Episode , “Beautiful days”

 甘くとろけたバターに、溶いた卵を落とし込む。塩胡椒、ミルク、ポルコさんに譲ってもらったパセリの葉を刻んで、少々。ぐしゅっとした黄色い卵からミルクとバターの甘やかな香りが広がる。

 わたしは出来上がったオムレツを皿に移し、キツネ色の焦げ目がついた食パンを適当な大きさに切った。ジャム瓶をテーブルに出し、木製のフォークとナイフを置く。茶葉を準備したポットに沸騰したお湯を注ぐと、わたしはポルコさんに作ってもらったリネンのエプロンワンピースを翻して、奥の部屋に向かった。

 カーテンの閉め切られたその部屋は、眠っているひとの持つ重たい気配がまとわりついている。わたしはカーテンを開き、備え付けの簡易ベッドの上で眠っているそのひとをのぞきこんだ。彼の濃い睫毛は今は閉ざされていて、耳を澄ませば、規則正しい寝息も聞こえてくる。リユン。わたしは彼の名を呼ばい、毛布をかぶった身体を揺すった。


「うー……ん」

 

 呻きともつかぬ声が漏れ、藍色の眸がうっすら開く。枕元に手をついてのぞきこむわたしを見やり、リユンは「……もう、朝?」と寝起きのひとらしい少しかすれた声で訊いた。こくりとうなずき、「ロク」とわたしは壁掛け時計を示して告げる。

 「六時」は軍に勤めるリユンの起床時刻である。わたしの答えに、リユンは不満げに唸り、二本の腕を伸ばしてわたしの身体をベッドの上に抱き上げた。毛布ごとわたしの身体を包んで、アト、ゴフン、とエディルフォーレの言葉で取り成すように言う。あと五分。わたしの返事を聞かずに、頭上で深い寝息が落ちた。わたしは目を閉じて、あと、ごふん、と穏やかな温もりの中に身を浸す。


 五分長く寝かせてしまった紅茶は少し苦かった。

 リユンはいいよ、目が覚めるもの、とカップを傾けるけれど、わたしはなんだかがっかりしてしまう。リユンのためにおいしい朝食を用意するのはこの家においてのわたしの数少ない仕事であり、いちばんの楽しみでもあったからだ。砂糖とミルクをいつもより多めに入れて眉間を寄せながら紅茶を飲むわたしを、リユンは先ほどから頬杖をついて楽しそうに眺めている。

 リユンは朝が弱い。この共同生活を始めてからしばらくして気付いたことだ。ベッドから身を起こすまでに時間がかかるし、起きて三十分くらいは上の空でいる。


「ごちそうさま」


 パンとオムレツをきれいに平らげ、リユンはフォークを置いた。まだ半分ほどしか進んでいないわたしに合わせて、二杯目の紅茶を注ぎ、それから思い出した風に窓に架かっている鳥籠の小鳥にパン屑をやる。ミセス・ローレンス。リユンは洒落た貴婦人のような名前を小鳥につけて可愛がっていた。性別は「女性」であるのだという。わたしは思いついて、「ソレ、」と小鳥のほうを示した。


「ミセス・ローレンス?」

「……ローレンス、ナニ?」

「ローレンスは『とり』だよ、ブランカ」

「コレハ?」

「それ? 卵?」


 リユンはペンを取って、机に常時置いているメモ帳に小鳥と卵の絵を描く。そして小鳥のほうに「とり」と綴り、卵のほうに「たまご」と綴った。エディルフォーレとエスペリアは言語の発音こそ違えど、文の組み立て方や書き文字のほうはかなり近いものを使っている。御主人様にそういった教育を与えられなかったわたしは書き文字のほとんどを知らなかったけれど、それはこの三ヶ月、リユンとポルコさんにかわるがわる教えてもらったおかげで、書かれたものを読み取る程度はできるようになっていた。


