番外 雪の盤上(下)
『こんな時間まで仕事か』
夜中に執務室でチェスの駒をいじっていると、対面にどっかりと座る人影があった。彼の王であり親友である男だ。こんな夜更けに何をしにきたのかと問えば、夜遊びのついでだと言う。近頃ではすっかりなりをひそめたが、レーヴェ=エスペリアは少年時代、身をやつして軍学校に通っていた以来の癖なのか、ときどき王宮から忍び出ては、馴染みの酒屋で酔いどれ客たちと馬鹿みたいに騒いで王宮に帰っていく。対面に座った男からは少し酒のにおいがした。
『仕事をしていたわけじゃないよ。キミとおんなじ息抜きと眠気覚まし』
『ひとり部屋に籠って“息抜き”か。サイ将軍も堅物になったもんだ』
『片想いの女の子がいるからね。いちおう今は一途なんだ』
リユンは咥えていた煙草を灰皿に押し付けた。無骨な鉛の皿には、吸い殻が溢れている。また新たな煙草に火をつけたリユンを見て、レーンは肩をすくめた。
『おまえは煙草の量ですぐわかるよ。バルテローの件か』
頬を歪めて、暗に肯定する。
どうせお見通しなのはわかっていた。むしろ、その話の相談に来たのだろうとも。リユンは灰皿を横に押しやると、広げていた地図をレーヴェにも見えるよう動かした。ポイントはすでにつけてある。諜報部がかき集めた情報から推測するエディルフォーレ軍の陣形と、それに対するこちらの布陣である。後方の補給路や兵站の候補地なども上がっている。
『エディルフォーレの侵攻時期はいつもおなじ。夏だよ。おそらく来夏に来る』
『バルテローで食い止められるか』
『どうにかする。王命とあらば』
こたえるリユンの声は、珍しく苦い。そうか、と呟き、レーヴェは戯れにチェスの駒を動かした。すでに敗色の濃い盤である。
『眠気を覚ますんだろ。せっかくだから、賭け金を積むか』
『キミの横暴さに泣きたくなるよ。これだけ負けがこんでる盤で賭けをするの』
『そうかな? むしろ餞別だろう。何しろ、リユン=サイ将軍は負けがこんでいる局面がいちばん強い』
『悪運が強いんだ』
『なら俺は、いつもおまえの悪運に救われてるってことになる』
レーヴェはことのほか強いとされる北方の酒をふたつのコップになみなみ注いだ。駒を持ち上げて、にやりと笑う。
『俺に勝てるかな? リユン』
学友時代のままの声色だった。
いったい何度、主であり親友でもあるこの男に背を押されただろう。
そしていったい何度、エディルフォーレの雪女王に対峙しただろう。血を吐くような死線も、腹の底を探り合うような駆け引きも、勝利も、敗北も。息の潰れる絶望、そして胸を震わす歓喜すら。リユン=サイの将軍としての半生は、雪女王ルチエ=エディルフォーレとともにあった。十三歳のリユンはよもや、その後の半生をかけて雪女王ルチエ=エディルフォーレと対峙することになろうとは思わなかったにちがいない。
女王は老いた。十年ほど前から、女王の打つ手に明確な翳りが見え始めたことにリユンは気付いていた。以前ならまずなかった悪手を打ち、焦って、さらに悪手を重ねる。リユンには女王の動揺や恐れが、手に取るように感じられた。無論、それを見過ごすリユンではない。生じた綻びを徹底して突き、逃れようともがく軍勢を追いつめていく。奇妙なもので、そうしながらもリユンには微かに女王に対する憐憫めいた情が芽生えてもいた。
駒を取るたび、女王の怨嗟の声が聞こえるようだった。女王の悲鳴もまた、聞こえた。それらに耳を傾け、心の底から同情しつつも、リユンはとどめをさした。それを為さなければならない。ただそれだけの理由で。
かくしてエディルフォーレは大敗する。
今、休戦協定のためにエディルフォーレに訪れながら、リユンは何故か、古い知己に再会するような気持ちに駆られていた。絶大なる権力は今は昔。それでもなお玉座に座し続ける老女王は、果たしていかなる顔でリユンを迎えるのか。考えながら窓の外を見ると、やはり季節外れの雪が降っていた。暖炉の前では寒がりのゼノンが暖をとっている。
「モラン大将は?」
「まだいらしてません。朝にはいらっしゃるという話でしたけど」
時計を見ると、十一時を回っている。遅れて朝食の席についたリユンは、エディルフォーレ風のミルクをたっぷりに入れた紅茶に顔をしかめ、甘すぎるそれを塩パンで流し込もうと試みた。バルニカが憔悴した顔で駆け込んできたのはそのときだった。
「リユン=サイ将軍! 失礼いたします、よろしいですか?」
せわしなくノックされ、近くにいたゼノンがドアを開く。駆け込んできたバルニカの顔は蒼白で、目は虚ろだった。
「大変なことが……」
「どうされました、閣下。気付けのワインでも持ってこさせましょうか」
「女王陛下が崩御なされました」
息も絶え絶えに吐き出された言葉に、リユンも一時声を失した。しかしすぐに取り直し、「どういうことです?」と語気を鋭くする。
