣れ親しんだ香りがふんわりくゆってくる。徐々に荒い呼吸が落ち着き、わたしがおとなしくなって肩の力を抜くまで、ポルコさんはずっとわたしの身体を抱き締めてくれていた。


 鎧戸が閉まっていたせいで気付かなかったが、とうに夜は明けていたらしい。窓から差し込む陽射しが眩しい。ポルコさんはようやく正常な呼吸を取り戻したわたしをベッドに座らせると、温めたミルクを渡してくれた。


「ねぇあんたどうしたの、その怪我」


 顔を曇らせ、わたしは抱えたカップに目を伏した。一晩中ベッドの上でうなされたせいだろう。わたしの衣服は乱れ、包帯も半ば解けかかって、その下の赤く腫れ上がった殴打痕やきちんと手当てをしなかったせいで悪化した火傷の痕をのぞかせていた。


「それに、熱もあるわ。ひどい熱よ」


 俯いたわたしの額に手をあてがって、ポルコさんは眉をひそめる。浅く息をつき、わたしは首を振った。


「……コロンダの」

「ブランカ」

「雪に、すべって、ころんだの」


 それきり口を閉ざしたわたしに嘆息し、「とにかく病院に行きましょう」とポルコさんはわたしの肩に手を添える。


「イヤ……っ!」

「ブランカ。でもあんた、」

「イヤ! いかない。ビョウインはイヤ。イヤなの。イヤ」


 わたしは狂ったように何度もかぶりを振った。だって、病院には。あの場所にはリユンがいる。リユンがいるのだ。


「おねがい。おねがい。リユンには言わないで……!」

「……ブランカ」


 ポルコさんは苦しげに顔を歪め、ふくよかな手のひらでわたしの泣き濡れた頬に触れた。激しく叫んだせいで軽い眩暈を起こしたわたしはポルコさんの手のひらにぐったり頬を預ける。


「わかったわ、ブランカ」


 ポルコさんはわたしの眦にたまった涙を指で拭うと、空になったミルクカップを側卓に置いた。


「リユンには言わない。でも病院には連れて行く」


 わたしに大きなセーターと外套とを着せつけ、有無を言わさずわたしの身体を抱き上げる。抵抗する力はもはやわたしには残されていなかった。


「誰がこんなことするの……」


 わたしの背に腕を回しながらポルコさんが独り言のように呟く。わたしは目を瞑り、ポルコさんの上着を握り締めた。


 けれども、ここからいちばん近い病院といえば、リユンの入院しているサン=トワ病院をおいて他はなく、それは仕方のないことだった。手当てをしてくれたロスク医師は、いくつかひどい打ち身や火傷があることを心配して入院を勧めたが、わたしは頑なに首を振った。明日も来るようにときつく念を押され、診察と手当ての間外で待ってくれていたポルコさんと落ち合う。去り際、リユンの病室にふと目が留まったが、わたしは小さく首を振って病院を後にした。

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