「トリ」

「うん、そう」

「タマ、コ」

「たまご」

「コ」

「ううん、〝ゴ〟」

「コ、こー、ゴ、ゴ。タマゴ」

「うん。うまい。それだよ」


 わたしにとって、彼は実によき先生だった。難解な言い回しは避けて、ごく平易な言葉を使い、ゆっくり話してくれる。「はい」「いいえ」「それ」「これ」「あれ」「わたし」「キミ」「何故?」「わかった」「おはよう」「ごめんなさい」「ありがとう」「おやすみ」、覚えた言葉たち。簡単な言い回しさえ知っていれば、日常生活の大半は送れることに気付く。

 そのとき壁掛け時計がひとつ鳴った。七時。時間に気付いたリユンが「まずい」と顔をしかめる。ミセス・ローレンスを空へと放ち、濃紺に近い軍服の上に夏用の薄いコートを羽織る。見送りに駆け寄ったわたしの頭にぽんと手を置いて、みじかに何かを告げると、リユンはドアノブを押した。

 聞き取れたのはかろうじて三語。「夜」と「遅い」、それから「おやすみ」。おおよそを理解して顎を引いたわたしの灰かぶり色の頭を撫ぜて、「いってきます」とお馴染みのフレーズをリユンは口にした。いってらっしゃい。いつも口にするから、いちばんうまくなった言葉でわたしは彼を送り出す。


 こうしてわたしの朝はいつも足早に、春嵐のごとく通り過ぎる。リユンを見送ったあとのわたしはまず彼が籠の中にまとめておいた食器を洗うことから始める。

 次に昨日のぶんの洗濯。洗い籠に積んだシャツやタオルを抱えて、外にある共同の水道へと向かう。生活に必要な水は前の晩のうちに部屋の水瓶に貯めておくのだが、洗い物となればまた別だ。

 リユンは他の軍人さんに漏れず、国から与えられる官舎に住んでいた。将軍という位がこの小国でどれほどのものになるか、たぶん獄吏よりは偉いのではないかというくらいしかわたしには想像がつかなかったけれど、ことリユンに限って言えば、彼の部下たちと間取りの変わらない部屋で、そう大差のない生活をしている。無欲というよりは、彼はもとからあまりそういったことに興味がないようだった。

 共同水道の蛇口を捻り、洗濯物を洗う。エスペリアは今、淡い夏の盛りにある。蛇口から流れ出す水はひんやりと手に心地よい冷たさだ。洗いものを終えるとそれを共有の屋上に干して、わたしは籐で作った手提げ籠をさげて外に出る。肩ほどだったわたしの髪はこの三月の間に少し伸びて、ときどき風の戯れで毛先を遊ばせてはワンピースの襟をくすぐった。

 エスペリアーゼ。小国の王都でもあるこの街は、エディルフォーレとは異なり、灰色の石畳できちんと整備され、曲がり角や道の交差するところには必ず標識が設けられていた。子どもでも老人でもわたしのような異邦人であっても、簡易な文字さえ読めればこの街で迷うことはない。聞けば、もとは戦火で廃れていたものをこの数年のうちに急速に復興を遂げたという。

 けれどわたしにはすでに通い慣れた道のりである。「鷲と酒樽亭」の裏通りにひっそりたたずむ雑貨屋さんの前で足を止め、わたしはドアに吊り下がった木製のベルを鳴らした。いらっしゃい、と白い口髭をたくわえた店主――ラフトおじさんが店の奥から顔を出す。


「コンニチハ」


 ちょこんと頭を下げたわたしに、こんにちは、と同じ言葉を繰り返し、ラフトおじさんが何かを続ける。端々に訛りのあるラフトおじさんの言葉は少し聞き取りづらかったけれど、小割にした棚に並んだ品々へ向けられた穏やかな青の眸を見て、今日は何が欲しいのかと、そのようなことを問われたのだろうと考える。


