Episode , “Nightmare” 1

 ――ブランカ、キミがすきなんだ。


 聖誕祭クリスマスが近づいている。降り続く雪に閉ざされた王都エスペリアーゼは、一年に一度の祝祭に向けてにわかに活気立っていた。

 聖誕祭の足音は、最初にラフトおじさんの雑貨屋さんのドアベルにやってくる。かららんころろんと異国の音を奏でるドアベルの代わりに、銀の鈴と柊で作ったリースが飾られると、街のひとびとはこぞって聖誕祭の準備を始めるのだ。生姜入りのジンジャークッキー、てっぺんにきら星の飾られたモミの樹、ひとつずつ灯していくことが待ち遠しい四本の赤い蝋燭。御主人様のお屋敷では遠くから見つめるだけであったそれらに加われることが楽しく、冬の長期休暇の前に、わたしはクリスマスプティングを焼いて学校に持って行き、級友たちとささやかなお茶会を楽しんだ。

 一枚のクリスマス・カードがプティングを包んでいたざら紙にひそませるようにして置いてあるのを見つけたのは、プティングを皆で食べ終え、後片付けをしているさなかだった。粉雪が舞う針葉樹の森の絵が描かれたカードにはブランカヘ、という宛名と、学校が終わったあとひとりで裏庭に来て欲しい、との旨が綴られていた。裏返してみたが、差出人の名はない。いぶかしみつつもわたしはリーアと校門で別れ、赤い手編みのマフラーを巻き直しながら、裏庭へ向かった。そしてそこで、熟れた林檎の実のように頬を真っ赤に染めてプラムの樹の下にたたずむ級友を見つけたのだった。


「ゼノン?」


 少年の鼻の頭はほんのり赤い。ずいぶん長く外で待っていたらしかった。


「コレ、ゼノンの?」


 カードを差し出して尋ねれば、彼は眉間に縦皺を刻んだままこくっと首だけを振った。それきり黙りこくってしまった彼に困惑して、「……ナニ?」と促せば、ゼノンは俯きがちに、あー、であるとか、うー、であるとか呻き、やがてかくのごとくわたしに告げたのだった。――ブランカ、キミがすきなんだ。わらうなよ。キミがすき、なんだ。

 その冬、わたしは十三歳を過ぎた国立学校の三年生で、ゼノンもまた、もうじき十三を迎えようとする少年だった。さらに彼は先だって軍学校の編入試験に合格し、来期からはそちらに通学することを決めていた。真剣そのものの彼の告白にわたしはきょとりと目を瞬かせ、「ゼノン、」と耳まで赤く火照らせている少年を見つめた。


「わたしもゼノンのコト、だいすきよ」


 近頃の彼は以前のように級友を苛めることがなくなった。あれはたぶん、幼年期だけに見られる一過性の情動に過ぎなかったのだろう。ささいな苛立ちを弱い者に向けることでしか吐き出せなかった少年は、最近では年少の子どもたちの面倒を率先してみた。時折皮肉げな物言いをしたり悪態をつくところはあったけれど、それも含めて、本当は気の優しいこの級友をわたしもまた好ましく思うようになっていた。

 わたしの返事に、少年のエスペリア人らしいきれいな色をした碧眼が瞠られ、みるみる喜色に染まる。それが微笑ましくて、わたしはゼノンのかじかんだ手を両手で包んだ。


「別のガッコウへ行っても、ずっと、ずぅっと、ともだち」


 やくそくね、と微笑めば、ゼノンは目をぱちくりとさせて、何故か呆けた顔をした。


「ともだち……」


 呟いた少年の表情が急速に暗澹たるものに変わる。「ゼノン?」とわたしは首を傾げ、少年の顔をのぞきこんだ。とたんにぎゃあと悲鳴が上がる。


「急にくっつくなよ! 馬鹿!」


 ゼノンはわたしの手を振り払い、真っ赤な顔で悪態をついた。その眸に瞬く間に薄い水膜が張る。びっくりしたわたしにもう一度「馬鹿ブランカ!」と叫んで、ゼノンはブーツを返した。

 いったいどうしてしまったのだろう。走り去る級友の背中をわたしは困惑気味に見つめる。何か悪いことを言ってしまったのだろうか。ゼノンの謎めいた行動にわたしは眉根を寄せ、彼がさっきまでたたずんでいたプラムの樹の根元に腰かける。

