interlude 1
細く開いた扉からひょこりと顔を出したのは、アッシュグレイの髪をふたつに結った小さな女の子だった。不安げな目でこちらをうかがってから、「あっ」と声を上げ、翠の眸をみるみる明るくまろばせる。
「おかえりなさい、リユン」
花がひらくような甘やかな笑顔を綻ばせたのち、再び花がしぼむような硬い表情で「……ハジメマシテ、」とおずおずこちらを見上げてくる。
「ああ……はじめまして」
「ねぇ、ちょっと。後ろがつかえているんだけどニコ」
子どもらしいあけすけな表情の変化に内心少し傷つきつつも手を差し出そうとすれば、膝裏を軽くブーツの先で蹴られる。つくづく部下の扱いが粗雑な上官である。仕方なく彼が道を譲ると、「ただいま、ブランカ」とサイ将軍は彼のひょろ長い身体を脇に押しやって、少女の小さな身体をぎゅうと抱き締めた。
「えらいね、ブランカ。知らないひとが訪ねてきても、絶対に家の中に入れたらだめだよ。キミみたいな可愛い女の子は特に」
「お言葉ですが将軍、自分は『知らないひと』ではありません」
「でも、次からは僕の声がするまで鍵も開けなくていい」
「無視ですか」
「あ、いいにおい。何作っていたの?」
さっぱりかみ合わない会話に嫌気が差して、「……西大陸式の挨拶なんですね」と少女を捕まえて抱きすくめている上官の背中に言うと、「キミの家ではしないの?」と少しずれた答えが返ってきたので、面倒になって口を閉ざした。
「シチュー? それとも野菜スープ?」
少女の腰に腕を回して、彼の上官は夕ごはんの謎かけ遊びをしている。
*
職場の人間関係にお悩みの方はいないだろうか。
自分はおおいにそれである。特にこのリユン=サイ将軍との関係は、彼の副官になってすでに一年が経つというのに、一向に改善が見られない。
――そもそも今日だとて。ニコル=キリノはソファに背筋を正して腰掛けつつ、視界端で少女と内緒話をしているサイ将軍を何とはなしに見やる。小さな少女は将軍に少しかがんでもらっても、めいっぱい背伸びをしなければないしょ話ができない。不安定に揺れる足元を彼の上官はとてもいとおしいものを見つめるかのような眼差しで見守っている。少女の身体が傾ぐ前に腰に腕が回った。
ちなみに、彼らのないしょのようでいてまったくないしょにできていない話の内容なら容易に想像がつく。たぶんこれだろう、「あのひと、だあれ?」。
「奥さんに逃げられちゃったかわいそうな中尉さんだよ」
「聞こえてます。聞こえるところで嘘吹き込まないでください。第一、自分は大尉です。中尉だったのは先月までです」
「キミは相変わらず細かいことにこだわるねー」
「それと、妻は実家に戻っただけで逃げたわけじゃありません」
「ブランカ。ああいうのを強がりって言うの。慰めてあげようね」
サイ将軍は少女にわざとらしく耳打ちをして、くすくすと笑った。何が楽しかったのか、それとも場の空気でなんとなく楽しくなってしまったのか、少女も少し笑って、サイ将軍と和やかに額をくっつけ合う。将軍が少女の腰に回していた腕を解くと、リネンのエプロンを翻して、ちょこちょこと料理の盛り付けを始めた。
妻は逃げていないが、喧嘩の末実家に戻ったのは事実である。傷心の部下へ気まぐれに憐憫の情が沸いたのか、帰り際、サイ将軍は「じゃあうちでごはん食べてく?」と声をかけた。
うちでごはん。以前の将軍なら、まず出てこなかった言葉だ。自分も、この上官も、軍学校時代のならいで洗濯と掃除は人並みにできたが、料理はからきし得意でない。加えて、特定の女も持っていなかったサイ将軍が、異国の少女を連れて帰ってきたのは一年ほど前のことになる。帰国直後、酒の席に連れ回した挙句少女に熱を出させてしまったという一件があり、以来サイ将軍は彼の「おひめさま」をよそに見せたがらないので実際に目にしたことはなかったが、本当に噂どおりの可愛がりようだった。今も客人はそっちのけで、少女の手伝いにいそしんでいる。