「コレ、」


 わたしはリユンに昨晩のうちに書いてもらったメモをラフトおじさんに差し出す。玉葱をひとつ。人参とじゃがいもをふたつずつ。牛乳。バター。石鹸。白砂糖を一袋。まち針と裁縫用の糸を三つ。ラフトおじさんは愛嬌のある丸い眸でウィンクをひとつして、メモに書いたものを魔法のように揃えてくれる。

 けれども、わたしとリユンの意思疎通が必ずしもうまくいっているとも限らない。石鹸の代わりにたわしを持ってきたラフトおじさんに首を振り、石鹸という単語を知らないわたしは並んだ棚からそれらしい乳白色の塊を見つけてきて、買い物袋に一緒に入れる。ラフトおじさんが足し合わせた伝票をわたしに渡し、わたしはリユンからあらかじめ預かっていた銅貨を払った。


「ブランカさん」


 ラフトおじさんはわたしの名前のあとに、ポルコさんやリユンが使わない二音の単語をつける。リユンに聞いたところ、それは相手への敬称なのだと教えてくれた。こんな小さなわたしにも丁寧に「さん」をつけるラフトおじさんはどこか紳士のようなたたずまいで、わたしはほんのり頬を赤らめてしまう。ラフトおじさんは奥の、売り物ではない棚からレースで編まれた小さなサシェを取り出すと、わたしが抱えた紙袋のいちばん上に載せてくれる。


ブランカ


 首を傾けたわたしに、ラフトおじさんが言った。とっさに意味をはかりかねてうかがうと、サシェの中の白い花びらを指差し、もう一度「ブランカ」と。「ブランカ?」と尋ねれば、ラフトおじさんは根気よく「ブランカ」と繰り返した。そしてわたしの頭をひとつ撫ぜて、またいらっしゃい、と皺の刻まれた温かな手のひらで背を押す。


 もらったサシェからはふんわり可憐な花の香りがした。

 わたしは目を細めて、サシェに口付ける。そうすると、咲き初めの淡い春に包まれる心地がして、わたしの心も弾むようだった。ほんの一時であっても手離すのが惜しく、なくさないようポケットに入れて、エプロンに袖を通す。

 買ったものを洗い、固形のバターやミルク、小麦粉といったものを用意する。野菜をたっぷり入れたミルクシチューはわたしの好きな料理のひとつだった。御主人様のお屋敷の厨房で働いていた奴隷の青年を時折手伝っていたわたしは、ひと通りの調理法を知っていた。エディルフォーレとエスペリアでは店に並ぶ食材や調味料が少し違うけれど、料理の種類はあまり変わらない。わたしは朝と夜、リユンのために食事を用意するこの時間がいちばん好きだった。

 洗ったじゃがいもを適当な大きさに切り分け、水につける。玉葱や人参、キャベツ、他の野菜も切り分けたあと煮込み用の深鍋に入れて炒め、ポルコさんにもらった調理用の白葡萄酒、水とローリエの葉を添えてじっくり煮込む。わたしは別の小さな鍋にバターを落とすと、焦がさないように注意しながら小麦粉を加えて木べらで混ぜた。だまにならないように丁寧に、丁寧に。バターのこうばしい香り。ミルクの入った壷を傾け、鍋に注いだ。

 じゅう、と温かな音が爆ぜる。胡椒と塩を振り掛け、時間をかけてとろりとなるまで煮詰める。その頃には深鍋から柔らかになった玉葱の甘い香りがくゆってくる。わたしは作ったソースを深鍋に移した。ミルクと玉葱のにおいを閉じ込めるように蓋をして、あとはぐつぐつと時間をかけてゆっくり煮込む。鍋の近くは温かく、日が暮れて冷え始めた部屋の中でわたしはかじかんだ手を組み合わせながら、ことことと音を立てる鍋を眺めた。


