interlude 4
エルスト=スーリ元少佐の本国への輸送が決まったのはかの事件から半年も経たないある日のことだった。エディルフォーレと接する国境は未だ緊張状態にあるため、隣国を経由して本国へ送還するというルートが決まった。半年に及ぶ拘束の末、エルスト=スーリにはエディルフォーレの情報を聞き出すだけの価値もない、という判断がつまるところは下されたのだった。囚われたときのエルスト=スーリはすでに自失状態にあり、その後の憲兵の尋問にも独語を呟くばかりで、とてもまともに話を聞きだせる様子ではなかったのだと聞く。
知らせは、リユンの執務室のデスクに届いた。
エルスト=スーリの名と本国へ輸送する旨、日付が綴られている。リユンはそれを煙草をふかしながら一読し、苦味がかった香りを深く吸うと、吸殻を灰皿に押し付けるのと一緒に破いて屑箱に捨てた。
愛娘に教える気はもとよりなかった。あの子の「悪夢」はもう終わったのだ。今さら彼女が「御主人様」のことで小さな胸を痛める必要はない。考えていると、六番街の薄暗がりに沈んだ扉やそこに所在なくかかった赤い毛織のマフラーの情景がなんとはなしに瞼裏に蘇り、そのとき覚えた音を立てて血の気がひいていくさまや、嫌なくらいの胸の動悸をも思い出してしまい、眉間に刻んだ縦皺が知らず深くなった。ともしたら、自分はあの子を失うかもしれなかったのだ。
だからその日、口うるさい副官が用を足しに行った隙に、書置きを残してセント・トワレ駅に向かったのは気まぐれのようなものだったのだと思う。あるいはこれは確認なのかもしれない。あいしてやまない少女を苦しめた悪夢みたいな男。男がきちんとエスペリアを去るのを見届けておきたかった。そうすれば、次に彼女が悪い夢を見ても、それはもう夢でしかないんだと迷わず抱き締められる。
とにかくも、リユンはセント・トワレ駅に足を運び、そこでちょうど輸送用の馬車から下ろされている貧相な剥げた鼠のごとき小男を見つけた。
「将軍!」
肩書きが肩書きだ。何か命令でも携えてきたのかと勘繰る憲兵たちに、「ああ、気にしないで。僕はたまたま通りかかっただけだから」と手を振っておく。いぶかしげに顔を見合わせる憲兵たちを追い払い、セント・トワレ駅の柱に背を預けて、両脇を憲兵に支えられて歩くエルスト=スーリの姿を眺める。
あのとき、白いものが混ざっていた少ない頭髪はいまや完全なる白髪に変わっていた。頬はこけ、目は虚ろで、焦点も定まらない。しばしば独語すると聞いていたが、目の前の男は静かなもので、ただ力ない老人のようにプラットホームを歩くだけである。そのやわい足音を聞きながら、なんともいえぬ心地に駆られた。さんざん翻弄された彼女の悪夢の正体がこれだ。生成りのワンピースの裾から時折のぞく、彼女の柔肌に増えてしまった火傷の痕はきっとしばらく消えないだろう。もしかすると、ずっと消えないかもしれない。たぶん彼女はいつものように少し儚く微笑うのだろうけど。
そのとき、ふと自分が何をしにここにやってきたかに思い至ってしまって、リユンは軍服のまま直行したことを少し悔いた。エルスト=スーリは徐々にこちらに近づいてくる。細い腕に薄汚れた少女用の外套を抱き締めているのが見えた。
本国に送還されたのち、この男はどんな人生をたどるのか。家族も家も財産も職もすでに失ったと聞いている。折れ曲がった背中に、エディルフォーレのあの凍りつくような寒さに耐えるだけの気力が残っているのか、リユンには判別がつかなかった。
だが、それを慮るつもりもまたない。階級章の入った上着を脱いでプラットホームのベンチに置く。
「やあ、エルスト=スーリ元少佐」
リユンはすぐ目の前を通過しようとした男に、声をかけた。フルネームで呼んだおかげか、男の虚ろな眸が一瞬こちらを捉える。捉えきる、それを待たずしてこぶしを切った。殴る。薄っぺらい小男の身体は衝撃を受け止めきれず、プラットホームの端に尻餅をついた。脇を固める憲兵たちが皆目を瞠る。
「エルスト=スーリ元少佐」
男の胸倉をつかみ寄せ、背を少しかがめたリユンはにっこり微笑んだ。
「今度あの子の前に現れてごらん? あのね。本当に、ころすよ」
声を低くした脅しに、さてこの男は怯えたろうか。それとももうとっくにこちら側の声など聞こえなくなっているのだろうか。特に興味などなかった。
「……まぁ好きなように報告してよ」
呆ける憲兵たちに苦く微笑い、上着を拾ってきびすを返す。中抜けの時間は二時間だ。時計を確認しつつ足早に道を引き返していると、遠くで出発の汽笛が鳴った。細く長く空を裂いたその音を聞き届け、リユンは、あああの子の淹れたお茶がのみたい、と瞼裏によぎった少女を想う。そして、あの温かく柔らかな身体を引き寄せ、アッシュグレイの髪房のかかる耳元に甘くおやすみを囁くのだ。
グッド・ナイト。よい夢を、と。
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