Episode , “School” 3
エスペリアの夏は短い。
淡い夏を謳歌するようにあっという間に数多の花が開き、葉を茂らせ、爽やかな香りをいっぱいに振りまいて葉を散らせ、実をつける。東洋の島にある秋というものはない。短い夏が過ぎ去れば、冬将軍が雪嵐とともに押し寄せてこの極寒の小国に長い長い冬を告げるのだ。
エスペリア国立学校に入学して、すでに半年近くが過ぎようとしていた。相変わらずわたしはリーアの他に友達がおらず、ゼノンたちに苛められ、授業が終わる鐘の音にほっと胸を撫で下ろして帰宅する、そんな毎日を繰り返している。
校舎を出たあとわたしは裏庭に寄り、皆で植えた春告げ姫の種に会いに行った。花が育つのに必要なものは、ひかり、みず、それから愛情、とフィア先生が言っていたので、わたしは夏の間は如雨露に水を汲んで、こんもりした、まだ若葉の生える気配のない土に水をやり、冬、厚い雪に覆われてからは土の下の彼らに歌をうたった。
でぃんぐどん、でぃんぐどん、で始まるその歌は、安息日にリユンと通りがかった教会で聞いた賛美歌だ。足の悪い父親に代わり、家業の手伝いに忙しいリーアは授業が終わるとすぐに家に帰ってしまう。昼の間は待つ家族もおらず、リーアの他に友達もいないわたしはひとり肩掛け鞄をさげてしゃがみ、雪の下で芽吹きを待っている種たちに歌をうたった。
春告げ姫の芽がほっこりと芽吹いたのはエスペリアを覆う厚い雪が斑に解け始めた早春のことだった。最初にそれを見つけたのはわたしだった。雪が解けかかって半ば泥濘と化した土に小指ほどの薄翠の若葉が天を目指して生えていたのだった。わたしは小さな歓声を上げる。生まれたての赤子のごとき若葉がひどく愛らしく思えて、わたしはそっと柔らかな若葉を指の腹で撫ぜた。
フィア先生が皆を連れて裏庭へ向かったのは翌日のことだ。どうやら最初に芽生えた春告げ姫はゼノンが植えたものであったらしい。
「俺が植えた種だもん、当たり前だよ」
そばかすの散った頬に誇らしげな笑みを浮かべて自慢するゼノンに、「あらあら、そうかしら?」とフィア先生はぴしゃりと言った。
「あなたが忘れていた種をずっと世話してくれていたのはだぁれ?」
ゼノンは絶句した。茂みに隠れてわたしが鞄の中に詰められた泥団子を捨てるのを見ていたゼノンは、そのあとわたしが種に水をやったり歌をうたっていたことを知っているはずだった。
「花が育つのに、必要なものは何? ブランカ」
わたしを一瞥したきり閉口したゼノンから目を移すと、フィア先生は問う。この半年でフィア先生の話の速度にもだいぶ慣れてきていたわたしは先生の問いを労せず聞き取ることができた。好奇の目でわたしを見守る生徒たちに萎縮しつつも、抱き締めたチェックのノートに励まされわたしは顔を上げる。
「ミズ、ヒカリ」
それから。
「アイ」
よろしい、とフィア先生は艶っぽい唇を綻ばせて微笑んだ。そして少し面食らった顔をする生徒たちを見回して言う。
「いーい? あんたたち。愛を。愛を持ちなさい。花にも、勉強にも、ひとにもよ。それがまだちっぽけでみそっかすなあんたたちを美しくする」
*
「すごいわ。すごいわね、ブランカ!」
授業が終わると、リーアが興奮気味にまくし立てた。
「ブランカは優しくて、真面目で、勉強家だもの。あたし、知ってる」
リーア、とわたしは頬を真っ赤に染めて俯く。外に出たせいで冷たくなった手を繋ぎ、わたしたちは教室へ戻った。けれども、そこでわたしを待っていたのは、温かな生徒の談笑の声ではなく、折れた鉛筆と消しゴムとなくなってしまった肩掛け鞄だった。外に出るとき、ペン入れを持ってゆくのを忘れてしまっていたのだ。
