Extra Track 04 マロニエ
ゼノン=エストが妹の結婚にあたり、数年ぶりに王都の実家へ帰ったのは、バルテローでの騒乱後半年ほど経った秋のことだった。
出立するとき、上官からはすでに来春の配属替えを伝えられていた。辺境ハイネスから王都への異動。肩書は変わらないが、実質昇進である。華やぐ親戚一同に迎えられたゼノンは、そこで懐かしい少女からの手紙を受け取った。
否、少女とはもう言えない。確かに出会ったばかりの彼女はまだ十一歳の愛らしい女の子であったけれど、ゼノンがもうかつての少年ではないように、彼女もまた今ではサン・トワ通り軍付属病院で働く十九歳の看護婦さんだ。
――ブランカ。
久方ぶりになる手紙には、彼女らしい清楚な筆致で、級友のリーアづてにゼノンの帰郷を聞いた話、勤めてふた月になる病院での近況と、暇があればぜひ遊びに来て欲しいという誘い、それから末尾にそれとなく来春には結婚するとの旨が記されていた。
好きなひとがいるのだと言って、目を赤く腫らして泣いていた十七歳のブランカ。ゼノンの記憶は失恋の痛手とともにそこで途切れているのだけども、彼女はその「ずっと好きだったひと」とどうやら無事結ばれたらしい。
ブランカはゼノンの初恋の女の子だった。
「結婚」の二文字にほのかな喪失感にも似た気持ちに駆られたが、彼女が幸せになれたことはやはり嬉しく、ゼノンは数年ぶりにこの友人へと連絡を取ることにした。
秋のマロニエの樹は黄金に色付いている。落葉を集める掃除夫に会釈をして、ゼノンは半年後には自分も毎日くぐることになるであろう官舎の正門を仰いだ。
ブランカは依然、養父であるサイ将軍と生活しているらしい。迎えた約束の日、母から持たされた手作りのブルーベリーパイを抱えて、扉脇に吊るされた異国風の鈴を鳴らしたゼノンに、「はぁい」と中から懐かしい女の子の声が返る。
足音が近づいてくるまでの間、二年ぶん成長した彼女のことを夢想した。背にかかるくらいだったアッシュグレイの髪はどれくらいの長さになっているのだろう。銀灰色の長い睫毛や、若葉翠を思わせるきれいな、けれど芯の強さをも感じさせる双眸。ときどき着てくる赤い毛織のカーディガンが生成りのワンピースに似合ってとっても可愛かった。声だって、小鳥みたいに愛らしくて――
「どうぞー?」
「……え、」
開いたドアから降った、想像していたものより数段低い声にゼノンは瞬きをする。そして、大事に抱えていたブルーベリーパイを危うく落としかけた。
「しょうぐん!」
「いらっしゃい。定時きっかり、さすがだね」
「ああいや、す、すいません」
仮にも自分の遠い遠い上官であるひとを指差した挙句、挨拶も忘れてしまい、ゼノンは顔を赤らめた。
「ごめん、こっちこそびっくりさせたよね」
「あの、ブランカ……さんは?」
「今おなべ見てる。とりあえず上がりなよ」
「ゼノン!」
懐かしい花の香がくゆった気がして、ゼノンは顔を上げた。ドアを開く将軍の腕の下に身をもぐりこませるようにして顔を出したのは、心待ちにしていた初恋の女の子だった。
「いらっしゃい。来てくれて、うれしい。外、さむくなかった?」
可憐な微笑を咲かせて、ブランカはゼノンの赤らんだ両手をそっと取る。家事をしていたのであろう彼女の手は水気を帯び、ましろな膚には淡い血の気が通っていた。リネンのエプロンと、裾に刺繍のほどこされたワンピース、短くしたらしいアッシュグレイの髪はお下げを編んで、少し重たげな林檎色のビーズで結んでいる。
「久しぶり、ブランカ」
「うん。アインちゃんのこと、おめでとう」
もうそんな歳なんだね、とかつて妹と遊んだことを懐かしんでか微笑み、ブランカはゼノンを中へと招く。ちょうど昼食の準備中だったらしい。キッチンにはバターや煮込んだ玉葱の甘い香りが立ち込めていて、チェックのテーブルクロスの引かれた長卓にはお皿や茶器も出されていた。
「あ、これ。かあさんからブルーベリーパイ」
「すてき。ありがとう」
抱えていたものを差し出すと、ブランカは翠の眸を細めてうれしそうにした。暖炉のそばのソファを勧め、自分はお茶を淹れると言ってキッチンのほうへと戻る。
「聞いたよ。春からこっちに戻るんだって?」
ソファにぎこちなく腰掛け、ふわりふわりと蝶々みたいに揺れるエプロンのリボンをなんとはなしに見つめていると、対面に腰をかけた将軍が言った。
「まだ、正式決定ではないのですけど。おそらく」
「三年だっけ、ハイネスにいたの」
「軍学校を卒業してすぐに赴任したので……よくご存知ですね」
「ふふ。キミのことは、たくさんブランカから聞いているもの」
一瞬、微笑みの裏に得体の知れない含みを感じたのは気のせいだろうか。そうですか、と曖昧に首を傾げ、ゼノンは居住まいを正した。
「そういえばおめでとうございます。ブランカさんのこと」
「ブランカの?」
いぶかしげな表情をする将軍に、「結婚するって聞きました」とゼノンは続ける。これからブランカに直接お祝いを告げる前に、それとなく婚約相手の素性を将軍から聞き出しておきたかった。勤め先を考えれば、サン・トワ通り軍付属病院の先生が自然だが、級友か、もしくは軍の関係者だって考えられる。祝福することは決めていたけれど、そのための心の準備はしておきたい。
ああ、とサイ将軍はうなずき、「ありがとう」とほんのりはにかむように目を伏せた。
(……なんでこのひとが恥ずかしがるんだ?)
