番外 雪の盤上(上)

 フェビラ砦にエディルフォーレの軍旗が上がる。

 濃紺に銀糸で星を描いたそれは、北方の凍て風にも負けることなく、堂々と暁天に翻った。凱歌が風に乗って流れてくる。エディルフォーレの兵たちの声だ。炎を囲んで騒ぐ兵たちの頬は酒気で赤く染まり、眸は歓喜で輝いている。

 他方、炎から外れた暗がりでは、呼吸を止めた無数の屍が横たわっていた。エスペリアの亡き兵士たちである。その青黒く強張った屍に凱歌が降り注ぐ。


 万歳!

 女王陛下万歳!


 ――悪夢である。

 そのような情景を、実際にリユンは見たわけではない。

 何しろ、フェビラ砦陥落とともに敗走したエスペリア軍である。フェビラから後方のバルテローまでの長い道のりをリユンは命からがら、紙一重で生き抜いた。たどりついたバルテロー砦に翻るエスペリアの旗を見上げたとき、まだ十三の少年だったリユンは不覚にも安心からくずおれて、気付いたときには砦の内にいた。仲間たちが中まで運んでくれたらしい。

 リユンは冷たい石壁にこつんと頭をもたせた。

 特に負傷のひどかった左足には添え木がされ、包帯が巻かれている。無論軍医による施術を受けたわけではなく、物資不足ゆえに痛み止めすら存在しない。芯のほうから痛む足を抱え、リユンは悪寒と高熱と戦いながら少し眠った。

 フェビラ砦の歓声は、バルテローまで届いていた、という。

 真偽のほどは定かではない。幻聴だったのかもしれない。しかし、リユンには確かに聞こえた。浅いまどろみに安寧はなく、ただ夢の淵まで追いかけてくる凱歌がリユンに向かって咆え立てている。

 

 エディルフォーレ万歳!

 女王陛下! 女王陛下、万歳!!!


「黙れ」


 舌打ちをする。リユンは半ば感覚を失った足を引きずって、砦のふちに手をかけた。凍て風が吹きすさび、リユンの身体をまるごと持ち去ろうとする。のろのろと腕をかざし、天を見上げた。月が輝いている。雲はなかった。星も見えない。中天に架かる月は高く、遠い。


「ルチエ=エディルフォーレ」


 女王陛下! 女王陛下、万歳!!! ――……

 

「僕はおまえに跪かない」


 ひとりの少年がそう呟いたとき、北方の大国エディルフォーレの硝子宮殿では、ひとりの女が凍てた窓越しに、ちろちろと燃える炎を見つめていた。

 エディルフォーレに君臨する“雪女王”、ルチエ=エディルフォーレ。このとき三十五歳。在位はすでに十七年を迎え、絶大なる権力と手腕で、国に黄金期をもたらそうとしていた。なお、エディルフォーレに大敗を喫し、南部地区フェビラを奪われたエスペリアは翌年、“玉座の空白”と呼ばれた内乱の十年に幕を引き、“銀獅子王”レーヴェ=エスペリアが若干十四歳で即位する。

 両者の戦いは以後、三十年に渡って続いた。



 *



「将軍。リユン=サイ将軍。おい起きろこのぐうたら上官」


 最初は遠慮がちに肩を揺らすだけだった手がこぶしを作り、翻る。

 直後、ぱしっ、とよい音が鳴った。


「起こすにしてはずいぶん手荒な真似をするじゃない。ゼノン=エスト大尉」


 しかめ面をする部下にわらって、リユンは長い脚をひょいと出してやった。油断をしていたゼノンは見事なまでにつんのめって、列車のコンパートメントの床に大きな音を立てて転がる。驚いた近くのコンパートメントが次々開き、床に踏みつぶされた蛙のようになっている大尉を発見した。大丈夫ですか、と手を差し出してきた老婆に、問題ありません、と真面目に返して、ゼノンは勢いよく起き上がった。


「何をなさるんですか、将軍!」

「おはようの挨拶だよ。エスト家はどうやら手荒なのが好みらしいから、合わせたんだけども?」

「それはあなたのっ、寝起きが悪すぎるからで……っ」

「キミの顔を見て目覚める朝が心地いいわけあるか。うちの奥さんなら、キスひとつでたちまち夢から覚ましてくれるんだけれど、キミじゃあねえ」

「朝からのろけないでください!!」


 ゼノンの怒声が起き抜けのこめかみに響く。

 朝から元気なことだ。それ以上相手にするのが面倒くさくなったリユンは、悪い体勢で寝ていたせいで軋んだ肩を鳴らして、車窓を押し上げた。夏とはいえ、ひんやりとした風が車内を吹き抜ける。外に広がるのは、黒々とした針葉樹林で、光の侵入を許さないこもりがちの林は、白昼であってもどこか夜のような気配を纏っている。

 ――あの国の夜は、昏い。

 妻にした女が何かの折にそのように漏らしていたことを思い出す。

 確かにそうなのかもしれない、とリユンは思った。エディルフォーレという国には深い夜気が纏わりついている。


「今何時?」

「十時半です。あと三十分程度で到着予定です。駅では、エディルフォーレのモラン大将がいらっしゃる予定で――……」


 律儀に説明を始めるゼノンの声に適当に耳を傾けながら、徐々に昏さが深まる森を眺める。途中、焼けた寒村が木々の間から見えて、あれはエスペリア兵が焼いた村だろうか、ととりとめもなく考える。

