Extra Track 10 エアルとリート
サイ将軍の娘さんはたいそうな乱暴者だ、というのが国立学校でのもっぱらの評らしい。でもそんなこと、わたしはぜんぜん構いやしない。たったひとりの弟を守るのは、おねえさんのわたしの役目なのだもの。
木枯らしが頬にこさえた傷に沁みた。すんと赤くなった鼻を啜り、わたしは頬の引っ掻き傷を手でこする。小さな弟の手を引いて校門をくぐっていると、「サイ将軍ちの乱暴おんな!」とすれ違いざまに下級生のヤノがはやし立て、積もりたての新雪の上を駆けていった。
「ヤノのなーきむしー!」
わたしはぐっとお腹に力を入れて、大声で応酬する。かき集めた新雪で雪だまを作り、ヤノの頭に当ててやった。驚きつんのめったヤノを笑い、弟の手を引いて走り出す。昨晩初雪が降ったばかりの王都は、大通りも家の屋根たちもうっすら白く染まり、リラの街路樹の細枝には溶けかけの雫が宿って震えている。
「今日も元気ねえ、エアル」
「ポルコおばさん!」
「リートも」
「おばさん、ただいま!」
弟のリートはふくよかな腕を開いたポルコおばさんに抱きついた。わたしのおとうさんとおかあさんは昼の間はずっとお仕事をしているので、わたしたちは学校が終わるとポルコおばさんの家に向かう。そしておかあさんが迎えに来てくれるまでふたりで宿題をしたりして過ごすのが、わたしたちの毎日だった。
わたしは暖炉の前のソファにふたりぶんの鞄を置き、鼻を啜るリートからおかあさんの編んでくれたマフラーを解いてやる。マフラーには星のかたちのアップリケがついていて、それがリートのひそやかな、けれどいちばんのお気に入りであることをわたしは知っていた。今それは半分が取れて、頼りなくマフラーにぶら下がっている。
「あら、どうしたのよ、マフラー」
「ヤノにやられたの」
眉をひそめたポルコおばさんに、わたしは息をつく。
「相変わらずの乱暴ものねえ、ヤノは」
「でも、わたしが代わりに泣かせておいたからへいきよ」
ヤノはリートと同級の少年で、ことあるごとに気弱なリートに突っかかる。今日はリートが大事にしていたマフラーを外へ投げてしまい、それを下級生から聞きつけたわたしが飛んでいって、ヤノと取っ組み合いの喧嘩をしたのだった。頬の傷はそのときにこさえたものだ。わたしがヤノの頭に雪だまを命中させたくだりを話すと、ポルコおばさんは苦笑を滲ませた双眸を弓なりに細めた。
「まったくあんたはほんとう、父親似ね」
「そう? おとうさんはキミはブランカにそっくりだってよく言うよ」
「顔立ちは確かにね」
わたしはポルコおばさんが持ってきてくれた裁縫箱をのぞきこんだ。何種類かの糸の中にはマフラーに近い色合いもある。どうにか直すことができそうだった。
「ぼくもやる」
同じように裁縫箱をのぞきこんでいたリートが言って、針立てから針を抜いた。
「指を刺しちゃだめだよ、リート」
「ささないよー」
わらって、リートは小さな針穴に器用に糸を通していく。こういったことは昔からわたしよりも弟のほうがずっと得意だった。わたしのマフラーにある花のかたちのアップリケだっておかあさんとリートがつけてくれたものだ。
「気を付けてね」
「だいじょうぶだってば」
星のアップリケを縫い取り始めたリートをわたしははらはらして見守っていたが、リートの手つきはわたしよりもずっと鮮やかで、よどみない。
「エアル。おやつの準備を手伝ってちょうだい」
「はあい」
ポルコおばさんに声をかけられ、一階の「鷲と酒樽亭」兼厨房のほうへ駆け下りた。寒いので、身体が温まるホットチョコレートを作ることにする。チョコレートの板を細かく割り、温めたミルクと砂糖を加えてお鍋でかき混ぜた。その間に薄く焼き上げて塩をひと匙まぶしたクラッカーをおばさんが用意してくれる。
カップを合わせて三人でひとやすみ。窓の外では、まだ飾り付けのされていないもみの木が誇らしげにそびえている。
*
「遅くなってごめんなさい」
鷲と酒樽亭の丸看板が起きている鷲にひっくり返される頃、おかあさんが迎えにやってきた。サン=トワ通りの軍付属病院で働いているおかあさんは、いつもお仕事が終わると、まっさきにわたしたちを迎えにきてくれる。
「おかあさんだ!」
それまで眠たそうに目をこすっていたリートがぱっと飛び起きた。
「おかあさん、おかえりなさい!」
