After days

Episode , “ESPERIA”

 頬を撫ぜるまろい風は、春の到来を告げていた。

 規則的に刻まれる緩やかな振動と身体を包み込む温もりとに身を預け、浅いまどろみに落ちていたわたしは、風の気配に誘われ、ゆるりと目を開いた。とたん射し込んだ光の眩しさに開いた目を細める。

 乳白色の靄が晴れるのにつれ、眼前に古い石造りの街並みと丘の上に聳え立つ古城とが姿を現した。小さく息をのんだわたしを、「ブランカ?」と馬の手綱を握るリユンが耳朶に温かな呼気を触れさせて呼ばう。

 ――おしろ。

 ほろりとエディルフォーレの言葉が口をついて出、わたしはリユンを仰ぎ見た。はずみに落ちたフードをリユンの手が優しくかぶせ直す。わたしたちの前には数騎の馬がおり、そのうちのひとりがこちらに馬の首を並べて、リユンに何がしかを耳打ちした。道中、幾度となく繰り返されたそれがリユンに対する敬称をあらわすことをわたしはおぼろげに理解している。

 将軍、とその軍人さんは言った。リユンと歳のそう違わない彼の目の端にはうっすら涙が滲み、見れば、他の軍人さんたちも皆似たり寄ったりの様相だ。鼻を啜る彼らの声を聞きながら、しかし当のリユンが涙を見せることはなかった。ただ、ほんのり和らげた視線を古城へと向けると、ずっと彼のほうを仰いでいたわたしに目を合わせ、ゆっくりと五音を紡ぐ。

 エ、ス、ペ、リ、ア。

 エスペリア、そこは若き銀獅子王の治める国。エディルフォーレの北に接する、森に囲まれた小国。見知らぬ異郷、わたしは異邦人。


 若き銀獅子王の住まう城は美しい。雪嵐にも屈しない堡塁と城壁、幾門もの砲台、尖塔を備え、厳然とそびえ立っている。御主人様の子どもたちが持っていた童話の挿絵さながらの古城に見入っていたわたしは、城を囲う濠が眼前に迫るまで近づいていたことに気付かなかった。深緑の水がめぐらされた濠には今は木造の跳ね上げ橋が架かっている。橋を渡り始めると、すでに見張り台でこちらに気付いていたらしい門兵たちが駆け寄ってきた。

 将軍、と幾人かが叫ぶ。

 口々に何かを言い合い、あっという間に取り囲んだ彼らをリユンは柔らかな笑い声で迎えた。彼らは皆、リユンと歳の近い若者であるようだった。リユンの帰還は彼らに少なからずの衝撃をもたらしたらしい。矢継ぎ早にあちこちから飛んでくる問いに苦笑し、リユンは共に旅をしてきた男たちと顔を見合わせた。まとめ役らしい年嵩の老兵に命じられた門兵たちが滑車を回して落とし格子を押し上げる。軋みを立てて上がる格子を仰ぎ、彼が馬の轡を引いて歩き出したので、わたしもそろそろと彼の背から抜け出た。

 それで、初めて小さなわたしの存在に気付いたらしい。門兵たちが、わあっと歓声を上げる。四方八方から飛び交う声にわたしは身をすくめ、リユンの背の後ろに逃げた。誰かが何かを言い、嵐のような笑い声が起こる。リユンは衣裾にしがみつくわたしを引き寄せ、頭を軽く撫ぜた。おいで、と言われたのがそぶりでわかって、わたしは小さく顎を引く。

 門をくぐると、城に面した広い庭が現れる。年老いた厩番にやはり熱烈な歓迎を受けながら馬を預け、リユンは城に運び込まれる荷を書き留めている使用人らしき女性に声をかけた。ひっつめ髪をしたその女性はリユンの顔を見るなり目を白黒させて、「将軍!」と甲高い悲鳴を上げる。その声はどうやら城中に伝播したらしい。

 木霊エコウ、とエディルフォーレでも馴染みのある言葉で彼が呼んだのは、果たして女性の本名なのか、あたりに木霊する声ゆえにつけられた呼称なのか。城の外や中からびっくりするくらいの数の使用人たちが飛び出してきて、リユンたちを取り囲む。


