Episode , “School” 2

 しかし十日もすると、わたしの孤立はよりいっそう確固たるものとなった。そもそも、黒髪碧眼の多いこのエスペリアで、灰かぶり色の髪に翠の目を持つわたしは黙っていてもよく目立つ。

 授業中、フィア先生にあてられてたどたどしく答えを告げるわたしの発音はやはりエスペリアの子どもたちには奇妙に映るのか、そこかしこでひそひそ話が絶えない。フィア先生は叱ってくれたが、嗅覚に優れた子どもたちはわたしの皆とは明らかに異なるにおいを巧みに嗅ぎ分け、好奇心と警戒心をない交ぜにした顔つきでこの『よそもの』を遠巻きにうかがった。まともなひととの関わり方をこれまでほとんどしてこなかったわたしはただただ戸惑い、目を伏せることしかできない。

 しかれども、ゼノンをはじめとした彼らは年上で異邦人であるわたしに対して警戒心のほうがより先立ったらしい。彼らがひそひそ話以上の何かをわたしに直接言ってくることはなく、代わりに髪を引っ張られ、紙くずを投げつけられたのはいちばん年少のプリュネ=リーアであった。

 わたしの隣の席に座るプリュネ=リーアは七歳になる、とても小柄な少女だ。わたしに真っ先に話しかけてくれた、小さなリーア。けれども初めての昼休み、リーアの前に皆のような昼ごはんはなかった。ざら紙に包まれた胡桃の実が三つきり。その翌日も、翌日も、リーアは皆から隠れるようにしてこそこそと胡桃を割る。


「また胡桃なのかよ、リーア」


 ある日、そばかすのゼノンがリーアの髪房を捕まえてそう言った。


「いつもそれじゃあ腹減らない?」


 ゼノンは薄く笑い、口ごもるリーアから胡桃をひとつ取り上げる。それを、ぽぉん、と宙に放って受け止める仕草は得も知れぬ悪意に満ちていた。


「リーア。俺さ、知ってるんだぜ。おまえのとうさんは戦場から逃げ出して、足を一本失ったんだって? かあさんが言っていた。おまえのとうさんは、国のハジだって。なぁリーア、おまえの昼ごはんが胡桃なのはお金がないからなの?」


 そのときの、リーアの目。はっと見開かれた目の端に朱が走り、彼女はみるみる頬を赤くして俯いた。ゼノンは哄笑を深くする。


「弱虫のリーア!」


 翌日からゼノンはリーアをそう呼んで、フィア先生の目を盗んでは紙くずを投げたり、リーアの鞄に泥団子を詰めたりした。ミミズを投げられて悲鳴を上げ、鞄に詰められた泥団子を泣きべそをかきながら裏庭に捨てに行くリーアの小さな背をゼノンと彼の仲間が茂みに隠れて嘲笑う。

 子どもが時として大人よりもずっと残忍で狡猾になりうることをわたしはよく知っている。かつて御主人様のお屋敷で、わたしがきれいに磨き上げた皿にパン屑を落として御主人様に教え、殴られるわたしを棚の影から観察し笑っていたのもまた、わたしとそう歳の変わらぬ御主人様の子どもたちだった。わたしはそのときの、みじめで胸が潰れそうになる気持ちを知っている。わたしは、泥団子の詰められた鞄を抱えてとぼとぼと歩くリーアの小さな背を追った。


「リーア」


 裏庭のプラムの樹の下でかがみこんで鞄の泥を落としていたリーアは、わたしが声をかけると、さっと気色ばんで顔を振り上げた。ゼノンか、彼の仲間だと思ったのだろう。少しほっとした風に、ブランカ、と呟いたリーアの隣にかがみ、わたしはリーアの手から汚れたペン入れを取り上げた。こびりついた泥を落とす。

 リーアはしばらく呆けてわたしを見つめていたが、やがて「ごめんなさい」「ブランカ」「ありがとう」と途切れ途切れに言って、くすんくすんと泣き出した。わたしは首を振ると、肩掛け鞄からリユンに買ってもらったハンカチを一枚取り出して、リーアの頬にあてる。


 その日からわたしとリーアは昼休みになると、手を繋ぎ合って裏庭に向かった。わたしは朝リユンの昼食を作るのと一緒に、籐籠に詰められるだけのサンドイッチとおかずを入れる。そして昼休みにはリーアの胡桃とわたしのサンドイッチとを裏庭のプラムの樹の下で分け合った。わたしはリーアに文字を教え、リーアはわたしにエスペリア語の発音を教える。天気のよい日にはブリキの如雨露を持ってきて、皆で蒔いた種に水をやった。種はエスペリアに自生する花のものであったらしい。“エスペリーゼ”。別名、エスペリアの春告げ姫。わたしたちはこんもり膨らんだ土を眺めながら胸を高鳴らせ、若葉が芽吹くのを待った。


