Episode , “School” 1

 聖人メイティルの殉教日は、エスペリアでは祭日にあたる。

 朝のミサのあと、久しぶりの休日にリユンがわたしを連れて向かったのは、ラフトおじさんの雑貨屋さんだった。小さなわたしと背の高いリユンは街を歩くとき、いつも手を繋ぐ。わたしの赤子のような丸い手のひらをリユンの骨ばった大きな手のひらが包み、ときどきやってくる休日、わたしたちは籠につめたサンドイッチと紅茶の水筒を持って、エスペリアの街を散歩した。秘密の小道を見つけて名前を付け合い、街角のポスト、木苺の花、斑の子猫、目に映るものをひとつひとつ指差して、互いの言葉を教えあう。

 季節は夏の終わりで、わたしがこの国にやってきて半年ほどが経った。いくぶん長くなった灰かぶり色の髪で左右に緩いお下げを作り、わたしはリネンのワンピースを翻して遠くにエスペリアの古城を戴く石畳の道をリユンと歩く。常であるならこのまま気ままに街をめぐり、気に入りの公園でサンドイッチの包みを開いたりするのだけれど、今日の散歩はいつもと少し違っていた。教会を出てすぐ、リユンが目的地を告げたからだ。ラフトおじさんの雑貨屋さんである。


「いらっしゃい」


 かららんころろん、と異国風の鈴を鳴らしてドアを開くと、ラフトおじさんが白髭をくしけずっていた鏡から振り返って声をかけた。


「こんにちは、ブランカさん。――おや珍しい。あなたも一緒か、将軍」


 ラフトおじさんの物言いが少々心外であったらしい。リユンはしかめ面を作って何がしか軽い応酬をし、「ノート三冊と鉛筆、それから鞄」とメモを見ながら言った。


「すぐに揃えられる?」

「もちろんさ」


 リユンの申し出にラフトおじさんはウィンクひとつで請け負って、ノートや鉛筆、布地の鞄を次々に運んでくる。


「少し大きいね」


 わたしの肩に鞄をかけて、リユンは呟き、裁縫用の糸をふたつ追加で所望した。どうやらわたしのものになるらしいそれらをわたしは呆けた顔で見つめる。鞄はないが、買い物に行くのには籐籠があれば困らなかったし、ノートも持っていなかったけれど、家の長卓に置いてある紙とペンで事足りた。リユンが何故そのようなものを突然わたしに買い与える気になったのか、わたしにはさっぱりわからなかったのだ。


「いつもありがとう」


 赤いチェックのノートと鉛筆、消しゴム、ついでにハンカチや靴下、ハーブといった日用品も揃えると、リユンは少し多めの代金をラフトおじさんに渡した。かたわらで彼の買い物を眺めていたわたしの頭に手を置き、「がんばれよ、ブランカさん」とラフトおじさんが脈絡なく言う。何かを聞き漏らしたのだろうかとわたしは首を傾げたが、そのことについてうまく尋ねる前にリユンがわたしの手を引いて歩き出した。

 雑貨屋さんを出てからの道のりもまた、いつも昼ごはんを広げる公園とは違っていた。リユンは戸惑うわたしを安心させるよう手を繋いでしばらく歩き、やがて現れた優美な曲線を描く鉄の門を仰いだ。一見すれば、公園のようでもあったけれど、門の内側には大きな青屋根の建物が何棟か連なって立っている。尖塔には鐘楼があり、金色の鐘が吊り下がっていた。


「キョウカイ……?」

「ううん、“学校”」


 尋ねたわたしに、リユンは首を振って教える。

 ガッコウ。その言葉を、このときのわたしはまだ知らなかった。未だ身分の格差が激しいエディルフォーレでは、教育は富める者にのみ与えられる特権であって、奴隷のわたしには当然手の届かないものであった。けれど、エスペリアでは異なる。このときすでに官舎のポストには蝋で封をされた一通の手紙が届いており、そこにはブランカ=サイの名と、エスペリア国立学校への入学通知が入っていたのだった。


 エスペリアに住む十五歳以下の子どもたちは皆等しく無償で六年間の教育を受けることができる。入学試験はない。役場の台帳に登録された七歳以上十五歳以下の子どもたちについて、国の教育機関が夏の終わりに入学通知を送る。それはリユン=サイの養女であり異国人であるわたしも同様で、手続きに少々の時間を要したものの、秋の学期初めと一緒にわたしも王都の国立学校へ入学することになった。

 十一歳。レーヴェ=エスペリア国王になってから約二十年ぶりに復活した制度であり、応じて生徒の年齢も未だまちまちであると聞いたが、それでもわたしは少し、他の新入生たちよりも年嵩であるといえた。

 入学の朝、リユンはいつもより早く家を出て、わたしを学校まで送り届けてくれた。ノートや鉛筆、昼食を詰めた鞄を肩にかけ、髪を三つ編みに結い、慣れない新しくて固い靴に足を入れながら、わたしは未知への不安で押し潰されてしまいそうだった。