 季節は冬だった。外は凍えるように寒いが、それだけに昼の短い間に射し込む陽光がひどく愛しく思える。わたしは赤の毛糸で編んだマフラーに頤をうずめ、フィア先生に長期休暇の間に読んでおくようにと宿題に出された詩集を開いた。めくった頁に綴られた詩をなんとはなしに口ずさむ。


 だいすきだよ、うつくしいあなた

 はなのような、可憐なあなた

 天使の輪っかをつけた 可憐なあなたに

 晴れた夏の日 わたしは恋をした


 そのときのわたしは、口ずさんだ詩の意味すらわからない十三歳の子どもだった。


 *

 

 しかれども、帰宅後ゼノンの行動と贈られたカードはひとかけの謎とともにわたしの鞄の中に封印された。

 今日のわたしは忙しい。官舎に戻ると、石鹸やタオル、シャツや下着といったもの、それから頼まれていた何冊かの書物をリユンの本棚から抜き出し、用意した紙袋に詰めていく。リユンの部屋は常にどこか生活臭に欠ける整然さがあったが、唯一書物の量だけは非常に多かった。棚には古今東西の難しげな題名の本がずらりと並び、入りきらなかったものが床にいくつかの山に分けて積まれている。彼は、大変な読書家であるようだった。休日には日当たりのよい窓辺のライラック色の長椅子に腰掛けて、わたしには題名も読めない難しげな本、あるいは数学、植物学、天文学、あるいは歴史書、政治、建築、地理、あるいは貴婦人方が好むような詩集、娯楽小説や伝奇、童話に至るまで、こだわらずにあれこれ嗜んだ。軍人にならなかったら冴えない小説家志望になっていた、というのは冗談めかした彼の言だ。

 詰め込んだもので膨らんだ紙袋を抱えると、わたしは首から下げた鍵でドアを閉めた。ずしんと負荷のかかる紙袋を両腕で支えながら、少し危なっかしく階段を下りる。そのとき、ちょうど差し向かいに隣の部屋の奥さんがディノ坊やを連れてのぼってきた。コンニチハ、と紙袋にはばまれつつ不器用に頭を下げると、「あら、ブランカちゃん?」と奥さんは碧眼を瞬かせる。


「これから病院?」

「はい」

「将軍の具合はどう? やっぱり、悪いの?」

「ぐあいは、イイエ。ダイジョブ、です」

「よかった。バルテローではたくさんの負傷者が出たって聞いていたから、心配だったの。困ったことがあったら何でも言ってね。今度、アップルパイを焼いてお見舞いにゆくわ。将軍の好きなシナモンをたっぷり効かせた」

「アリガトウ」


 奥さんの優しい言葉に胸を温かくさせて、わたしは微笑んだ。紙袋の中からジンジャークッキーを取り出してディノ坊やに渡し、「メリークリスマス」「よいクリスマスを」とこの時期にはお決まりの挨拶を言い合う。軍付属病院があるサン=トワ通りはラフトおじさんの雑貨屋さんよりもさらに先だ。わたしは重苦しい雪雲が立ち込め始めた灰色の天を仰ぎ、きゅっと口を引き結んで、微かに傾斜のついた雪深い道のりを歩いた。


 リユンが半年に及ぶ長い「留守」から帰ってきたのはつい先日のことである。春の終わりの雪解けを待って行われた南部バルテローへの増援出兵。一年ほど前からバルテローでは正統な王位を主張する現エスペリア国王レーヴェ=エスペリアの叔父シンミア=エスペリアと、彼を庇護するバルテロー領主、さらにはバルテロー領主の妹の嫁ぎ先であるエディルフォーレの辺境伯の支援もあって、緊張が深刻化していた。結果、南部の増援要求に応えるかたちで出兵が決まり、そのひとつをリユンは任された。

 これまでもときどきリユンが家を空けることはあったが、こんなに長い期間は初めてだった。「いつまで?」と真っ先に尋ねたわたしに、リユンはまずは三月、場合によってはもう少しかかるかも、と食後の紅茶を啜りつつ何でもないことのように言った。


「その間はポルコ姐さんの家に行かない? キミをこの家にひとりにしておきたくない」


 少し心配性のきらいのあるこの養父の提案に、わたしは力なくうなずいた。うなずくしかなかった。リユンは軍人さんであるし、戦があればそこに赴くのは当然のことだ。そして軍人さんでないわたしはリユンについていくことができない。