「ニコ、できたよ。食べたかったらおいで」
と当の将軍本人から犬の餌やりのように呼ばれ、文句のひとつふたつ言ってやりたくなりつつも不承不承腰を上げた。もてなされてばかりであるのも気が引けたので、皿を並べるのを一緒に手伝う。
なるほど、十一歳の子どもと聞いていたが、料理の腕のほうはいっぱしのものだった。手作りのドレッシングが用意されたサラダに、焼き立てのミートパイ、キャベツや鶏肉を煮込んだトマトスープなどが彩り豊かに食卓に並ぶ。実際、味も悪くなかった。むしろ大変よろしい。
内心少し感心しながら匙をすくっていると、対面の少女が何やら不安そうにこちらをうかがっているのに気付いた。ああ、と思い至り、「おいしいですよ」と素直な賛辞を贈る。それまで緊張で固くなっていた少女の顔にぱっと明るい花が咲いたので、気持ちをよくして口元を綻ばせ「だっ!」足を踏みつけられた。
隣の上官にちらりと疑惑に満ちた視線を送れば、彼は実に涼しげな顔でサラダにドレッシングをかけている。
「ちょっと。何するんですか」
「僕の大事なおひめさまに、許可なしに色目使わないでくれない?」
色目! なんだそれは!
「あんた馬鹿でしょ、十一の女の子に色目使う男がどこにいるんですか、第一俺は妻帯者で」
「だってブランカって可愛いじゃない」
「は。まぁ、それなりに」
「それなり?」
「……すごく、可愛いですよ」
むかっ腹を立てていたつもりが何故か「おひめさま」の賛美をさせられているという始末。これだからこのひとは嫌なんだ、とうんざりしつつ、ミートパイの最後のひとかけをかじる。渦中の少女は、ひそひそと攻防する男たちをひとり不思議そうに見上げている。
「それで、カリーナちゃんとはどうなの?」
夕食を終えると、さっさと帰れという厳命が下るかと思いきや、サイ将軍は意外にも温めた葡萄酒を勧めてきた。サイ将軍の「おひめさま」は食事の後片付けを終えると、暖炉のそばのソファで学校の宿題を始めている。
「まさか、本気で逃げられちゃった?」
「そんなわけがありますか」
食後の話題がまたそれかと思うとこめかみが痛くなる。
「そーお?」
かつて「カリーナちゃん」と自分の仲人を買って出たお節介な上官は意地悪く笑って、「絶対、赤ちゃんだと見たね」と訳知り顔で指摘した。
「は?」
「理由がわかんないんでしょ。それで急に実家に帰っちゃったんだよね。絶対赤ちゃんだよ。よかったねー、ニコ。キミも晴れてパパの仲間入りだ」
「ちょっと、決め付けんでくださいよ」
「僕はそういう勘がすごくいいもの。ぜーったいそれだ。キミさ、カリーナちゃんに打ち明けられたらちゃんと何も言わずに抱き締めてあげるんだよ? 動揺して固まったりしたらそれこそおしまいだよ」
「なんであんたにそこまで言われなくちゃいかんのですか。というかですね、あんたあれでしょ、裏でカリーナと繋がってるでしょ」
「言えないよー。カリーナちゃんに聞いてごらんって」
追撃をひらりとかわして、「家族が増えるっていいよ、ニコ」と視線の先に何かを見つけたのか、サイ将軍はほんのり目の色を優しくして言った。見れば、先ほどまで勉強にいそしんでいた少女は疲れた風にことんとソファの肘掛に頭を載せて寝息を立てていた。あどけなく眠る少女の額にかかったアッシュグレイの前髪を指先ですくうと、サイ将軍はソファの背にかかったブランケットを引き寄せて少女の小さな身体にかけた。その際銀灰色の睫毛がふわりと瞬いたが、サイ将軍が子猫にそうするみたいに頭を緩く撫でると、安堵した様子でまた翠の眸を閉ざす。
「かわいいでしょ?」
「……あんたが愛しているのは認めますよ」
嘆息交じりに呟けば、「あたりまえだよ」とサイ将軍は一笑して、「おひめさま」の寝顔をひとりじめするべくブランケットごと少女を抱え上げた。
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