番外 流星

 群青の天にほろりとひとつ星が流れた。

 北大陸の古い伝承では流星は凶兆とされ、見た者は帰る道を失うといわれている。リユンはそういった伝承はあまり信じないたちで、普段は怯える兵士を笑い飛ばす役回りをすることのほうが多いのだけれど、その日ばかりは少々勝手がちがった。ベンチから投げ出していた足を組み替え、まだたっぷりと余った煙草を携帯用の灰皿に押し付けて消すと、また新たな煙草に火をつける。

 春が近い時分だが、極寒の王国エスペリアではひとたび太陽が沈めば、綻びかけた花蕾も凍る冷気に支配される。サン=トワ通りに面した病院の屋上のベンチに座ったリユンもまた、厚手の冬物のコートを軍服の上に着込み、白い息を吐いていた。屋上にのぼってからずっとそうしているせいで、ベンチの周囲は煙草の燃えカスだらけになっている。

 煙草に手を伸ばすのは、難題を抱えたときや苛立ったときのリユンの癖だった。やはりまだ長い煙草を落として、ブーツの踵で踏みつぶす。


「……冗談じゃないよ」


 呟く声は何かを糾弾するかのようだった。焦燥とも怒りともつかない衝動がせり上がってきて、リユンは顔をしかめる。


「まだ早いでしょう、キミのところに行くのは。まちがえて来ちゃったのなら、追い返してやってよ」


 北天に輝く星に向かって、かつての旧友の名を呼びかける。

 臨月だった彼の奥さんが勤め先でもある病院に運び込まれて、半日以上が経つ。彼と奥さんがはじめて授かった子どもは、予定の月になってもなかなか生まれず、見守る彼をやきもきとさせた。奥さんのほうは不思議と落ち着いていて、「きっと、春を待っているのよ」と毛織物を重ねたおなかをいとしげにさする。

 身重になった奥さんは階段の勾配がきつい官舎から、友人の女将が営む「鷲と酒樽亭」に居を移していたが、今朝女将が部屋をノックすると、顔を蒼白にして寝台にうずくまっていたらしい。

 リユンはちょうど王都から少し離れた街に視察に来ていた。

 至急サン=トワ通りの病院に向かうように――。

 メッセンジャーの少年から言伝をもらったのはゆうに昼を過ぎた頃である。出産に立ち会うためではない。ともすれば赤子だけでなく母親までも落命する恐れがあっての火急の伝達だった。目途をつけた仕事を副官に引き継ぎ、列車を乗り継いで病院にたどりつく頃には、空に早い残照が射していた。けれどまだ、赤子は彼女の中で暴れ回って生まれてくる気配がないらしい。

 エスペリアに男がお産に立ち会う習慣はなく、むしろ子どもが流れると言って遠ざけられるのが常である。それでも一目だけと思い、開け放しの病室をのぞく。寝台に横たわる彼女の頬は紙のように白かった。彼女の“無茶”にはすっかり慣れた気になっていたリユンだけども、今回ばかりは蒼白になった。

 以来、病院の屋上で何をするでもなく煙草をふかしている。

 懐中時計を開ければ、深夜すでに二時。

 長い夜になりそうだった。



 ・

 ・



「あっ」


 隣を歩く少女が小さく声を上げた。

 繋いでいた手のひらに少し力がこもる。


「リユン。流れ星」


 さなかに星は流れ、リユンが目を上げたときには星の残像も消え失せている。間に合わなかったみたい、と隣を振り返ると、ブランカはしょんぼりと肩を落として息を吐いた。


「一回しか言えなかった……」

「言うって、何を?」

「おねがいごと。知らない?」


 聞けば、彼女の故国エディルフォーレでは流れ星は吉兆のしるしで、見つけると胸のうちで願い事を三度唱えるのがよいのだという。わたしも雪かきをするとき、よくそうやって遊んだのよ、と彼女は何でもないことのように言った。

 雪かきといっても彼女の場合、子どもが親の手伝いをするたぐいの微笑ましいものでは決してなく、御主人様からあてがわれたつらい仕事のひとつだったにちがいない。けれども、彼女はことさら嘆く風でもなく、「氷柱を叩くときれいな音がするのは知ってる?」と懐かしそうに語った。