 その夜は、手狭なベッドにふたりで一枚の毛布にくるまって眠った。もしも、リユンが帰ってこなかったら。もしも何か、怖いことが起きてしまったら。大きな腕に抱きかかえられていても不安はちっとも和らがず、わたしはリユンの胸に額をくっつけてくすんくすんと夜中泣いた。彼の手がときどき思い出したようにわたしの背をさする。その間隔が次第に長くなり、やがて途切れていくのを、わたしは彼の腕の中で息をひそめて感じていた。



「すぐ、戻ってくるよ」


 出立の朝、ポルコさんにわたしを預けたリユンは、目を赤く腫らしたわたしの顔を見て、そう約束した。骨ばった男のひとの大きな手のひらが、わたしのまるい幼さを残す手のひらを包む。それを一時握りこむようにしてから、「じゃあいってきます」とリユンはいつものようにわたしの灰かぶり色の頭をひと撫ぜする。いってらっしゃい、と。わたしはこぼれ落ちそうになる涙をこらえるので必死で、小さくなっていく背中に最後まで言うことができなかった。

 戦況は国王側に有利、と連日報じられたが、その一方で戦死者や負傷者の数もとどまることがなかった。今回の彼は、兵糧の輸送と後方支援が主な役割だ。前線は南部に近い師団が当たっている。リユンも言っていた、すぐに戻ると。だからむやみに不安がることはない。そう自分に言い聞かせながらも、わたしは早朝ポルコさんの家の郵便受けの前に立って、配達屋の坊やが運んでくる新聞を泣きそうな気持ちで待った。毎日、毎日。戦死者、負傷者の欄にリユン=サイの名が載っていないことを確かめ、ひとときの安堵を得ては学校へ通い、夜はポルコさんのお店を手伝って、あてがわれた二階の角部屋のベッドで翌朝の不安に駆られながら浅い眠りにつく。

 幸いにも、リユンの名は最後まで紙面に載ることなく、数ヶ月に及ぶ抗戦ののち国王軍はシンミア=エスペリアの身柄を捕えてバルテロー領主に城門を開けさせ、この「ささやかな」暴動を手際よく鎮圧した。

 わたしのもとに知らせが届いたのはその数ヶ月後で、そこにはリユン=サイの名とサン=トワ通り軍付属病院に入院、との旨が簡素に記載されていた。


 サン=トワ病院は旧エスペリア北地区教会を改装して建てられた軍付属の病院だ。金の鐘が取り外された鐘楼を仰ぎ、わたしは門の前に立っている恰幅のよい軍人さんに身分証とブランカ=サイの名を告げる。


「よう、リユン将軍のとこの嬢ちゃん。重そうな荷物だな」


 すでに顔馴染みになっている軍人さんは、わたしの腕の中にあった紙袋を持ち上げた。正門の隣にある通用口を開けて、わたしを通してくれる。


「ありがとう」


 お礼にジンジャークッキーを渡し、「メリークリスマス」「よいクリスマスを」ディノ坊やとも交わした挨拶を言い合う。


「ああ、そうだ。ブランカ嬢ちゃん」


 ジンジャークッキーを早々にかじりながら、軍人さんが何かを思い出した様子で短い首をすくめる。


「あー……なんだ。その、な」

「ナニ?」

「……病院の中庭はきれいだ。ぐるーり回って花でも摘んでから病室に向かったらいいんじゃねぇかな。ぐるーりぐるーり、ゆっくり回ってね」

「ぐるうり?」

「ああ、ぐるーりだ」


 軍人さんのいまひとつ要領を得ない言葉に、わたしは眉をひそめる。


「いいかい? ぐるーりぐるーりだ」

 

 軍人さんは念を押して、話をする間持っていてくれた紙袋を返した。わたしはすぐにでもリユンに会いたくて仕方がなかったのだけれど、軍人さんの言うとおり中庭へ先に回ってぐるぐるとあたりをあてどなく歩いてみる。けれど、雪の深く積もった庭は殺風景なだけで、花の咲いている気配は少しもない。わたしは足先から襲った寒さにふるりと身を震わせ、紙袋を抱え直してリユンの病室に向かった。