おかあさんの腰に甘えて腕を回すリートを緩く撫で、「エアル」と弟に続いて階段を下りてきたわたしをおかあさんが呼ぶ。肩に少しかかった雪を払うおかあさんの姿を見ると、わたしの胸の張りつめていた何かはいつもほこっと音を立てて緩む。おかあさん、と呟くと、お待たせ、とおかあさんは微笑んだ。
「ポルコさん、いつもありがとう」
厚手のマフラーに手袋と毛糸の帽子。もこもこに膨らんだわたしたちの手を引いて、おかあさんは店内を切り盛りするおばさんにお礼の声をかけた。かまわないというようにフライ返しを振ったおばさんに手を振って、鷲と酒樽亭を出る。
銀灰色の空から、昼には止んでいた粉雪がまた舞い始めていた。街も、もみの木も、教会の尖塔も、みな白い雪化粧をしている。おかあさんは左手でリートと手を繋ぎ、右に紙袋を抱えて歩いた。少し前まではおかあさんの右手はわたしのものであったのだけれど、今年の夏にリートが国立学校に入学してからというもの、わたしはおかあさんと手を繋ぐのが無性に恥ずかしくなってしまって、帰るときはおかあさんとリートの少し後ろを歩いている。おかあさんも無理強いをしたりはしなかった。
「ぼくね、今日、アップリケ縫ったよ」
リートはマフラーの星のかたちのアップリケをおかあさんに見せて自慢する。あっ、とわたしは思ったけれど、そのときには「取れてしまったの?」とおかあさんが首を傾げていて、「ヤノとけんかしたの」とリートがうなずいた。
「リート!」
ヤノとの喧嘩をおかあさんに知られたくなかったわたしは、眉根を寄せてリートの毛糸の帽子を引っ張る。リートは急にしまったという顔をして口を押さえた。気付かれてしまっただろうか。不安が胸をせり上がって、そろりとおかあさんをうかがう。目が合うと、おかあさんは何故かふわりと微笑って、「鍵を出して、エアル」と別のことを言った。
「うん、おかあさん」
ぴかぴかの銀色の鍵は、リートが国立学校に入学したときにおとうさんから預かった、わたしのいっとう大事な宝物だ。わたしは首にかけていた紐をたぐり寄せつつ、門を押す。わたしとリートが生まれた年に順々に植えられた金木犀とリラの樹はすくすくと育ち、わたしたちの家のお庭を守っている。今は白く装った木々にただいま、と言って、わたしは鍵を開けた。
家に帰ると、わたしたちはまず暖炉の火を熾し、手分けをしてごはんの準備、洗濯物の片付けといったことを始める。今日のごはんはリートとわたしが大好きなミルクシチューだ。昨晩のうちに作り置いていたお鍋を温め、帰りに買ったパンを切って、リートはスプーンとフォークを並べ、わたしはお皿を出す。おとうさんはいつも帰宅が遅く、夕ごはんはわたしたち三人で食べることが多かった。
野菜を切るのはおかあさんだけれど、盛り付けはわたしたちに任せられている。リートがトマトをぐちゃぐちゃと置くので、「それじゃあ変だよ」と言って、ひとつひとつ位置を直した。おかあさんはリートとわたしの前に温かいお茶を置き、盛り付けを終えたサラダを食卓の真ん中に置いた。
「今日、ハルシオンせんせいと水やりしたよ」
夕食の時間、おかあさんにたくさん話をするのはリートだ。
わたしにはもう二度目になるのだけれど、リートは飽きることなく藍色の眸をきらきらさせて、今日学校であったことや友だちの話をおかあさんに聞かせている。ヤノとの喧嘩の話をまたされたらどうしようとわたしは不安だったが、さすがのリートも心得ているらしく、それには触れなかった。
シチューとサラダとパンをきれいに食べ終え、洗い物をしてお風呂に入る。リートはまだおかあさんと入っているけれど、わたしは近頃はひとりで髪も身体も洗っていた。これくらいひとりでできるもの、とわたしは湯船の中で胸を張る。
「エアル」
お風呂から上がると、リートはもうベッドで眠っていた。タオルで頭を拭くわたしを、暖炉のそばのソファで髪を梳いていたおかあさんが呼んだ。隣にちょこんと腰掛けると、おかあさんはタオルを取って、わたしの髪を拭いてくれる。
お風呂上がりのおかあさんの手のひらはいつも花の香油のやさしい香りがする。おとうさん譲りのわたしの黒髪をブラシで梳いて、おかあさんは同じ香油をほんの少しだけつけてくれた。リートが眠ったあとのおかあさんとふたりだけの時間がわたしはとてもすきだ。だってこの時間だけは、わたしがおかあさんをひとりじめできる。髪をいじってもらう間、わたしはその日の話をおかあさんにたくさんした。