「シージア様です、ご子息であらせられる……。陛下は近頃、臥せりがちだったのですが、数日前シージア様がわずかな手勢を率いて寝室に忍び込み、家臣たちと眠る女王を槍でついたと……。なんたること。なんたることだ……」
頭を抱えその場に座り込んだバルニカの肩にガウンをかけ、リユンは館の奴隷を呼んだ。本当に気付けのワインを持ってくる必要がありそうだった。
「なんたること……。なんたることだ……」
肩にかけられたガウンを引き寄せもせずに、バルニカは繰り返した。
ルチエ=エディルフォーレの最期は見るも無残なものであったとされている。
その遺骸に首はなく、痩せ衰えた身体には無数の瑕痕があった。シージア=エディルフォーレはルチエが略奪した国の王族に孕ませた子どものひとりで、ルチエに長年恨みを抱いていたらしい。エスペリアに敗北した罪状を掲げてルチエを死に至らしめたシージアは、ルチエの首を王城に晒し、首のなくなった遺骸はカランコエ山の裾野に打ち捨てた。
一連の事件をリユンは宝石伯の館で見届けた。エスペリアに引き返すという手もあったが、リユンは本国からの打診に対し、しばらくエディルフォーレにて様子を見守るという旨を返した。宝石伯を介したリユンの求めに対して、シージアがひと月の延期を求めた上で会議への出席に承諾したためだ。
「また、手紙を書かれておられるのですね」
紅茶を啜りながらペンを動かしていると、部屋に入ってきたバルニカが声をかけた。女王に父の代から仕えていたバルニカはこの政変に際して立場が危うくなり、今は宝石伯の邸宅で身をひそめるようにして過ごしている。事態が収束したのちは修道院の門を叩き、祈り暮らしたいとのことだった。
「妻と子ども宛なんですよ」
リユンはわらい、最後のサインを済ませてペンを置いた。
「上の子は、近頃さっぱり僕と喋ってくれない。手紙だとすこし、素直になるんですけれどね」
「女の子ですか?」
「ええ。僕があんまり帰れないから、文通をしてるんです。いよいよ戦況が切羽詰まって紙がなくなるまで、書いていましたよ。どこへ行っても」
「手紙では、どんなおはなしを?」
「今日はここの紅茶の甘さがどうにも受け付けないことや、だけども塩パンは香ばしくてとてもおいしかったことなどを書きました。あとは、白い花が咲いている」
「たわいもないことだ」
「そうですね。たわいもないことだ。――それを伝える相手がいるのは幸せなことですけどもね」
微笑み、リユンは本の間に挟んでいた白い花を封筒の内へ入れた。
「将軍。そろそろ準備を」
ゼノンに促され、椅子を引く。奴隷の少女に駄賃つきで封をした手紙を渡すと、上着の上から黒い外套を羽織って外に出た。曇天に傘をかざす。ルチエ=エディルフォーレが死んでからというもの、このエディルフォーレで日輪が姿を見せる日はない。
迎えの馬車には、エディルフォーレ王家の紋章が刻まれていた。
新王シージア=エディルフォーレからの正式な遣いであることを馬車から降り立った若者が告げる。リユンは自分がリユン=サイ将軍であること、エスペリアの大使であることを示す書状を見せ、馬車に乗り込んだ。隣にゼノンと対面に宝石辺境伯が腰掛ける。車窓から雪のちらつく灰色の天を見上げながら、リユンはチェスの盤面に駒を置く気分になる。
――王手。
あなたの息子が適度に馬鹿で、だけど適度に賢いといいのだけれど。
どうだろうか、雪女王。エディルフォーレの支配者よ。
僕の見立ては間違っているかい?
対面に座する女は、沈黙を守っている。
講和のための席に、借りてきた猫のように背を丸めて座るシージア=エディルフォーレを見たとき、リユンは己の見立てが正しかったことを悟った。シージア=エディルフォーレは表向き、リユンたち使節団を歓待した。しかし、その眸には常に不安と猜疑がよぎり、視点もひとところに定まらない。
リユンは挨拶を交わすや、エディルフォーレの大敗を端緒に、休戦協定を畳み掛け、また南部フェビラ地区の権利をエスペリアが回復する文書にサインをさせた。とにかく再び戦を交えることを恐れたシージアはなされるがまま、ペンを握るしかなかった。
目をきょろきょろと動かしながら、ペンを握るシージアの横顔を眺め、リユンは人知れず息を吐く。ルチエ=エディルフォーレの面影をどこかで探そうとしている自分がいたが、まったくの無意味であると悟ったのだった。この国での自分の仕事は終わった。実感がこみ上げるのと同時に、無性に妻の作ったクリームシチューが食べたくなった。ここのものと味付けは近いが、もっと濃厚で、バターのにおいが甘く蕩ける。彼女のシチューが食べたい。
その晩、泊まることとなったシュリア=ラス駅に近い宿の一室で奇妙な夢を見た。
夢の中でリユンは十三歳の少年に戻っており、負傷した左足を抱えて凱歌の響く北の空を見上げているのだった。
エディルフォーレ万歳!