てっきり婚約者の話が出てくると思ったゼノンは、肩透かしを食らった気分で眉をひそめる。
「キミにお祝いしてもらえるなんて思わなかった」
「いや……うれしいですよ。ブランカ、ずっとそのひとのことすきだったし、やっとうまくいって」
「うん、僕ももちろんずっとあいしていたよ」
「あい……そうなんですか」
どうやら将軍の寵愛篤い婚約者のようだ。
だとすると、やはり軍人か。知っている顔を脳裏にいくつか浮かべながら、ゼノンは思案する。もしかして、ブランカが従軍看護婦を目指すようになったのもそのひとの影響だったのだろうか。ハイネス在学中ずっと会いに来なかったのも、任務ゆえと考えれば納得がいく。
「結婚の話は、いつ決まったんですか」
「夏だよ。プロポーズしたのはもう少し前なんだけど、ブランカが結婚は病院で働けるようになってからって聞かなくてさ」
「そうなんですか……」
「長かったよー」
まるで、自分のことのように話すなあ、このひと。
いぶかしみつつも、ゼノンは相槌を打つ。人生経験の浅いゼノンには想像に難いが、養女とはいえ、十年近く育てた大事な娘と寵愛している男が結婚するとなれば、まるで我がことのように語ってしまうものなのかもしれない。そう思えば、先ほどの恥じらいぶりも納得できた。
「ただ、問題は籍でねー。ブランカはいちおう僕の娘ってことになっているじゃない? だから、お嫁さんにするには一度籍を抜かなくちゃいけなくって」
「は?」
「知り合いが養父になるよって言ってくれてるんだけども、ブランカ=サイになったりブランカ=スピネルズになったりしたら、ちょっとなぁ……」
「ええっと」
「リユン!」
そのとき、突如割り込む声があって、ゼノンは半ば混乱しかけていた意識をなんとか取り戻した。見れば、頬を薄紅に上気させ、少し拗ねたような顔をしたブランカが将軍を仰いでいる。
「どうしてリユンがゼノンとはなしているの!」
「だって、ひとりでお待たせしてたら悪いじゃない。お茶運ぶ?」
「……うん」
うなずきつつも、ブランカはまだ不満そうだ。その仕草に、あれ、と思う。ブランカがこんな風に駄々をこねることは珍しい。彼女は昔からひとに甘えるということができない女の子であったから。
「リユンはだめ」
切り分けたブルーベリーパイと茶器を運び終えると、ブランカはカップを持って当然のように隣に腰掛けようとした将軍を押し返した。
「今日は、ゼノンとふたりでおはなしするんだから」
「ええ、いいじゃない僕がいたって」
「だめ。この間も、邪魔をしたでしょう」
「それはキミが知らない男を家に入れようとしたからでしょー」
「あのひとは、郵便屋さんなの!」
「あのねブランカ。キミはどうしてその『郵便屋さん』が休日の昼間からスーツ着用で花束を抱えて扉の前までやって来るのか、もうちょっと深く考えたほうがいいよ。危なっかしいったら……」
「考えているもの。ちゃんと」
「ほんとうに? キミが可愛くて、魅力的な女の子で、そこらじゅうの男どもの初恋を片端から奪ってる困った子なんだってわかって言ってるのブランカさん」
――なんだこれは。
彼女のなだらかな肩をふんわり抱いて、あまつさえ真剣な表情で説き始めた将軍を、ゼノンは呆けた顔で見つめる。父娘どころか、どう見ても、恋人たちの痴話喧嘩にしか見えない。もしかして。もしかしなくても。
「ブランカの『結婚するひと』って……」
ある種の予感を抱いておずおずと尋ねれば、彼女は銀灰色の睫毛を揺らし、それからはにかみがちに目を伏せた。
「……この強情なひと」
思わずゼノンが奇声を上げてしまったのは言うまでもない。
*
「また、いつでも遊びに来てね」