「サイはいつも失くし物ばっかりだ」
机の上に散らばったそれらを呆然と拾い上げるわたしを遠巻きにうかがい、ゼノンたちが笑う。わたしはこみ上げてきた熱いものを必死に飲み込んだ。ブランカ、と袖を引こうとするリーアに首を振って、わたしは鉛筆と消しゴムをポケットに入れ、ゼノンたちに近づく。
「ワタシの鞄、ドコ?」
けれど、ゼノンはわたしの妙な発音を笑うばかりでちっとも鞄の在り処を教えてくれない。わたしは歯噛みした。だってアレは大事なものなのだ。ラフトおじさんの雑貨屋さんでリユンに見繕ってもらった、わたしのたったひとつの鞄。鉛筆よりも鞄のほうが高価なものであることくらい、わたしだって知っている。
ゼノン、と少年に言い募ると、さあどこへ行ったんだろう、と意地悪なことを言って、ゼノンはわたしの手からチェックのノートを取り上げた。わたしは悲鳴を上げる。
「かえして、ゼノン!」
わたしの常にあらざる取り乱しように、ゼノンは何か薄暗いことを思いついたらしい。そばかすの散った頬を歪めて、ほら、と仲間のひとりにノートを渡す。少年たちがあちこちへ回しあうノートを、わたしは泣きそうになりながら追いかけた。最後にノートはいちばん背の高いゼノンの手に戻る。ゼノンはすがりつこうとするわたしからひょいと身をかわし、チェックのノートを無造作にめくった。
「かえして!」
転げてみすぼらしく床に手をついたわたしは身を起こすのも忘れてなおも言い募る。
「さわるな、ヨソモノのくせに」
冷たく吐き捨てるゼノンは無慈悲だった。
「だって、おまえ、ナマイキなんだもの、サイ。親無し子のヨソモノくせに。サイ将軍の子どもになって。ナマイキ」
ゼノンは机の中から鋏を取り出して、わたしに見せ付けるように掲げた。開いた鋏がノートの綴り紐に向かったのに気付き、わたしは「やめて!」と叫ぶ。やめて、やめて、やめて。わたしの大事なノート。リユンとのささめきごとが綴られている。わたしの宝物。ひどいことしないで。やめてゼノン。
――じゃきん。
ふつりと切られた赤い綴り紐が頼りなく目の前に落ちた。綴じ紐を失った紙は窓から吹き込んだ風に煽られ、あっという間に教室中に散らばる。わたしは泣くことすら忘れてそれを見つめ、ノートのページを必死にかき集めた。ばらけてしまったノートはそれ自体がひとつの意思を持っているかのようにあちこちに飛んでいってしまう。つかめたものもあったけれど、遠くに吹き飛ばされてなくなってしまったものもあった。
わたしは拾い集めたノートを抱き締め、ゼノンを仰いだ。わたしのあまりの取り乱しように驚いてしまったらしい。中身のほとんどなくなったチェックの表紙を持ってぽかんと見つめ返す少年のそばかすの頬を、わたしは翻した手で叩いた。
「だいきらい!」
少年の青色の眸がはっと瞠られる。少し遅れて痛みが伝わってきたらしい。頬を押さえる少年の眸にみるみる薄い水膜が張った。やがてゼノンが大声を上げて泣き始める段になり、フィア先生が教室に駆けつける。泣き喚くゼノンと、唇を噛んでたたずむわたしを見やってフィア先生は眉をひそめ、小さく息をつく。そしてゼノンとわたしの名を呼んだ。
*
「だんまりはいい加減になさいな、あんたたち」
椅子に腰掛けた先生が何度目かの嘆息をする。ゼノンがぐずぐずとしゃくり上げるかたわらで、しかしわたしもまた、ばらけたノートを抱き締め頑なに沈黙を守っていた。それにフィア先生が痺れを切らした頃、「フィア?」と軍服姿のリユンが子どもたちの帰った教室に顔を出した。驚き、わたしは顔を跳ね上げる。続いて、同じく軍服に身を包んだ男性が入ってきてフィア先生に会釈した。消えかかったそばかすのあとや吊り目がちな眸のかたちからすると、このひとがゼノンのお父さんなのだろうか。