「リユン!」


 ひときわ明るく澄んだ声が響いた。周囲の者らがはっとなって左右に分かれ跪く。引いた人波の中を走って来たのはリユンとそう歳も変わらない銀髪の男のひとだった。さながら銀毛の猫が飛びつくような気ぶりで彼はリユンの身体を抱き締める。それから肩を小突き回し、ぐしゃぐしゃと髪をかき回し、背を叩き。古傷を負っていたリユンは、眉間をしかめたが、それをまた笑う。リユン同様、彼の部下たちをも一様に小突いて回る青年は、ふと彼の腰丈ほどにしか満たないわたしに目を留めた。わたしはもとはリユンのものである丈の長いコートにくるまっているせいで、一個の毛玉のごとき態を為している。首を傾げ、彼はリユンに何がしかを問う。淡青の眸に間近で見つめられ、わたしは一歩あとずさった。


「ブランカ」


 リユンがわたしを引き寄せて、青年に向けて紹介する。続いたみじかな説明がどんなものであったかわたしにはわからなかったけれど、青年はみるみる淡青の目を輝かせ、わたしの身体をぎゅっと抱き締めた。香木の醸す微かなくゆり。何度も繰り返されるその言葉が、ありがとう、を意味することをわたしはすでに知っている。

 リユンを。アリガトウ。ブランカ。

 ひとしきり抱擁をしてから、青年はわたしと目線を合わせるように長衣を裁いて腰を折り、レーヴェ、エスペリアと名乗った。北大陸の慣例で、国を冠する姓を名乗ることを許される血族は一国につきひとつしかない。レーヴェ=エスペリア。若き銀獅子の王。リユンが跪いて何がしかを告げると、銀獅子王は淡青の目を高貴な猫のごとくに眇め、こうべを垂れるリユンの上へと静かに手のひらを置いた。


 銀獅子王とリユンがそのあと交わした会話をわたしは知らない。エコウさんに案内された別室でリユンを待ち、あまり時間をかけずに戻ってきたリユンとやはり行きの道同様、熱烈な見送りを受けながら城を出る。他意はなくとも、次々と矢のごとく浴びせられる異国語にわたしの幼い精神は戸惑い、怯え、疲弊していった。長旅の疲れもあったのかもしれない。身体は鉛のように重く、四肢を動かすことがひどく厭わしい。けれども、そんな自分の状態すら満足に伝える術が今のわたしにはないのだった。

 胸のうちに小さな昏さが去来する。リユンに抱えられた馬の上で、わたしはぐったりと目を閉じた。叶うなら、耳を塞いでしまいたかった。


「将軍!」


 背後からかかった声に、馬の足が止まる。見れば、先ほどの門兵たちがわたしたちを囲み、リユンに何かを言い募っていた。交代時間になったのか、彼らの装いは軍服にコートを重ねただけのものに変わり、あたりもまたいつの間にか灰色の石壁が並んだ街並みに変わっている。あまり気乗りがしない風のリユンを半ば強引に馬から引きずり下ろし、門兵たちは鷲と酒樽の絵が彫られている吊り看板を指差して、まだ明かりのついていない店の鈴を鳴らした。ほどなくドアが開いて、中から箒を肩に載せたふくよかな女主人が現れる。こんな時間にいったい何の用だといわんばかりに門兵たちを睥睨した女主人は、引きずられてきたリユンに気付くや、わっと声を上げて丸太のように太い腕をリユンの身体に回した。

 ――リユン! よく帰ってきたねぇ! 

 女主人の喜びがわたしにも伝わるかのようだった。豪快に笑い、女主人は逞しい胸板を叩いてドアノブにかかっていたプレートをひっくり返す。眠る鷲から、酒樽に留まる鷲へ。華やいだ歓声と口笛が上がった。


「ブランカ」


 ひとの輪からぽつんと置き去りにされていたわたしをリユンが呼ばう。馬を店のそばにあつらえられた小屋の中に入れ、目深にかぶったわたしのフードをのけて頭を緩く撫でた。やさしい間隔で、二度。

 ――へいき? やめようか。

 そう問われた気がして、わたしはふるふると首を振る。だって、気付いてしまった。リユンの帰りを心待ちにしていたひとびとがこの国にはこんなにもいたのだということ。リユン、と手を招くおそらくは彼の部下や友人であろうひとびとに、リユンは初めてほろりと雪がひとかけ解けるような笑みをこぼした。そうして暖炉のきいた賑やかな部屋に向かう彼の背から、わたしは目をそらす。


 「鷲と酒樽亭」でささやかに開かれた宴は盛況だった。粗い木目の長卓には、鳩の丸焼きや、豆や香草を使った焼き物、冬の間大事に寝かせていたであろう小魚の燻製などの料理が次々に並べられる。