「胡桃の実はおいしいのよ」


 リーアはわたしのぶんの胡桃を上手に割りつつ教えてくれる。リーア家の庭にはとても大きな胡桃の樹があるらしく、リーアの父親が戦に赴くときには、必ず胡桃の実をお守りにして渡した。


「とうさんはね、弱虫なんかじゃないわ、あたしとかあさんを愛していただけ」


 しかめ面を作ってそう呟くリーアの横顔が健気で愛らしく、わたしは人知れず微笑む。

 けれども、わたしは気付いていなかったのだ。ゼノンがわたしを遠巻きに見つめるのは無関心からではない、ただわたしをうかがっていただけだということに。

 エディルフォーレの異邦人。灰かぶり色の髪に翠の眸。わたしはこの狭い社会の『よそもの』であって、ゼノンたちがわたしを心よく思っているはずがなかった。


 *


 最初になくなったのは消しゴムだった。ノートに綴った文字を間違えてしまい、ペン入れを探ると、中が空っぽになっていたのだった。朝は確かにあったのに、と首を傾げながら、わたしはその時間は消しゴムを使わずに終えた。

 昼休みに早めにリーアとの昼食を済ませて、消しゴムを探す。けれど、ない。昨晩確かにペン入れにしまったはずの消しゴムはふっつり行方をくらましていた。仕方なく席に戻れば、今度は鉛筆がなくなっている。わたしは驚き、ペン入れの中や机の下をあちこちせわしなく探し回った。後ろの席の子にもつたないエスペリア語で訊いてみるのだけれど、ふたりの女の子たちは気弱そうに顔を見合わせるばかりで何も教えてはくれない。諦めきれず、わたしは他の席の子たちに失くした文房具の行方を聞いて回る。しかし彼らは皆ゼノンたちのいるほうを気遣わしげにうかがうばかりで口を閉ざしている。

 何かが起こっているのだと思った。意を決して、にやにやと小鳥をいたぶる猫のような目でこちらを眺めるゼノンに話しかけようとしたとき、ちょうどフィア先生が手を三回打って教室に入ってきた。


「どうしたの? ブランカ」


 尋ねた先生に、わたしは「エンピツ」「なくなってしまった」と答える。まぁ、とフィア先生が形のいい眉をひそめる。先生はすぐに自分のぶんの鉛筆と消しゴムを貸してくれたけれど、リーアはひどく不安げな目でわたしのことを見つめていた。


 午後二時半。鐘の音とともに今日の授業が終わる。わたしはリーアと別れると、消しゴムと鉛筆を手に抱いてフィア先生を探した。折りよく廊下の向かいを歩いていた先生を見つけ、「コレ、」「アリガトウ」と借りたものを差し出す。


「なくなってしまったのですって?」


 フィア先生の艶やかな唇から紡がれた流暢なエディルフォーレ語に、わたしは目を瞬かせた。


「エディルフォーレ史は私の専攻よ」


 にっこり笑い、フィア先生は胸を張った。


「ブランカ。このあと少し時間はあるかしら?」

「……ハイ」


 リユンが帰宅するまで特に予定などないわたしは顎を引く。

 先生に連れられ向かった先は、裏庭のプラムの樹のそばのベンチだった。さなりと茂ったプラムの青い葉を眩しげに仰ぎ、「学校は楽しい?」とフィア先生はわたしに尋ねる。


「……よく、ワカラナイ」


 新しいことを知ることは楽しい。フィア先生はよき教師であって、ものの数え方や花や樹のこと、文字の書き方、古い物語、星や天気のこと、生活に結びつけたさまざまな知識をわかりやすく教えてくれる。けれども、ひと慣れしていないわたしは見知らぬ人間に囲まれたこの狭隘な社会こそが息を詰まらせる最たる原因なのだった。ただでさえそうであるのに、とっさに言われたことがわからない、言ったことがうまく伝わらない、そのことがわたしの気をより塞がせていた。

 リーアは愛らしい、よき友人だ。けれど、考えてしまう。こんなところに来たくはなかった。入学通知など、届かなければよかった。あのミセス・ローレンスが囀る部屋の中で、リユンのためにごはんを作っていられたら、それだけでわたしはしあわせであったのにと。


「私の言葉は聞きづらいかしら? そうだったら遠慮なく言ってね。目配せでも構わない。授業中にエディルフォーレ語を使うことはできないから」


 フィア先生はそう言って、「ブランカ」とわたしの肩を優しく叩いた。


「負けないで。私もリユンもいつだって相談に乗るわ」


 *


 しかれども、ゼノンの苛めは日に日にひどくなっていった。新しい鉛筆を買い足しても、次の日にはまたその鉛筆を盗まれてしまう。二本まで買ったところでわたしは諦め、ペン入れを常にポケットに入れて持ち歩くことに決めた。