「父さん!」
案の定、ゼノンは短い叫び声を上げ、ひらひら手を振ったリユンにも気付いて「しょーぐん……」とばつが悪そうに目をそらした。
「早かったわね。時間は平気?」
「六時までなら。ブランカがゼノンを殴ったって?」
「まぁね。平手打ち。最初に仕掛けたのはゼノンのほうみたいだけど」
「ちがうよ! 俺はちょっとサイのノート、いじっただけだよ!」
「嘘吐け!」
弾かれたようにゼノンが訴え、父親らしい男性がゼノンの頭に拳骨を落とした。再度ぶり返してきた嗚咽をひっくとしゃくり上げ、「あんなに散らばるなんて、思わなかったんだよ……」とゼノンは歯切れ悪く呟く。
「それで? 僕らはどうしたらいいんでしょう、先生?」
うなだれるゼノンと無言のままのわたしとを見比べて、リユンは何故か楽しそうに小首を傾げた。ふんと鼻息荒く腕を組み、「ブランカ。ゼノン」とフィア先生はわたしたちの名を呼んだ。
「いーい、あんたたち? 論争はいいわ、大いにやんなさい。だけど、ゼノン。あんた男でしょ。自分より身体の小さな女の子を苛めんのはやめなさい。それからブランカ。腹が立っても年下の男の子を殴っちゃだめよ。そういうときはにっこり笑って、相手に拾わせるの。ゼノンは可愛いあんたにちょっかいかけたいだけなんだから」
「せんせい!」
フィア先生の物言いには納得ゆかぬものがあったらしい。目を白黒させて、ゼノンが叫ぶ。こんな奴。ナマイキ。可愛くない。ゼノンがあまりにも早口でまくし立てるので、すべてを聞き取ることはできなかったが、わたしは小さく息をつくと、「ハイ」とフィア先生に向かってうなずいた。
ゼノンを叩いた手のひらはまだじんわり熱い。ゼノンのしたことを許せたわけではなかったけれど、真っ赤に腫れた彼の頬は、やっぱりわたしの目には痛々しく映った。ひとに殴られたときの痛みをわたしはよく知っている。リユンに買ってもらった白いハンカチをゼノンの頬にあて、わたしはゴメンナサイ、とそっけなく言った。その発音をゼノンはもう笑わなかったし、差し出したハンカチを振り払ったりもしなかった。
門を出ると、あたりはすでに赤銅色の残照に包まれていた。顔を俯かせて歩くわたしに追いついたリユンは「あと三十分ある」と懐中時計を確認して言った。おそらくわたしのために取ってくれた休憩時間のことだろう。
「途中まで一緒に歩こうよ、ブランカ」
所在なく落ちたわたしの手のひらを大きな手のひらで包んでリユンは言った。軍人さんとは思えない、華奢なそのひとの指をわたしはきゅっと握り返す。
わたしがゼノンにしたことについて、リユンはどう思っているのだろう。こんなひどいことをする娘を持ってしまって、恥ずかしく、情けなく、思ってはいないだろうか。他の子たちのようにすぐにひとの輪に入って、打ち解けることのできないわたしを。子どもらしい無邪気さも明るさもないわたしを。娘にして、後悔してはいないだろうか。
考えるだけで胸は潰れるようで、わたしは思い詰めた視線を足元に落とした。灰色の石畳にリユンとわたし、ふたつの影が細長く伸びる。やわく吹く風が甘い花の香を運び、リユンはわたしの手を引いて足を止めた。
「いいかおり。リラの花が咲いてるね」
藍色の眸を細めて、頭上に枝を伸ばしたリラの淡紫の花群れを仰ぐ。宵空に染まったリラの花は普段よりもほのかに青みがかって見えた。
「キミが、教えてくれた」