「エアル」
髪の手入れを終えると、おかあさんはリビングの文具や裁縫具といったものが置かれている棚から救急箱を持ってきた。はっとして、わたしは固く俯く。頬にこさえた傷をとっくにおかあさんに見つけていたことに気付いたからだ。
「これくらい、へいきだよ」
唇を引き結んで意地を張ると、おかあさんは困った風に微笑み、「みせて」とわたしの頬に触れた。看護婦をしているおかあさんは手際よくわたしの頬にこさえた傷の手当てをしてくれる。おかあさんのやさしい指先がくすぐったくて、わたしは目を瞑った。
喧嘩をしてきたわたしの手当てをしてくれるのはいつもおかあさんだった。おかあさんは魔法の指先を持っていて、わたしが膝小僧にこさえた傷や、頬や腕に作った傷を指先ひとつで次々に治してくれる。けれど、わたしが喧嘩をしたと聞くとおかあさんは少しだけ悲しそうな顔をするので、わたしは喧嘩のおはなしをおかあさんにするのが嫌だった。
大人たちが言うには、サイ将軍の娘さんであるわたしはたいそうな乱暴者らしい。そうかもしれない。わたしはヤノがリートをいじめているのを見ると我慢ができないし、他の子たちに比べても喧嘩がいっとう強くて、自慢といえばそればかりだ。今日もヤノと喧嘩したわたしは罰として、廊下拭きを命じられた。わたしがあんまり乱暴者だから、おかあさんが呼び出されて先生に叱られてしまうことだってあった。
それでもおかあさんはいつも魔法みたいにわたしのこさえた傷を治してくれる。
「おかあさん、ごめんなさい」
少しつんとする消毒液をかけ、最後に軟膏を塗ってもらう。そうしていると、おかあさんに隠しごとをしているのが悲しくなってしまって、わたしは俯きがちに呟いた。
「また、喧嘩をしてしまったの」
「――そう」
「おかあさん。わたしはわるい子?」
サイ将軍の娘さんなのに、わたしはおとうさんの名を辱めるような喧嘩ばかりをしてしまう。わたしはリートみたいな愛嬌がなく、裁縫や料理も下手で、できることといったら喧嘩や駆けっこばかりだ。瞼裏が熱くなってきてしまって、膝小僧をぎゅっと握り締めると、おかあさんの手のひらが火照った頬に触れた。
「エアル。腹を立てても、先に殴ってしまったらあなたの負けよ」
目を瞬かせると、はずみにこらえ切れなかった涙がぽろんと落ちる。おかあさんは小さくわらい、だけど、とわたしの耳にそっと囁いた。だけど、わたしも男の子を叩いておとうさんに怒られてしまったことがある。
「ほんとう?」
「ほんとうよ」
その男の子がゼノンおにいさんなの、とこっそり告げて、おかあさんはふたりだけのささめきごとのようにわたしにしぃ、と言う。わたしはおかしくなってしまい、しぃ、とおかあさんの真似をして額と額をくっつけた。
きぃ、と微かな開閉音がしたことに気付き、わたしは温かなまどろみから目を覚ました。細く開かれたドアの向こうから橙色の明かりが漏れている。
「おとうさん?」
部屋に入ってきたひとからは微かな雪のにおいがした。時計は見えなかったけれど、もう遅い時間にちがいない。
「うん。ただいま、エアル」
「おかえりなさい」
おとうさんはわたしとリートの頭を撫ぜ、それから「ああ、しょうがないなぁ」と苦笑して、ベッドに載せた腕に頬を横たえ、眠ってしまっているおかあさんの頭に触れた。毛織のブランケットで包んでふわりと抱き上げる。おかあさんを起こさないように大事そうに。おとうさんはいつも仕事で忙しくしているけれど、わたしとリートとそれからおかあさんをいっとう大事にしていることをわたしは知っていた。
「テーブルにごはんがあるよ。サラダはわたしとリートが盛り付けたんだよ」
「うん。きれいにできてた」
「おとうさん」
「うん?」
「わたし、もう喧嘩はしないよ」
唐突なわたしの言葉をおとうさんはどう思ったのだろう。そう、とおとうさんは眸を細めて微笑い、「おやすみ、
ぱたんとドアが閉じられる。
その向こうにおとうさんとおかあさんのふたりだけの甘い時間があることを知っているわたしは、目をこすったリートにさかしげにしぃ、と言い、ふたりでぬくい身体をくっつけあって目を閉じた。
エスペリアの夜は、こうして穏やかに更けていく。
エスペリア。ここは、雪と灯火の国。春を待つ、わたしたちの国。
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