 先生の目を盗んで、授業中に紙くずが飛んでくる。机の中に蜘蛛の子が入っている。鞄の中に泥団子を詰められる。わたしはそのひとつひとつに黙々と対処した。髪を引っ張られなくなったリーアは申し訳なさそうな顔をして、わたしのあとについてくる。今度はふたりでわたしの鞄に詰められた泥団子を捨てる。リユンに買ってもらった、布地の鞄。ぴかぴかに輝いていたその鞄が泥で汚れているのを見てわたしは初めて泣きたくなったが、唇を噛んでそれをこらえた。茂みの向こうで笑うゼノンたちの気配がしたからだ。

 表向きは淡々と日々を過ごすわたしの胸裏はけれど、日を追うごとに消沈していった。さらに近頃のリユンは帰宅する時間がいつにも増して遅く、わたしはしばしば食事を作りかけにしたまま疲れて寝入ってしまう。オイルランプの灯る音でも目が覚めず、翌朝いつの間にか運ばれていたベッドの上で毛布にくるまってしょんぼりと肩を落とすこともままあった。


 その晩も、鍋で鶏肉や野菜が煮えるのを待つ間、わたしはチェックのノートを開いて、フィア先生が今日教えてくれた足し算と引き算の仕方の復習をしていた。教わった数式を書き出して、間違えた箇所をもう一度見直す。時折鍋をかき回しながら問題を解き、次のページを開いたところでわたしは鉛筆を握る手を止めた。

 何も書かれていない、まっさらなページに明日のことを思う。気持ちが重く塞がっていき、わたしは苦しさを紛らわすように息を吐いた。

 ――ゆきたくない

 無為に動いた手が六字をノートに綴らせる。真っ白いノートの端に小さく書かれたその文字はわたしの弱い悲鳴をあらわしているかのようで、暗澹たる気持ちが胸に広がった。そのときキッチンから鍋が噴きこぼれる音がして、わたしはノートを置いて椅子を立つ。鍋を移して、サラダを作る頃にはノートに書いた文字のことはすっかり忘れ去っていた。日告げの鐘が鳴ったあと、オイルランプの油の微かなにおいを嗅いだ気がするが、やはりわたしは目を覚ますことなく、リユンの手で移されたらしいベッドの上で朝まで眠った。


 翌朝、重い胸のうちを抱えて席に着いたわたしは未だ人気のない教室でひとりノートを開いた。昨晩は復習の途中で寝入ってしまった。授業が始まる前に残した箇所を読み返そうと考えていたのだけど、気鬱のせいでどうにも作業がはかどらない。嘆息し、それからふとノートの右端に微かな違和を感じてわたしは眉をひそめた。

 ――ゆきたくない

 か細い弱音は、昨晩わたしが書いたもの。消すことをすっかり忘れてしまっていた。しかしその隣に見慣れた、端正な文字が続けて綴られている。

 ――つぎのおやすみは、どこへゆきますか、ブランカさん

 それが誰のものであるのか瞬時に理解したわたしは目を瞠って、思わず息を詰まらせた。いつの間に書き付けたのだろう。そういえば、昨晩はノートを広げたまま眠ってしまっていた。机に投げ出されていたはずのノートは今朝、きちんとわたしの鞄の中にペン入れと一緒におさまっていた。悪さをしているわけでもないのにわたしはそろりと教室を見回し、誰もわたしに気を止めていないことを確認すると、ブランカさん、というラフトおじさんのような呼びかけで終わる文章をもう一度読み返した。それでも飽き足らず、何度も、何度も、繰り返し。字のかたちも、ことばも、覚えられるくらい読み返してから、ようやっと、ブランカさん、の呼びかけのあとに、こうえんへ、と綴った。

 ――こうえんへ ゆきたいです

   やいた、くっきー もって

 震える手で返事を書くと、ここにはいないはずの彼と細い糸で結ばれた気がして、わたしの胸に温かなものが満ちていった。いっとう大事な宝物にそうするようにノートを胸の前で抱き締める。

 わたしたちはすれ違いがちな夜の時間を埋めるようにノートにことばを書きあった。こうえんにゆきたい、と書いたわたしに、リユンが、どの? と尋ねる。きんもくせいのはなのある、とわたしは書き、きんもくせいのはなはよいかおり、と帰りに見つけた金木犀の絵を添えた。それに対して彼は、みました、と金木犀の小さな星のような橙の花をひとひら挟んで返す。花が手のひらの上にこぼれ落ちたはずみ、ふんわりと甘い香りがくゆった。私の知らない、夜の金木犀の。

 ノートの中でのやり取りを、わたしたちは翌朝顔を合わせてもお互いに口にしたりはしなかった。ふたりだけのささやかな秘め事。会話を応酬するのではなく、綴った文字にひそむその砂糖菓子のような甘い戯れをわたしは好んだ。

 ノートの中で、彼はわたしをブランカさん、と呼んだ。大人びた呼びかけがまだ十一歳のわたしには面映く、そしてなんだか少し誇らしい。ゼノンが蛙を机の中に入れても、わたしの椅子に落書きをしても、チェックのノートを抱き締めていれば、わたしは泣かないでいることができた。

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