女王陛下、万歳! 万歳!!!
はっとなって目を覚ます。
夜明けにはまだ遠い時間であるらしい。あたりに人気はなく、窓の外では吹雪がごうごうと大地を駆けていた。不意にひとの気配を感じて、ランプのつまみを回す。リユンの寝台のそばには、小さな円卓がある。その椅子に誰かが座った気がした。
「……誰だ?」
声は返らない。けれど何故か不意に思い当たることがあって、リユンは口端に小さく笑みを引っ掛けた。対面の椅子を引くと、荷物の中から携帯用のチェス盤を取り出す。木目盤がランプの明かりでてらてらと光った。
「夢の中で子どもの頃にした約束を思い出していた。……たぶん、貴女と」
語りかけながら、リユンは駒のひとつを手に取る。
凱歌。
凱歌が、響いていた。
大地を轟かせ、天を突き、吼えるように、叫ぶように、怨嗟のように、呪詛のように。この三十年ただの一度も忘れられることなく、夢の淵まで追いかけ逃げ惑うちっぽけな少年を戦場へと引きずり出してきた凱歌が。
ルチエ。
「『僕はあなたに決して跪かない』」
ただの虚空に向けて駒を掲げ、リユンは口端を上げる。
「感謝します。ただ、それだけが何者でもなかった子どもをここまで導いた。この、悪夢のような泥濘から生きのびる糧となった」
対面には、誰もいない。
けれど深い闇の中で、何者かが小さくわらった気配がした。
それは盤上で多くを奪い合った男と女の、一度きりの邂逅であったのかもしれない。憎悪と怨嗟、殺意と呪詛のその果てに。たどりついた一瞬ばかりの交叉であったのかもしれない。だがしかし、ルチエ=エディルフォーレはすでにシージア=エディルフォーレによって殺害されており、リユンはやはり、結局一度として雪女王とあいまみえることはなかった、ということなのだろう。
*
エディルフォーレは近いうちに滅びる。
シージア王と拝謁し、国をあとにしたリユンの直感だった。何年かのち、エディルフォーレは内側から瓦解する。それはエディルフォーレとの長い戦いの終焉を意味したが、安寧にはまだほど遠い。大国の瓦解は、周辺国にとっては災いに等しい。エスペリアを守らなければならなかった。
けれど、そのような暗澹たる予感に反して、エスペリアのセント・トワレ駅に降りるリユンの足取りは軽かった。プラットフォームに見慣れない――ある意味では見慣れ過ぎた人影を見つけたからである。
「エアル!」
十四になる娘は、車椅子の女性に寄り添うようにして立っていた。王都の学生服に身を包んだエアルはリユンを見つけるや、「わたしは、ニナさんの付き添いで……っ」と頬を赤らめ、尋ねる前から言い訳をした。すぐにぷいと横を向いてしまうあたりが扱いづらく、それでいて可愛らしい。リユンはにこにこと頬を緩ませて、娘をのぞきこんだ。
「でも、僕も迎えにきてくれたんでしょう?」
「ち、ちがうわ。リートが熱を出しておかあさんが行けないから、かわいそうに思っただけ!」
「そう。エアルはやさしくていい子だね」
「どうしてそうなるの……!」
帰る、と言って、エアルはゼノンを迎えているニナにだけ挨拶をすると、くるりときびすを返した。黒髪で編んだおさげが背中で揺れている。不意に、つむじ風が吹き抜けた。
(エディルフォーレ、)
(エディルフォーレ、)
(わたしの国)
(うしなわれてしまう、わたしの国)
「……おとうさん?」
ついてこないのを不審に思ったらしい。エアルがリユンを振り返る。その眸はきれいな若葉色をしていた。エアルの眸の色はエスペリア人であるリユンの色彩ではない。エディルフォーレで生まれた妻のものである。
「いいや。何でもない」
肩をすくめると、リユンは娘の背を押して歩き出した。
たとえば、この先、エディルフォーレと呼ばれた国が滅びても。
圧倒的な力をもって君臨した女王が忘れ去られたとしても、それでも。
「エアル。僕がおかあさんと出会った国のはなしをしようか」
*
そうして、今はなき古き国。
昏き夜、永久凍土の大地と、雪を抱いた国をひとは語るのだ。
エディルフォーレ、あなたは雪女王の支配する国――と。
終
BLANCA 糸(水守糸子) @itomaki
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