 いつにも増して口数の少ないわたしを案じたらしい。リユンは校門へ続く前の曲がり角で足を止めると、長身をかがめてわたしの顔をのぞきこんだ。わたしの不安げな視線を受け止めて柔らかに細まる彼の藍色の眸は、こんなときも春の静けさを宿している。


「ブランカ。確認しようよ。最初に言うのはなぁに?」

「……『ハジメマシテ』」

「そうだね。はじめまして、ブランカさん?」


 リユンはにっこり笑って手を差し出した。わたしがぎこちない所作で手を重ねると、「大丈夫だよ」と俯きがちなわたしの頭を撫ぜる。


「ブランカ、大丈夫。こわくない」


 ゆきたくない、と子どものような駄々をこねるのをわたしは肩掛け鞄のベルトを握り締めることでかろうじて耐えた。歩みの遅いわたしを連れて門をくぐり、リユンは門の前に立っていた黒髪の若い女性に挨拶する。少し勝気そうな吊り目の、けれどきれいな顔立ちの女性だった。糊のはったブラウスに深緑のロングスカートをはいて、艶やかな黒髪はくるくると肩のあたりで巻いてある。

 リユンに促され、「ブランカ、サイ」と名乗ると、女性は怜悧な相好を崩して「フィアよ。フィア=ローゼン」と明るく握手を求めた。おずおずと差し出したわたしの手を握り返すフィアさんの手のひらは優美であるのに、あたたかだ。


「ブランカ」


 しばらくフィアさんと話しこんでいたリユンはやがて頭上の金の鐘が鳴ったのに気付くと、うな垂れているわたしを呼んだ。ワンピースの襟を整え、前髪を撫で付け、それから最後に大きな手のひらがわたしの背を優しく押す。


「いってらっしゃい」


 いつもはわたしが口にする言葉を、今日はリユンが囁く。それがふたりきりの穏やかで甘い日々の終わりを告げているような気がして、わたしは寂しくなった。


 *


 上は十五歳から下は七歳までの新入生が集められた教室は子どもたちの喧騒で賑わっていた。おそるおそる足を踏み入れた瞬間、頭上すれすれを飛んできた紙くずにわたしは目を瞠って硬直する。中央で、わたしよりも幾分年下の男の子たちが取っ組み合いの喧嘩をしており、紙くずはそこから飛んできたらしい。萎縮しきり、肩掛け鞄のベルトを握り締めてたたずむわたしの後ろからフィアさんが現れ、パン、パン、パンと三度、よく響く音で手を打つ。騒いでいた子どもたちの視線が自然そちらへ引き寄せられた。


「あなたたち! ――――なさい!」


 フィアさんが華奢な肩をそるような気迫で何かを言う。


「――――なさい!」

 

 一見たおやかな女性から飛び出た怒声に驚くのを通り越して呆けた子どもたちは、フィアさんの再度の号令に皆慌てた様子で近くの椅子に座った。わたしはといえば、フィアさんの喋りが聞き取れず、鞄のベルトを握り締めておろおろとするばかりだ。


「ブランカ、座って」

 

 戸口のあたりでたたずむわたしに気付いたフィアさんが空いている椅子を指差して今度はゆっくり、わたしでも聞き取れる速さで言う。そこで初めてフィアさんの言わんとすることを理解して、わたしはいちばん端の席にちょこんと腰を掛けた。


「エスペリア――――へようこそ。『センセイ』のフィア=ローゼンよ」


 センセイ。『先生』のことだろうかと、わたしは知っている単語と聞き取った音とを結び付ける。まだ二十代後半ほどに見えるフィア先生は確かに教師にふさわしい堂々たる風格を持っていて、さっそくいくつかの規則を黒板に書いていった。

 ひとつ。喧嘩をしないこと。

 ひとつ。ものを取り合わないこと。

 フィア先生の喋りは早く、ようやくエスペリア語に慣れてきたばかりのわたしには聞き取りづらい。黒板に書かれた文字を読み取ることでわたしはどうにか話の内容を理解しなければならなかった。

 ひとつ。わからないことは手を上げて聞くこと。

 そこで、さっき取っ組み合いの喧嘩をしていた黒髪にそばかすの男の子が手を上げる。


「せんせい。俺、――ないよ」


 黒板を指差して顔をしかめた男の子に、フィア先生はにっこり笑い、何かを口にした。かろうじて「これから」と「教える」という二語を聞き取って、勉強のおはなしだろうかとわたしは見当をつける。


