Episode , “Nightmare” 2

「……ブランカ。ねぇ、ブランカ? ブランカさん」


 フローリアさんが帰ったあと、彼女の座っていた丸椅子にすとんと腰掛けたわたしははためにもわかるほど不機嫌だった。固く唇を引き結び、眉間にはきつい縦皺を作って、足元を睨み据える。これにはリユンも困り果ててしまったらしい。何度か呼びかけてから、ちっとも目を合わせようとしないわたしに小さく息をついて、窓のほうへ視線を逃がした。

 リユンの右腕は今添え木で固定され、真っ白な包帯が痛々しく巻かれている。過日、報せを受けてポルコさんとともに駆けつけたわたしに、きつい薬臭の染み込んだ病室のベッドの上で、別れたときよりもずいぶん痩せてしまったひとは、「びっくりさせてしまった?」と明るく笑った。なんでも、「メーヨー」という暴れ馬が隊にはいて、バルテローの雌馬と恋に落ち、あちらを引き上げる際に離れるのをひどく厭うたらしい。無理やり手綱を引っ張ったらこれだよ、とリユンは包帯を巻いた腕を指して肩をすくめた。もっとひどい怪我を想像していたわたしは、リユンの語る話との落差に力がぜんぶ抜けてしまって、沸き上がる安堵にわんわん泣いた。リユンが左腕だけで不器用にわたしを抱き寄せて、ただいま、と言う。

 ――ただいま、ブランカ。あいたかったよ。

 あばらが浮き出るほど痩せたそのひとからは、わたしの知らぬ土と鉄錆と薬のにおいがした。


「……ブランカ」


 力ない呼びかけに、わたしは頑なに合わせようとしなかった目をつと上げる。すると、頬に柔らかなタオル地がふわりと触れた。


「“怒ってしまわれました?”」


 見れば、ひと目で手作りとわかる継ぎはぎの兵隊さんの釦でできた眸がこちらを見つめていた。兵隊さんの口を動かして、リユンが続ける。


「“もしも機嫌を損ねてしまったのなら、申し訳ない。フローリアは常にああいう物言いをする子で、悪気はないんです。僕から非礼のお詫びをさせてください”」


 兵隊さんがぴょこんと頭を下げた。兵隊さんの、左右で位置の異なるつぶらな眸と、リユンのとぼけた物言いがおかしくて、意思とは無関係に口元が綻んでしまう。


「わたしはブランカ。アナタはだあれ? みすたー」


 兵隊さんの手を握りわたしは尋ねた。

「“これは失礼”」と兵隊さんがおどける。


「“僕はセーム曹長。リユン=サイの友人で、愛娘のリトルセームにぼろ布と綿と釦と糸で生んでもらいました。よろしく、ミス・ブランカ”」


 リユンは兵隊さんに恭しくお辞儀をさせた。人形を動かす手を止めて、「ごめんね、ブランカ」と元の口調に戻って苦笑する。


「フローリアは甘やかされて育ったから、どうもね。悪い子じゃないし、家にずっと帰ってない僕も悪いんだけど」

「いえ?」

「うん。――ああ、わからなかった? あの子僕の妹だよ」


 いもうと。聞き覚えのない、否、リユンとは関わりのないだろう思っていた言葉を突如持ち出されて、わたしはぽかんと口を開けた。


「意外だった?」


 わたしの表情がおかしかったらしい、リユンは眦を和らげて尋ねる。わたしはうなずいた。何せ、孤児のわたしをためらいなく養女にしたひとだ。一緒に暮らしてもう二年半が経つけれど、官舎にリユンの家族らしいひとが訪ねてくることはなかったし、彼自身の口からそれらしい名がのぼることもなかった。だからなんとはなしに、彼にも家族はいないもののようにわたしは思い込んでいたのだった。そのようなことを途切れ途切れに説明すると、いるよー、とリユンはくすくす笑う。


「うちは大家族だよ。両親とおじいさまにおばあさま。兄ふたりに姉ひとりでしょう、それと妹が五人。フローリアは上から三番目の妹で、上の兄はサイ家を継いで、お嫁さんと可愛い子どももいる。それから、あとひとり」

「あと、ひとり?」

「キミだよ、ブランカ」


 頬にかかった灰かぶり色の髪を耳にかけながら言ったリユンに、わたしは目を瞬かせた。カゾク。わたしにはずっと遠いものだと思っていた言葉は、舌の上で転がすと温かく、柔らかに溶けた。


「今度、キミにも紹介するよ」


 優しく囁いた声に、うん、とうなずき、わたしは長くなった髪をくしけずる男のひとの指に身を任せて、目を閉じる。フローリアさんのせいなのか、それともずっと離れていた揺り返しなのか、わたしはいつになく彼に甘えたがっていた。髪を撫ぜていたリユンの手がさらりと頬に滑って、「さみしかった?」と問う。


「ナゼ?」

「だってキミはとてもさみしがりやだもの」


 ――おいで。

 丸く包み込む声に呼ばわれ、わたしは男のひとの大きな腕の中に招かれる。


 洗い物や読み終えた本を受け取って病院を出ると、重く立ち込めた灰色の曇天から粉雪がちらつき始めていた。吐く息すら凍りつきそうな寒さに温まっていた身体を震わせ、わたしはマフラーをきつく巻いて深雪にブーツを沈めた。

 病院からポルコさんの営む「鷲と酒樽亭」までは半刻くらいの距離がある。ごうごうと空の高いところから聞こえる獣の咆哮がごとき風音に、わたしはこの雪がまもなく嵐に変わることを予感した。人通りの少ない下り坂を足早に歩く。

 「鷲と酒樽亭」のある賑やかな通りとは違い、このあたりのマラキア地区は昼夜問わず湿った薄暗さに包まれていて、少し怖い。崩れかけた塀の隙間からくゆる甘酸っぱいにおいと、雑多に蠢くひとの気配、耳慣れない俗語。異国からの流民も多く、職を持たない彼らをたびたび自警団が取り締まって労働斡旋所に連れて行っているのだと聞いた。

 ――あそこには絶対に近寄らないように。

 養父の言いつけを守って、わたしはマラキア地区と書かれた標識の前を小走りに通り過ぎた。

 しかれども、わたしたちの神様は時に何の前触れもなく、罪のない悪戯をわたしたちに仕掛けることがある。残酷な、ひとの子を弄んでいるとしか思えない悪戯を。

 前方から吹き付ける雪交じりの風にマフラーを巻き上げられ、わたしはそびえ立つ糸杉の前で足を止めた。たなびくマフラーの端を押さえていると、手元がおろそかになって紙袋の荷物の上に載せてあったジンジャークッキーを落としてしまう。あっ、という声が思わず漏れる。突風からマフラーを取り返したわたしは真っ二つに割れたクッキーを拾い上げようとかがみ、ふと頭上に射した人影に眸を瞬かせた。


名無しノーネーム……?」


 無防備に弛緩していた背中がびく、と強張る。

 忘れていた声だった。もう聞くこともない、そう思っていた声だった。それでもその声は恐ろしい悪寒をわたしの身体に呼び覚まし、真実忘れたことなど一度もなかったのだと気付く。力を失った両腕から紙袋が傾いで落ちた。


「名無し」


 微動だにしないわたしに、じれた風に声がかかる。


「ああその目、その髪、そのすがた。お前、名無しだろう。忘れやしない、銅貨一枚で買った俺の奴隷!」


 震えながら見上げた先に立っていたのは、剥げた鼠のごとき頭をしたわたしの、かつての御主人様だった。

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