「さっきは何をお願いしたの?」

「それは内緒」

「教えてくれたら、次は僕も一緒に唱えるよ」

「わたしのぶんはわたしが唱えるから、いいの。ひとにお願いしてもらったらだめ」


 こうなってしまうと、彼女は決して口を割ったりなどしない。普段は砂糖菓子か何かのように、ふんわりした雰囲気の女の子なのに、内面はむしろ真逆で、彼でも手を焼くくらいに頑固で強情だ。眉間をきゅっと寄せて、前を向いている彼女が愛らしくて、頬にふわりと唇を触れさせた。驚いた彼女の手を引いて、官舎へ続く雪の道を歩きだす。暖炉で温かくしたあの部屋で、はやく彼女を抱き締めたかった。


「あっ、また流れ星」


 駆け足になってしまったことにわらいながら、彼女が天を指す。

 ――実際、彼女とこんな風に並んで帰れた日々はあまり多くはない。

 彼女が十九歳の誕生日を迎え、養女から恋人となったあと、遠出や食事など、何度かそれらしいことは試みた。試みたものの、そのおよそ半数以上にリユンは遅刻し、あるいは結局向かうことができずに、メッセンジャーの少年をやることもしばしばだった。

 雪の降りしきるカフェの、通りが見える窓側の席が彼女の定位置で、彼が閉店間際の店に駆けこむと、開いていた本やノートから顔を上げて、ほっとしたようにわらう。のちに共通の友人であるポルコにはさんざんどやされるのだが、リユンは恋人にプロポーズをすることを決めたその晩ですら、大幅な遅刻をしてしまったのだった。


「ごめんブランカ、待った!?」


 ドアベルを盛大に鳴らして店に駆けこむ。その晩は、いつもよりはまだ店内に客が残っていた。といっても、時計はすでに十時を回っている。約束は八時だったため、二時間の遅刻だ。彼女は律儀なたちで、十回に八回は男が遅刻する約束でも、よほどのことがなければ、時間より少し前に待ち合わせ場所に来る。もうずいぶん待っていたにちがいなかった。


「傘、さしてこなかったの?」


 彼女は開いていた本に栞を挟んで閉じると、きれいに爪が整えられた手を伸ばしてリユンの髪に触れた。髪にくっついた溶けかけの雪が室内で温まったうすべに色の指先に絡む。端に刺繍のなされたハンカチをリユンの頬にあてがうと、ブランカは店のボーイを呼んで、熱いコーヒーとジンジャーミルクをひとつずつ頼んだ。リユンもひとまず、雪まみれになった外套を脱いで、椅子にかける。


「どれくらい待った?」

「たいしたことないよ。ずっと予習をしていたし、リユンが貸してくれた本も読めたし」

「でも、メッセンジャーの子が来たでしょう」

「来たけれど……、あっ、コーヒー」


 彼女はすぐに話題を切り替えて、自分はボーイからジンジャーミルクを受け取った。こちらを待つようなそぶりをするので、カップを取ると、彼女は香り立った湯気に目を細めて一口啜った。なめらかな木肌が剥き出しになった椅子に座る彼女は、生成りのブラウスにモスグリーンのカーディガンを重ね、その上にあたたかそうな毛織のストールをかけている。アッシュグレイの髪は途中から編み込んでシュシュで束ねてあった。唇には淡い蜜紅。いつもより少しだけ手の込んだおしゃれをする彼女が愛らしく、遅れてきた自分にまた苦い気持ちがよぎる。

 リユンは外套のポケットに押し込んできたもののことを思った。

 指輪である。無論、ただのプレゼントではなかった。

 だけども――。よいのだろうか、と一瞬だけためらう。

 リユンは軍人である。ふつうは軍人である前にひとりの男であり、親であり、夫であるのだろうけども、リユンの場合はひとりの男、親、夫である前におそらく軍人であった。そしてこれからもそれは変わりやしない。彼女を幸せにする自信はあるけれど、そういう自分の人生に付き合わせてしまってよいのかと、すでに何度も自問し、答えを出したはずの問いが頭をよぎる。