 サン=トワ病院の中にも聖誕祭は訪れていた。中央の広場には頂に星の飾りを載せたモミの樹が持ち込まれ、そばには赤い四本の蝋燭も置いてある。聖誕祭前の一ヶ月、週ごとに火を灯していく蝋燭は今三本目まで火がついていた。道すがら知り合いの子どもたちにもジンジャークッキーを配り、代わりに星飾りや花飾りを首にかけられる。

 病室の扉は細く開いていた。職業柄か、彼の人柄に起因するものか、たぶん両方なのだろうけども、リユンのもとにやってくる見舞い客は多い。軍人さんかな、といくつか知っている顔を思い浮かべながら、歩いている間に弾んでしまった息を整えて、中をうかがおうとする。直後、ドア越しに弾けた華やいだ女のひとの笑い声にわたしは吐息を飲み込んだ。とっさに身を引き、壁に背をくっつける。

 知らない声だった。ポルコさんやフィア先生とは違う、甘やかな蜜を含んだ女のひとの声。それがドアの向こうから、微かに聞こえてくる。

 ――だれ。どこの、ひと? 

 人見知りの激しいわたしは壁に背をもたせたまま立ちすくんでしまう。これまでもリユンのもとにお客さんはたくさん来ていたけれど、それは軍人さんや彼の友人がほとんどで、若い女のひとが来ていたことなんてなかった。……少なくとも、わたしの知る限りは。

 帰ったほうがいいのだろうかという考えが一瞬よぎったものの、思えば、わたしにやましいことなど何もないのだから、隠れているのもおかしい気がする。だって彼はわたしの養父で、わたしは養父の荷物を届けにここにやってきたのだ。時間をかけて高鳴る心臓を落ち着かせると、わたしは意を決して壁から背を離した。


「ブランカ?」


 が、それより一瞬早くリユンの声がわたしを捉える。わたしは両肩を跳ね上がらせた。肩から垂れた手編みの赤いマフラー。それが細く開いたドアから見えていたらしい。わたしは自分の迂闊さに顔をしかめ、半ば解けかかったマフラーを巻き直して声のしたほうへそろりと頭を出した。

 きつい薬臭の染み付いた病室には、窓際に簡易ベッドが一床あり、枕に背を預けるようにして半身を起こすリユンの姿と、そのかたわらに腰掛ける黒髪の女性の姿がある。ふんわりとウェーブかかった黒髪は腰ほどまであり、レースをたっぷり施して膨らませたシェルピンクのスカートがなだらかな襞を足元にかけて作っている。リユンの視線に気付いて、女性がこちらを振り向いた。とたんに視界がにわかに華やいだような錯覚を覚える。

 きれいな、女のひと。


「あなたがリユンのブランカ?」


 目を瞬かせたわたしを女性は上から下まで無遠慮に眺め回し、詰問めいた口調で尋ねた。とっさのことで、ハイ、ともイイエ、とも答えられない。紙袋を抱き締めて口ごもるわたしを睥睨し、ふぅん、と彼女は濃い睫毛を伏せた。


「あたしのほうが可愛い」


 きっぱり断じた女性は、「それで、リユンに何の用よ?」と畳み掛ける。まるでよそものはお前だと言わんばかりの態度に気圧されわたしが後ずさりかけると、「ちょっとフローリア」とリユンが眉をしかめた。


「何の用はないでしょ。僕に言わせたら、キミのほうがよっぽど何の用だかわかんないよ」

「見舞いよ、見舞い! 林檎持ってきたでしょお?」

「ブランカは僕の荷物を届けに来てくれたんだよ。――だよね、ブランカ。とりあえずその重そうな荷物は一回置いて」


 リユンに促されるまま、わたしは何度も抱き締めたせいで皺の寄った紙袋をサイドボードのあたりに置いた。そこには女のひとの言った林檎が三つ無造作に転がしてある。


「じゃ、あたしは帰る。なんか邪魔なのが来たし」

「フローリア」

「そろそろエネが迎えに来るしね。じゃね、リユン。退院したらたまにはうちにも遊びに来て。待ってる。大好きよ」


 フローリア、と呼ばれた女性はふんわり腰をかがめると、リユンの頬にひとつ口付けを落とした。頬に触れる花色の唇を間近で見ていたわたしは小さく息をのむ。少し乱れた黒髪を艶めいた仕草でかき上げると、フローリアさんはわたしには一瞥もくれず、レースのどっさり施されたスカートを翻した。

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