 コップに並々と乳白色の酒を湛え、男たちはリユンの持つ杯に自分の杯をぶつけ、浴びるようにそれを呷った。最初は十人にも満たなかった男たちは日が傾く頃には数十人に増え、狭い室内には絶え間なく笑い声が響く。

 わたしの前に置かれたのは、温めたミルクだった。幼いわたしに気を利かせた女主人――ポルコさんが持ってきてくれたのだった。ポルコさんは身振り手振りで、長卓に載った乳白色の酒には手を出さぬよう教え、慣れぬわたしのためにひよ豆と春菜をミルクで煮込んだ粥を作ってくれた。渡された匙で、粥を啜る。素朴な味わいは異国のわたしにも優しく、食べやすい。そうであるはずなのに、わたしの喉は鉛が詰まったかのようで、ちっとも食が進まなかった。

 耳を澄ませても、彼らの間で飛び交う言葉の意味が、わたしにはわからない。友人たちの冗談にくすくすと笑い、ときどき悪戯めいた顔をしてやりこめるリユンは遠い国のひとのようで、エディルフォーレの凍てついた監獄で手探りで相手の音をたどったあの日々がひどく昔のことのように思えた。

 ――きっと、そのとおりなのだ。

 故国に帰還したリユンはもはやつたないわたしの声に耳を傾け、一音一音をつぶさにたどる必要などない。そのような労苦をかけずとも、彼と語り合い、心から笑い合えるひとびとが、この国にはこんなにもいるのだ。

 わたしは所在なく粥をかき回していた匙をついに置いた。熱い塊が喉をこみ上げてきて、衣裾を握り締めることでそれに耐える。耐えることには、慣れている。声を殺すことにも。慣れているはずだった。

 椅子にかかっていた毛織のコートを引き寄せると、わたしはそれを抱え、音を立てずにその場から離れる。背後で賑わう談笑の声が橙色の光と一緒に扉の向こうへと消えた。


 されど、逃げ場など知らぬわたしが向かえたのは、長い間旅をともにした馬の待つ厩だけだった。抱えていたコートを着込んで、立ち並ぶ馬たちの隅っこに膝を抱えて座る。日はとうに暮れ、夜の気配がエスペリアの街を包んでいた。濃紺の空色はエディルフォーレのそれと同じで、吐く息は凍れるように白い。往来に人影はなかったが、代わりに家々には明かりが灯り、煙突からは煤けた煙が上がっている。とみに郷愁の念に駆られ、わたしはエディルフォーレの森がある方角を探した。

 ――かえりたい。

 気泡が浮き上がるかのごとくそんな気持ちがわたしの胸をついた。かえりたい。帰る家などないに等しいのに。たとえ帰れたとしても、わたしを迎え抱き締めてくれる家族や友人など、もとよりどこにもいないのに。わたしは。


「……サミシイ」


 呟いた言葉に端を発し、わたしはぽろりと涙をこぼした。声を殺すことには慣れていたはずなのに、喉は熱く、涙はぽろぽろととめどなく溢れてやまない。厩の中にあってもエスペリアの夜風は容赦なく吹きすさび、わたしは未だうまく殻を破ることのできぬ雛鳥のようにコートにうずくまって、風の声を聞いていた。


 *


「……か、……らんか」


 大きな手のひらに肩を揺さぶられ、わたしは閉じた瞼を震わせる。いったいどれほどの時間が経ったのか。あるいはさほども経っていなかったのか。すでに涙は引いていたが、ひどく頭が重い。

 小さく息をこぼしたわたしに、かがみこんだリユンが何かを問う。聞き取れず、わたしは首を振った。わたしの頬に手をあてがったリユンは少し驚いた風な顔をして、手のひらをわたしの首筋や額にせわしなく触れさせる。リユンの手のひらはとてもひんやりしていた。とても、ひんやりと。ポルコ、とわたしから何かを聞くことを諦めて、リユンが女主人を呼んだ。はずみに彼という支えを失ったわたしの身体がくたりと崩れ落ちる。あとになって知ったのだが、このときのわたしは小さな身体が沸騰しそうなくらいの熱をためこんでいたのだった。