「リユン?」


 名前を呼ばれて、リユンはとめどない方向へ向かいかけた思考を戻した。いつの間にか彼女のジンジャーミルクも、自分のコーヒーも空になっていたことに気付いて、「出ようか」と促す。閉店の時間が近い。そうだね、とうなずいて、ブランカはボーイを呼んだ。白の毛織の外套をとって、マフラーを巻く。


 入るとき、降りしきっていた雪は上がっていた。

 さくりと積もった新雪を鳴らして外に出、彼女はいつものように左手をあける。リユンはそれを引き寄せて自分の外套のポケットに入れた。さむい?と尋ねると、あったかい、と微笑んで、彼女は首元のマフラーを引き寄せる。


「何かあった?」


 ひとつ呼吸を置いたのち、彼女はうかがうようにこちらを見上げてきた。先回りされた形になってしまい、「何かって?」と内心の動揺を隠して聞き返す。


「なにか……ずっと言いたそうにしていたから」

「……凄いね、キミは」


 苦笑気味にリユンは息を吐いた。


「北大陸を探したって、リユン=サイ将軍が次に打つ手を当てられる人間ってそうそういないよ」

「また、冗談にする」

「冗談じゃないよ。さっきから深刻に考えすぎて、頭が痛いくらいだ」

「たとえば、何について?」

「たとえば、……そうだね。どうしたらキミに振り向いてもらえるか、考えてた」

「やっぱり冗談じゃない」


 くすりと隣で彼女がわらう。いつもの応酬をしているうちに、罪悪感や緊張でわだかまっていた胸のうちが和らぎつつあるのを感じた。冗談じゃないよ、と肩をすくめ、リユンは外套のポケットにしまっていた彼女の手を両掌で包み込んだ。


「ブランカ」


 目が合った瞬間、聡い彼女はそれだけで、先の言葉を予期してしまったらしい。それまでは心配そうにこちらをうかがっていたのに、急に緊張と不安がないまぜになった顔つきになり、身をすくめた。暗がりでもなお明るい翠の眸がリユンを見上げる。


「ブランカ、聞いて」


 包んだその手を大事に握りこむ。――結局、しまりがなかったのは、肝心の婚約指輪を先ほどの店内に忘れてきてしまい、気付いたボーイが雪の中届けにくるという珍事が起こったためだ。そのときの彼女の、おかしそうな顔。控えめな彼女が声を立ててわらうことなんてほとんどなかったから、確かに珍事ではあった。彼が妹を連れまわして探し求めた婚約指輪はかくして、彼女の左の薬指におさまった。



 左の結婚指輪に口付けを落とす。

 彼女の指先はほんのりとうすべにをして、唇を触れさせると白い肩を小鳥のように震わせた。

 まだ早朝であるらしい。カーテンから射し込む光がきらきらと帯を描きながら寝台に落ち、まどろむ彼女の肩に陽だまりを落としている。遠くで鐘の音がした。でぃんぐどん、でぃんぐどん。どうやらこの音で目が覚めてしまったらしい。リユンはあくびをして、開きかけたカーテンを結ぶと、穏やかなまどろみの中にいる奥さんの髪を手慰みに梳いた。

 こうしているとき、リユンはつかの間、己を苛んでいるさまざまなものを忘れる。

 たとえば、隣国の情勢。卓上で繰り広げられる足の引っ張り合い。諜報からもたらされる情報の数々、崩しては並べられる陣形の駒、苦悩する国王の横顔、それから。硝煙のにおい、固い鉄の感触や怨嗟の悲鳴といったものを。

 ――いや、本当に忘れたわけじゃない。

 ただこうしているとき、自分でも気付けないうちに凝り固まり、いつの間にか肩に圧し掛かっているものたちがするん、とほどける。ほどけて、かたちを変え、もう一度差し出されたものたちを、リユンもまた、新しい緊張と畏敬をもって受け取り直すことができる。その繰り返し。無意味なようでいて、無意味ではない。少なくとも、自分はだいぶ救われている。

 たとえるなら、帰る場所であった。

 此処は、彼にとっての。

 帰る場所であり、そして再び出て行く場所でもあった。


「ブランカ」


 ひとしきりかわいい奥さんの寝顔を堪能してから、彼は彼女の耳元に囁きかけた。


「ブランカさん。起きて」



 ・

 ・



「起きてください!!!」


 突如耳元で叫ばれた声に、リユンは危うく腰掛けていたベンチから落ちかけた。顔をのぞきこんでくる小柄な女性は確か、ブランカの同僚でシオンだったか。未だ状況がつかめず目を瞬かせたリユンを「はやく!」とシオンはじれったげに腕を取って引っ張った。