 リユンの帰宅はいつも遅い。時計が零時を回る前に帰ってくる日はまだよいほうで、たいていは日が変わったことを告げる鐘のあとに帰ってくる。わたしはいつも窓辺で外の明かりがひとつまたひとつと消えていくのを数えながら彼の帰りを待った。

 あまり急がずシチューができあがるのを待ち、のんびりサラダの準備に取り掛かる。ポルコさんにハーブとオリーヴ油で作った調味料をもらったので、それにあわせようとセロリを切った。長卓にテーブルクロスを引き、食器を並べ、白パンを籠に盛って、用意を終えると、わたしはようやく息をついた。

 壁掛け時計は夜の九時を指している。リユンが帰ってくるまでまだ時間はかかるだろう。わたしは長卓の上にノートを開き、リユンに教わったエスペリアの書き文字の勉強を始めた。ぜんぶで三十ある文字をひとつひとつ書き出していく。しばらく文字の練習にいそしんでいたわたしは、そのうち抗いがたい睡魔に襲われ、長卓に肘をついてこっくりと舟を漕いだ。やがて肘を倒して寝入ってしまった時刻をわたしは正確には覚えていない。


 ――ぎぃ。ぱたん。

 わたしが心待ちにしている音はいつもひそやかに、注意していなければ気付かないような静けさを伴って訪れる。ブーツの立てる硬い足音のあと、オイルランプが灯るじじっという微かな音と油のにおいがして、それから頭に大きな手のひらが置かれた。

 うっすら目を開ければ、「ただいま」と待ちわびていたひとが囁くように言う。彼は長卓に整然と並べられた食器を見やって、「ブランカ、ごはんまだ?」と尋ねた。わたしが顎を引くと、いいのに、と苦笑する。先に食べていて、いいのに。わたしはかぶりを振った。


「オカエリナサイ」


 微笑む。いってらっしゃい、と同じくらい好きで、わたしがいちばん得意な言葉だ。朝、いってらっしゃいで彼を送り出し、夜、おかえりなさいで彼を迎える。その日々をわたしは何よりもあいしていた。わたしの頭を撫ぜて、リユンはただいま、と今一度告げる。大きな手の下でわたしもまた、おかえりなさい、と大事に言った。

 

 ミルクシチューとサラダと白パンはふたりで残さず平らげた。食後の紅茶を味わうひととき、わたしは昼にラフトおじさんにもらったサシェをリユンへ差し出した。

 「ラフトおじさん」と名前を上げ、「ブランカ」と白い花を指差して教える。おおかたのことはそれで察したのだろう。リユンは苦笑して「ラフトおじさん」と同じく名前を上げ、小声で何かを続けた。娘。虫。花。続いた単語は少し読み取れたが、何を言ったかまではわからない。首を傾げたわたしにサシェを返し、彼は微笑んで何かを訊いた。その言葉は今までにも何度か聞いたことがあった。――ウレシイ、ね? わたしはサシェを抱き寄せてこくんとうなずく。


「リユン」

「うん?」

「ナマエ、ブランカ、ナゼ?」


 ラフトおじさんからもらったサシェを見つめていたら急に気になってしまったのだ。どうしてリユンはわたしに花と名付けたのだろうか。灰かぶり色の髪に、翠の双眸。わたしに白い花を想起させる特徴はない。

 リユンはうーんと迷うような間をあけて、聞きたい?と問うた。わたしはうなずく。

 それはキミがとってもね――。

 わたしの額にかかった髪をかきあげながらリユンはそっと囁いた。うまく聞き取ることができず、わたしは小首を傾げる。もういちど、とせがめば、彼は悪戯めいた笑みとともにわたしの額をちょこんと弾き、話をおしまいにした。


 *


 深夜一時過ぎ。長く灯っていた官舎の明かりがまたひとつ落ちる。おやすみなさい。囁く少女の声を包み込み、エスペリアの夜は静かに更ける。

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