 ざりざり。ざりざり。鋭利な音が途切れ途切れにしている。

 この音をわたしはよく知っていた。冬の朝、屋敷の窓に垂れた氷柱を削るときの音。御主人様のお屋敷では、集めた氷柱を細かく砕いて鍋に入れ、薪で煮詰めてお湯に変える。氷柱を集めるのはわたしの仕事だった。まだ夜明け前のうちから鍋を持って外に出、手を赤く腫らしながら氷柱を集めていく。錐を使って削るのは苦手だったけれど、氷柱を集めることは好きだった。夜明けの月光を内に宿した氷柱は内側からほのかに光るようで、叩くと、りぃんと冴えた音を奏でる。見つけた氷柱をひとつひとつ叩いてゆくのは、わたしに許された数少ない戯れだった。

 エディルフォーレ、雪女王の支配する国。わたしの故国。


 遠いような、それでいて実のところそう遠くもない記憶に思いを馳せていたわたしは額に何か冷たいものを乗せられたことに気付いて、目を開けた。熱でぼやけた視界を黒い人影が動く。明かりが落とされた部屋は暗かったが、窓から射し込む月光のおかげで、かたわらに肘をつくそのひとがリユンであることが知れた。身じろぎをしたわたしの頬にリユンの手が触れ、少し乱れた毛布をかけ直してくれる。


「……ココ、」


 見知らぬ部屋の備え付けのベッドに、わたしは山ほどの毛布にくるまれて寝かせられていた。わたしの疑問が伝わったらしい。リユンは「ポルコ」と「鷲と酒樽亭」の女主人の名を上げた。そうすると、たぶんここは店の二階か何かなのだろう。

 リユンはわたしの頬から額へ手を滑らせる。汗で張り付いた灰かぶり色の髪を指で梳いて、ほんのり責めるように何かを言った。表情を失ったわたしを見つめて軽く首を振り、そうじゃなくて、と言い直す。

 ――ごめん。ごめんね、ブランカ。僕が悪い。

 息を吐くのと一緒に呟く。それから彼はいくつか言葉を続けたが、わたしにはどれも聞き取ることができなかった。もどかしく思い、そして寂しく思った。もっと話が聞きたいのに。もっと、たくさんお話したいのに。どうしてわたしには皆のように彼の話す言葉がわからないのだろう。

 サミシイ。彼の手の下でわたしは堰を切ったようにほろほろと泣き出した。高熱のせいで心が弱くなっていたのかもしれない。リユンの、軍人さんにはあまり似つかぬ細い指先がわたしの眦に溜まった涙をすくう。左右とも、同じように。こぼれ落ちる涙にちっとも追いつかないのに苦笑して、リユンはわたしの丸めた背に腕を回した。ぽんぽんとやさしく弾みをつけてあやされる。そうして、ゆっくりゆっくりわたしの呼吸を落ち着かせていくと、彼は泣き濡れた頬に手をあてがって、「ナゼ?」と使い慣れていない風のエディルフォーレの言葉で問うた。十年慣れ親しんだ言葉がわたしの強張っていた喉を温かに溶かす。りゆん、とわたしは泣いた。


「わたし、ことば。えすぺりあ……わたしだけ、サミシイ」


 うん、とリユンは目を細めてうなずく。そして頬杖を少し倒して、


「……〝サミシイ〟?」

「さみしい」

「――そう」

「さみしい」


 わたしはしゃくり上げた。


「さみしい」

 

 寂しいの。


「りゆん」


 寂しい。とても、とてもさみしかったの。


「もっと」

「モット?」

「もっと、もっとリユンとおはなししたいの……」


 みんなのように。あなたを愛するひとたちのように。


「ブランカ」


 エディルフォーレとエスペリアの言葉が入り乱れたわたしのつたない訴えに根気よく耳を傾け、やがてリユンはわたしの名を呼んだ。熱で汗ばんだわたしの小さな手をリユンの大きな両手が包み込む。


「サミシイ」「ナイ」


 さびしく、ないよ。

 もうさびしくないよ。ブランカ。

 やさしい声が雪がほろろと溶けるみたいに胸の深くに沁みこむ。わたしは声を上げて泣き出した。

 エディルフォーレ、あなたが雪女王の支配する国であるのなら。リユン。わたしに春を連れてきたのは、あなた。


 *


 翌朝、目覚めたわたしにあなたが告げる。

 リユン=サイ。これが僕の名前。

 ブランカ=サイ。キミの名前だよ。わすれないで。

 十をひとつ過ぎたばかりのわたしは、このとき十九であった若いあなたの娘になった。歳の離れた家族。長らくわたしの善良なる父であり兄であったあなたが最愛の男に変わるにはさらに七年の月日を要する。

 十一歳のブランカ、まだ恋を知らないわたし。

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