Extra Track 09 ワルツ

 隣の部屋に住むディノ少年は数日前一基の古びたピアノをもらったらしい。

 どこかのお屋敷でずっと使われずに眠っていたというピアノは調律に少しの手間を要したけれど、ディノ少年が弾けば、温かな旋律をぽろんと奏でる。

 王立病院から官舎に戻ってきた夕刻、優しいピアノの音に誘われて窓を仰げば、レースのカーテンの揺れる窓辺からピアノを奏でる少年の姿が見えた。目が合ったので、そっと微笑むと、彼は耳を赤くしてピアノにまた目を戻す。はずみに間違えた一音すらも愛らしく、わたしは夕ごはんの食材を詰めた紙袋を抱えなおし、歌を口ずさみながら階段をのぼった。


 わたしの旦那さんであるひとは、帰宅がいつもとても遅い。であるから、わたしは夜番のない日、勤め先の病院から帰ると、かつての恩師にもらった詩集や友人たちからの手紙を読みながらハーブティをゆっくりと一杯味わい、夕ごはんの仕度をすることにしている。

 茉莉花の茶葉を煮出し、淡い水色に蜂蜜をひと匙溶かす。それを味わいながら、今日の夕ごはんを考えるのは楽しい。旦那さんが少々人参が苦手であることをつい先日知ったわたしは近頃それをどのようにしてごはんに組み込むかということに執心している。ペーストにしてパン生地に練りこんだもの。薄切りにして油で揚げたチップス。小さくしてシチューに入れたものは平気だと言うので、すり潰してポタージュにしたこともある。次々と形を変えて出される人参たちに、彼は、キミは僕を苛めてるのブランカ、と少々呆れつつ、そのたびひとつひとつに感想をつけながら人参たちを食してくれる。紙袋からはみ出した人参を眺め、今日はバターで甘く煮込んでみようか、とわたしは考える。

 リネンのエプロンをワンピースの上に重ね、砂糖ポッドを探していると、調理器具のそばに立てかけたメモ板に三ヶ月後に迫った日付と隣国への汽車のチケットとを見つけ、わたしはほのりと目を細めた。わたしの旦那さんの妹さん――フローリアさんが隣国の大公と挙式するのは、三月後の晩夏だ。サイ家のひとびとは皆美しく、とりわけフローリアさんは華やかで愛らしいひとであったから、きっと花嫁姿はすてきに違いない。考えながら、その下にフローリアさんの字で書かれた「夜会のダンス」という文字にわたしは憂鬱のため息をつく。

 フローリアさんが嫁ぐアズレリア領ノール・アズレリアは長い歴史と伝統を持つ古国だ。結婚式前夜の夜会では、盛大なダンスパーティがあることをわたしはフローリアさん本人から聞かされていた。かつて十五歳であったわたしを苦しませ、今も思い出すたび目をそむけたくなるダンスパーティ。煮込んだ人参に砂糖を足していたわたしは、ふと隣室から流れてくるディノ少年の旋律が三拍子のワルツに変わったことに気付いた。

 いちに、さん、にぃに、さん。

 ワルツのステップは独特だ。まだ踏むことはできるだろうか。何せ、叶わぬ恋を胸に夜会にのぞんだのは五年近くも昔になる。エネさんのピアノ、わたしを励ますエルンさんやシンシアさんの声を思い出して、わたしはエプロンの裾を摘んでつたないステップを踏み、くるんと一度回ってみせた。花びらのような残像を描いて生成りのワンピースが翻る。小さく息をついたわたしは、ぱちぱちと背後から鳴った拍手に吐き出しかけた息を詰まらせた。振り返ろうとすれば、その前にふんわり背後から腕を回して抱き締められる。


「ただいま。何してたの、ブランカさん?」

「おかえりなさい。……みてたの?」

「うん。とっても可愛かった。ワルツ?」


 わたしの旦那さんであるひとはわたしの前で腕を交差させたままそっと嘯き、ディノ少年のピアノに耳を傾ける。煮えた鍋から甘やかなバターの香りがくゆる。おなべ、とわたしが身じろぎすると、彼は腕を離して「今日は何にんじん?」と上着の釦を外しながら近頃お決まりになっている質問をした。


「甘いバター煮にんじん」

「そう。それなら期待できそうだね」


 鍋を木製の台に置き、火の後始末をする。今日ははやいね、と言うと、うんよかった、と彼は破顔した。冬物よりも少し薄くなった外套と上着とを椅子にかけ、わたしのほうへ手のひらを差し出す。はたりと睫毛をはためかせれば、彼はテーブルに飾ってあった造花を一輪取って、「一曲踊っていただけますか、お嬢さん?」と言った。

 意中の相手に花を捧げてダンスを誘うのは、夜会のきまりごとだ。それでもためらったわたしのバレッタで留めた髪に花を挿し、彼はわたしの両手を取って食卓から少し広いリビングに連れ出した。わたしよりずっと夜会の経験があるだろう彼は背を折って、優美な礼をする。


「最初に右足」


 彼に手を引かれたわたしはとっさに言われたものと逆側の足を動かしてしまう。踏みはしなかったものの足と足がぶつかってしまい、身を引きかけたわたしを引き寄せ、「もう一度」と彼は微笑いながら言った。

 次はちゃんと言葉のとおり右を出せば、背に回った腕を引かれる。


「次ひだり、みーぎ」


 たどたどしく彼の指示どおりにステップを踏む。最初は時折ぶつかりそうになったり間違えたりするたび身をすくめていたけれど、徐々に呼吸がすっと楽になってきた。きっと彼はリードがうまいひとなんだろう。ディノ少年のピアノはわたしとおんなじで、つたなく、急に緩んだり、速くなったりぎこちない。リズムに合わせてステップが踏めたと思えば、一音間違えたらしくまた同じフレーズを繰り返す。おかしくなって、わたしはくすくすと笑い出した。


「最後、足は踏み出さない。はい、くるん」


 手首を引かれ、くうるり回る。さっきと同じ風にワンピースの裾が花びらみたいに広がった。

 ――たのしかった。

 胸に去来した思いに戸惑いつつ、少し上がった息をつくと、「よくできました」と甘やかな賛辞と一緒に、額にひとつ口付けが降った。いつもより速い吐息が前髪をかすめる。わたしが目を伏せると、細い指先が伸びてわたしのほつれた灰かぶり色の髪房を耳にかけた。花茎の揺れる髪に指を挿し入れ、戯れのように耳朶に唇を触れさせる。

 ピアノがまたぎこちなく奏でられ始めた。ぴあの、と繰り言めいてつぶやいたわたしに、「もうおしまい」と囁き、彼はその美しい指先でするりとわたしのエプロンのリボンを解いた。ワルツが、また最初のフレーズに戻って奏でられ始める。



 *



 三月後。ノース・アズレリアで開かれたフローリアさんのダンスパーティにわたしは結局参加することができなかった。ワルツの旋律に耳を傾けながらそぅっとおなかに手をあてたわたしに、花を差し出して花嫁さんが唇を尖らせる。

 ――おめでと。

 ぶっきらぼうに祝福をくれた花嫁さんに、わたしは微笑み、まだ宿ったばかりのいのちを優しく撫でた。

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