外伝 空の玉座

序 エスぺリア歴887年 初夏

 からの玉座。

 のちのエスペリア史において、銀獅子王レーヴェ=エスペリア即位までの十年余をそう呼ぶ。若くして王位についた賢王リエフ=エスペリアが志半ばで夭折し十年。内乱のエスペリアでは空位が続いていた。


 *


 エスペリア歴887年の夏の到来はひどく遅れた。

 赤らんだ手のひらを吐息で温めていた少年は、毛織のマフラーをたぐり寄せると、冷たい顎をそこへとうずめる。彼が十年を過ごした屋敷を去ったその朝は、初夏だというのにひときわ冷え込み、並んだ窓は霜を纏わせて白く曇っていた。

 見送る人間は寝ずの番をしている門衛をのぞいてはひとりとしていない。引き止めようとする家族たち、とりわけいちばんの理解者であった長兄の反対を押し切って家を出た彼は、実父から縁を切られたに等しかったからだ。

 それでも、仲のよかった妹だけは二階の窓から身を乗り出し、小さな手をせわしなく振ってくれた。フローリア。一度だけ手を振り返すと、彼は持てうる限りの荷物を詰め込んだトランクを引きずって、夜明け前の石畳をひとり歩きだす。

 リユン=サイ。

 のちに北大陸に馳せる名はこのときはまだ、旧家の奇矯な少年としてしか記憶されていない。エスぺリア歴887年初夏の出来事である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る