 ……長い戦だった。

 けれど、リユンの胸に感慨はない。勝利の喜びも。

 ――およそ十五年ぶりに、リユンはエスペリア使節団の大使としてエディルフォーレに向かっていた。

 目的は、和平交渉。

 先の戦いでエディルフォーレはエスペリアに大敗を喫した。かつてエディルフォーレに奪われた南部フェビラ砦には今再び、エスペリアの獅子旗が翻っている。エスペリアの銀獅子王にこれ以上の侵攻の意志はない。ゆえの休戦協定。リユンに課せられた王命がそれだった。


 三十分後、列車はエディルフォーレの玄関口であるシュリア=ラス駅に到着し、リユンは部下とともにプラットフォームに降り立った。外套を襟元できつく引き寄せても、刺すような外気が身体を打ちのめす。駅舎の前にはエディルフォーレの迎えの者がおり、リユンたち一行の姿を認めると、近づいてきた。


「エスペリアのリユン=サイ将軍でしょうか。私はバルニカ=モラン。女王よりあなたがたの迎えを仰せつかった者です」


 エディルフォーレ語で男が言った。胸に縫い取った銀星をつけている。確か地位は大将だったはずだ。

 通訳の青年が口を開こうとするのを押しとどめて、「ええ、僕がリユン=サイです」とリユンはエスペリア語でこたえ、バルニカと軽く握手を交わした。


「歩きましょうか。詳しい話は馬車の中ででも。これ以上外に立っていると、凍えてしまいそうです」


 続きはエディルフォーレ語に切り替えて話す。

 バルニカが少し意外そうな顔をしてリユンを見た。母国語と大差ない完璧な発音は、長い間、姉やエディルフォーレ人である妻に教わり培ったリユンの特技のひとつだ。周囲に呆れられるほど溺愛しているリユンの妻は、八歳年下のエディルフォーレ人の元奴隷である。

 若い時分、リユンはエディルフォーレ軍に捕虜として囚われたことがあった。妻との出会いは獄中だった。エスペリアからの助けを得て脱出した折、健気についてきた少女は紆余曲折を経てリユンの妻となり、今は二児の母である。


「馬車は近くにとめてあります。こちらへ」


 バルニカが先導し、駅舎となっている木造の古い建物をくぐった。外に出た拍子にひらりと天から白い花びらが降る。摘まみあげて、リユンは軽く眉を上げた。花だと思ったそれは、季節外れの雪片だった。


 一行がたどりついたシュリア=ラス駅は、国境からそう離れていない、エディルフォーレでも親エスペリア派のエラド宝石伯が治める領内にあった。休戦のための講和会議は、十日後この地で行われる。エディルフォーレ女王ルチエが第三国やエスペリアへ自ら赴くことを頑ななまでに拒んだためだ。エスペリア側は銀獅子王の代わりに総司令であったリユンが赴くことで女王の提案を受けた。

 シュリア=ラスから、滞在地であるエラド宝石伯の別館へ移る。

 金剛石が多く出土することから「宝石」の名を冠する辺境伯の館はしかし存外質素なものだった。館には数名の奴隷が働いているだけで、見れば、天井に吊るされたシャンデリアは長く使われていなかったことを示すように蜘蛛の巣が張っている。奴隷の女が持ってきたホットワインをかたわらに置き、リユンは書き物机に向かった。机には、インク壺と数枚の便箋。


「将軍は、雪女王にお会いしたことがあるのですか」


 念のため、銀の毒見棒をワインに通していたゼノンが尋ねる。反応はなかったと見え、一口含んだあと差し出されたそれをリユンは手に取った。


「いいや。実際に会ったことはない」

「将軍でもですか」


 少し意外そうに呟いたゼノンに、ペンを回して軽く顎を引く。


「女王は戦場には現れないからね。エディルフォーリアの硝子宮殿から伝令を飛ばして、兵を動かす。もちろん現場での細かな判断は大将に委ねられているんだろうけど、見えない相手にチェスをやっている気分だった。顔は知らないけれど、思考の癖や性格、好みはだいたい、わかってる。あちらもそうだと思うけど」

「では、将軍が思われる雪女王とは、どんな方です」

「苛烈で短気」


 リユンはわらった。


「好戦的で、やられたら必ずやり返す。度胸が試させる局面では、まず打って出る。だけれど、頭に血がのぼるタイプかっていうとそうじゃない。したたかだし、狡猾な女だよ。こちらをわざと挑発してくる嫌味なところもあってさ、僕はあれで確実に、喫煙量が増えたね。あとは、とても頭が切れる」

「……それって俺にはリユン将軍にしか見えないんですけど」


 ぼそっと返され、リユンは思い切り顔をしかめた。


「昔レーンにも同じことを言われたよ。僕からしたら、とても心外なんだけど、……そうか」


 話しながら、親友であり自分の主である男のことを思い出す。

 敵対する国の女王に似ているだなどと言われて、うれしいわけがない。あの頃はぶん殴る勢いで否定したものだが、今なら少しわかる気もする。

 リユン=サイ将軍は、非情だ。

 目的のためには手段を選ばない。誰もがためらうことでも、それをしなければならない、ただそれだけの理由でリユンは臆することなく成し遂げることができる。戦に勝利し続けたということは、それだけの殺戮をしたということだ。ルチエ=エディルフォーレとリユン=サイ。積み上げた屍の数は変わらない。


「似ているか」


 ぬるまったホットワインに口をつけ、リユンは呟いた。

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