「ええ、と。キミはシオンさんだっけ……?」

「そうです。ブランカの親友です、将軍。生まれたんです」

「え」

「生まれたんです。おめでとうございます、元気な女の子ですよ。ブランカも無事です」


 リユンを連れて階段を駆け下りたシオンは病室のドアを開いた。先ほど自分の奥さんが横たわって苦悶の表情を浮かべていた寝台はからっぽで、看護婦らしき女性が洗浄をしている。少し離れた場所に簡易ベッドがあって、ブランカと助産婦の姿が見えた。柄にもなく心臓が跳ね上がり、顔が強張る。

 先に気付いたブランカが、りゆん、と彼に伝わる程度の小さな声で呼んだ。憔悴の色があったものの、さっき見たときとは異なり、頬にはほんのりと薔薇色が射している。血の通った色だ。


「リユン、赤ちゃん」


 促され、生成りの産着に包まれたそのちいさなものを見つめた。赤子なんて、ずいぶん昔に妹たちのお守りをしたことくらいしか記憶になかったけれど、生まれたばかりの彼女はうすべにをして、目はまだ開いていない。抱き上げると、本当に小さい。ちいさく、そのくせ熱く、まるでまだ羽化をする前のやわらかなもののような。知らず、笑みがこぼれた。

 かつて、捨て去ったものがある。

 もう取り戻すことができなくて、置いていくしかなかったものだ。

 リユンは十三のとき、はじめての戦場で眼前の『敵』を撃ち殺した。偶然起こった悲劇ではない。はっきり殺意を抱いて、親友の命と秤にかけた上で選択をし、引き金を引いたのだ。

 あのとき、もうこの先、泣くまいと決めた。自分が今しがた捨て去ったものと引き換えに選んだ道のために、彼の王となるひとのために、嘆くことだけはしないと。そう自分に言い聞かせなかったら、とても耐えられそうになかった。

 ――だけど、……そうか。

 そうか、と思って、すこし肩を震わせる。

 微かな嗚咽がこぼれて、赤子を抱き寄せたまま顔を手で覆った。

 なくしたと思っていたものと、ふいにまた出会った。

 出会えた。

 あのときの今にも泣き出しそうな顔をしていた少年に言ってやりたい。

 おまえのこの先の道は、血と硝煙と怨嗟ばかりに彩られているのかもしれないけれど――、それでも確かにうつくしいものだってあるのだと。


「女の子だって。きっとキミに似て、気が強くなるなあ」


 苦笑まじりに呟くと、彼女はわらって「あなたのほうにでしょう」と言った。



 *



「エアルのエアルは春のエアルー」

「リートのリートは音楽のリートー」


 陽だまりの中、黒髪に翠の眸の少女と、少し年下の銀灰色の髪に青い眸をした少年がプラムの樹の下で額をくっつけあっている。少女のほうは王立学校へちょうど入学したくらいだろうか。チェックのノートに綴った文字を弟に教えているらしい。春の公園は穏やかな陽射しに包まれ、若葉色をした木漏れ日を子どもたちの小さな背に落としている。やがて、綴り字に飽きたらしい弟が「おかあさーん」とベンチに座って刺繍をする母親を呼んだ。


「今日のおやつはぼく、林檎のパイがいい!」

「林檎の?」

「うん。おとうさんが昔、おかあさんが作ってくれたっておはなししてたよ」


 こそこそと母親に内緒話をする少年のかたわらで、チェックのノートに字を書いていた少女がふと手を止めた。若葉翠をしたその目が何かを見つけて和らぐ。


「……ごめん、待った!?」


 現れた、軍服の釦がひとつずれている軍人さんを見上げて、エアルとリート、――ふたりの子どもたちは口を揃えて笑った。


「おとうさん、おそーい!」


 ――のちに、星を見上げる彼女に昔何を願ったのかと尋ねると、

 もう叶ったからいいの、と花が一輪咲くように、わらった。

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