「この中で――が――ないひとは? いる? 手を―――して!」


 フィア先生が腰に手をあて、わたしたちを見回した。二十人ほどいた子どもたちのうち、半分ほどが手を上げる。いったい何を訊いているのか、はかりかねたわたしは眉根を寄せてあたりを観察する。比較的小さな子どもたちが多かったが、それ以外にわかることはなかった。わたしの隣の席に座っていた年下らしい女の子も手を上げていたが、わたしに気付くと、「あなた、――ね」と人懐こく微笑んで話しかけてきた。


「あたし、プリュネ=リーア」

「ぷりゅね、りいあ」


 わたしの発音はまだつたない。リーアは少し不思議そうな顔をしたが、「ぶらんか、さい」とわたしが名乗り返すと、「よろしく、ブランカ」と手を差し出した。



 その夜、リユンは珍しく日付が変わる前に帰ってきた。

 夕ごはんを半分まで用意したところでうっかり寝入っていたわたしは、オイルランプの灯る微かな音で目を覚まし、キャベツの葉を巻いたまま煮込みを済ませていない挽肉に気付いて赤面した。付け合せのサラダも人参の皮を剥いたところでそのままになっている。

 ゴメンナサイ、と俯いたわたしに、おおかた事情を察したのであろう。リユンは取り立てて言及はせずに、わたしの頬についたテーブルの痕をつついて微笑った。


「お鍋、あっためたらいいの?」


 ほどけかかったエプロンのリボンを結びなおして袖まくりをしていると、着替えたリユンがやってきて火消し壷に入っている炭を取り出す。わたしはうなずいて、下ごしらえを終えていた鍋に玉葱やナツメグなどと大きなキャベツを巻いた挽肉を入れた。それから途中にしていたサラダに取り掛かり、リユンはパンと棚奥から出してきた固めのチーズを切って、食器に並べる。ハーブで煮出したお茶と、リユン用の薬草酒。すべてを並べ終える頃には、トマトスープのほの甘い香りが煮込んだ鍋蓋の合間からふんわりくゆった。一仕事終えた互いを労って、カップとカップをかちんと合わせる。


「学校はどうだった?」


 キャロットサラダと挽肉をキャベツの葉で包んでトマト煮にしたものを食べ終え、薬草酒にチーズを嗜みながらリユンが問うた。白パンをちぎっていたわたしは目を伏せて、言いよどむ。瞼裏に真っ白いままの赤いチェックのノートと苦しいくらいの焦燥がよぎった。

 その日のうちにさっそく始まった授業は、それまでガッコウというものを知らずに育ったわたしをひどく困惑させた。まず、フィア先生の言葉の大半をわたしは正確に聞き取ることができない。質問する生徒たちの言葉もだ。俗語や訛りが多いせいもあるけれど、特に速さが問題なのだということにわたしは気付いた。彼らのやり取りは速い。否、より正確に言うのなら、わたしとリユンの普段の会話のほうがとても遅いのだ。わたしの出自を知っているラフトおじさんやポルコさんにしてもそう。皆わたしに合わせて、聞き取りやすいテンポで喋ってくれる。それに慣れきっていたわたしは日常会話がこんなにも速いものだということをすっかり忘れていたのだった。

 今日フィア先生が皆に見せたのは一袋の種だった。ひとつずつ皆に配り終えると、ノートと鉛筆を持ってついてくるように言う。向かったのは、学校の裏庭だ。柵に巻きついた野薔薇やわたしが名を知らぬいくつかの花や樹を指差して、フィア先生は何かを言った。それに対して、あの取っ組みの喧嘩をしていた――そばかすのゼノンという男の子が手を上げて何かを質問する。彼に感化されたのか他の子たちも次々に手を上げ始めた。

 フィア先生の呼びかけで子どもたちがノートを広げたので、わたしも首を傾げながらノートを開く。間を置かず、皆がわっとあちこちに散らばった。真剣な顔つきでノートに何かを書きつけだした子どもたちをうかがい、わたしは自分の真っ白なノートに目を落として途方に暮れる。皆はいったい何を書いているのだろう。わたしは何をしたらいいの? 

 級友に声をかけることもできず、たたずむわたしに気付いたフィア先生が「好きな花」「絵」と教えてくれたが、その頃にはほとんどの子どもたちが絵を描き終えており、わたしは背中に突き刺さる子どもたちの視線に頬を熱くしながらスケッチをせねばならなかった。結局、あのあと皆で土に埋めた種が何の植物だったのかすら、わたしにはよくわからずじまいだったのだ。


「――ブランカ?」


 黙りこんでしまったわたしにリユンが問いかける。

 たのしかった。しんぱいしないで。

 そんな他愛のない嘘の付き方も知らぬわたしは俯いて、空になったお皿に載せたフォークを見つめる。ふと温かな手が頬に触れた。何も言わずに添えられた手のひらは労わるようにわたしのまるい頬を温める。


「僕にもお茶を淹れて、ブランカ」


 小さく微笑むと、リユンは頬をさすって手を離し、いつものように甘やかにねだった。

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