唇を引き結ぶわたしのほうを見てリユンは優しく微笑む。そんな話を、確かにノートの中でした。わたしがリラの花の絵を描き、リユンはいつものように淡紫の花びらをひとひらノートの間に忍ばせ、見ました、と添える。ノートの中だけに存在していた秘密めいたやり取りがふと現に繋がった気がして、「あのはなびら、」とわたしは胸につかえていたものが自然こぼれ落ちるように、今は本の栞にしている花の話をする。
「すてき。アリガトウ」
「帰り道に見つけたんだ、キミの言ってた公園で」
「うん」
「次の休みはどこにゆこうか」
当たり前のように続けられた、未来のはなし。まだわたしのことを娘だと思ってくれているのだとわかって、胸がちくんと痛んだ。目を伏せて、不安で潰れそうな気持ちを押さえ込み、リユンの指先を握り締める。
「リユン」
「うん?」
「……ゴメンナサイ、わたし、」
きっと、わたしはあなたの期待通りのことができなかった。きっと、本当は失望されてしまった。級友と打ち解けるどころか、諍いまで起こしてしまったわたし。あとを続けられなくなって唇を引き結んだわたしの頭に、大きな手のひらが乗る。目を瞬かせ、わたしはわたしの父親であるひとを仰いだ。
「ブランカ。腹を立てても、殴ってしまったらキミの負けだよ」
暖かさの裏にひやりとする鋭利さをひそめてリユンは呟いた。白い頬に宵の翳りが射す。目を細めたわたしの頭をくしゃりと撫ぜて、それから彼は群青色の空気に溶け入るように微笑んだ。
「いいんだよ、ブランカ。間違っても。ごめんなさいって謝れれば、それでいいんだ」
実は僕も今のエスペリア王を殴り飛ばしたことがある、とそのあとひっそり耳打ちされた言葉にわたしは目を丸くさせ、それから大きく温かな手の下で、すんと喉を鳴らしてしゃくり上げた。ずっとずっとこらえていた涙がぽろぽろと頬を伝って落ちる。嗚咽が止められなくなって、わたしは彼の固い軍服を握り締め、そこに顔をうずめた。彼の腕が緩やかに背中に回る。宵初めの淡紫色をしたリラの花の下で、わたしは微かに苦い香のする彼の上着に顔をうずめて泣いた。
金の鐘が月の架かった空に響いて、夜を告げる。
*
翌日。泣き腫らした目を伏せがちにして教室に入ったわたしのもとに、同じく目を厚ぼったくさせて頬を腫らしたゼノンがやってきた。腕に抱えた何枚かの紙を無言で差し出す。怪訝をあらわに一瞥し、わたしは目を瞠った。昨日風に紛れて飛んでいってしまったノートの数ページ。破れてしまったものはきちんとテープで貼り合わせてある。
「悪かった、よ」
驚いて言葉を失ってしまったわたしに、ゼノンがそばかすの散った頬をかきながらそっぽを向いて告げる。その指先に木の葉で切ったらしい小さな切り傷をたくさん見つけて、わたしは眸をゆっくり瞬かせた。
「……アリガトウ」
受け取ったノートの断片を抱き締め、微笑む。ゼノンはわたしの顔をびっくりした風に見つめ、一瞬のち耳の先に至るまでを真っ赤に染めた。小首を傾げたわたしに、「ドウイタシマシテッ」と片言で告げて逃げるように立ち去ってしまう。その背中を見ていたリーアが鞄を置きながら、「ゼノンって案外可愛いのね」とおしゃまな顔をして呟いた。
帰り道、リーアと裏庭に寄ると、わたしの植えた春告げ姫の種が土の中からほっこりと翠色の芽を出していた。わたしたちは顔を見合わせ、手を取って微笑い合う。
その晩、リユンの帰宅を待つ間、わたしはチェックのノートに昼に見つけた愛らしい芽を描き、はながそだつのにひつようなものは、とフィア先生に教えてもらった話を書き付けた。みずと、ひかり。そして。
――すると、翌朝、わたしのつたないエスペリア語の隣にリユンの端正な字でこう綴ってあった。
『べんきょうになりました。愛しの花』
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