そのあとの初恋の女の子との時間は正直、ほとんど記憶に残っていない。ゼノンからすれば、いつ、という思いがある。彼女と将軍の姿なら、幼い頃からずっと見てきた。自分がブランカに淡い想いを寄せ始めたとき、すでに彼女の目はこの八歳年上の養父へ向かっていたのだと思うとなんともやるせなかった。将軍に至っては、歳と場合によっては訴えてやりたい。
「結婚おめでとう、ブランカ。お祝いが遅くなってごめん」
「ううん。ありがとう、うれしい」
しかれども、しあわせそうに微笑む彼女を見ていると、そんなやるせなさも塵と飛んでしまうのだから自分はつくづく彼女に弱い、と思う。戸口のところで隣の奥さんに引き止められてしまった彼女の代わりに、門までは将軍が送ってくれた。いいですよ、とゼノンは固辞したが、ポストに郵便物を取りにいくついでなのだという。
「春にはどこに配属になるんだろうね」
「さぁ……参謀科へ希望を出しているんですけど、地方の軍学校出身者はまずはイネス将軍のところにつくことが多いって聞きますね」
「僕のところにおいでよ。イネス閣下に手紙を書いておこうかな」
冗談とも本気ともつかないことを言い、サイ将軍はポストを開けた。
「それじゃあ、」
「ゼノン」
辞去しようとしたゼノンを将軍が引き止める。マロニエの葉が燃えるように赤い。落日を白皙の頬に受けながら、サイ将軍は門柱に背を軽くあてた。
「あの子のこと、ありがとう」
「……お礼を言われるようなことは、俺は何も」
「うん。でも、あの子がいちばんつらいとき、そばにいてくれたでしょう。感謝してる。それを言いたかったんだ」
「別に、将軍のためにそばにいたわけじゃないですよ」
――奪おうと思っていた。叶うなら、弱った彼女に付け入って自分のものにしてしまおうと。あれはそういう下心ありきの逢瀬だったのだ。
「そう?」
「そうです」
「じゃあ、お互いさまだ」
何を思ったか、将軍はゼノンのほうへ左手を差し出してくる。握手、なのだろうか。眉をひそめながら、ゼノンが左手を重ねると、ぐっと引き寄せられた。
「これは見逃してあげる。次は、ないよ」
そうして胸ポケットに入れられたのは、忘れようもない、かつて告白と一緒に初恋の女の子にあげて一度は返された花のかたちのブローチだった。
「なんで、将軍がこれ……!」
「ご返却します。悔しかったらもっかい奪いにおいで」
「なっ」
「もう絶対に譲ってあげないけどねー」
くすりとわらい、初恋の女の子をかどわかした男はゼノンの手を離した。
「じゃあ、また。キミが『こっち』に来るのを楽しみにしているよ」
将軍の不吉な別れ文句は、このあと見事に的中を果たす。
半年後、もらった配属通知を見て、ゼノンは天を仰いだ。
*
マロニエの樹下を甘やかな夜風が吹いている。
「ったくあのひとはこれだからいつも!」
今日も今日とて働き詰めであったゼノンは、上着の襟をくつろげながら舌打ち交じりに花咲けるマロニエの下を歩いていた。こちらに着任して知ったが、あの一見柔和な見てくれの将軍はたいそう人使いが荒い。ときどき本気で銃を抜きたくなりますよ、と副官のキリノ大尉が呟いていたのは、まるきり冗談でもあるまい。
日はすっかり落ちてしまっている。半月ほど別所にある駐屯地に派遣され、先ほどセント・トワレ駅に着いたばかりだったが、今回も休む暇はなさそうだった。報告のあと、明日にはさらに別所に発たねばならない。
疲労で痛んだこめかみを揉み、ゼノンは乱雑に家の門を開く。
「あの……」
夜陰に消え入りそうなか細い声がかかったのはそのときだ。きぃ、と車輪の回る小さな音がして、見慣れぬ車椅子の少女が暗がりから現れる。膝には大きな鞄を抱え、青い目には緊張の光を湛えて。
誰だ、と目を眇め、ふと思い当たって眉間を開く。半月前、家を出る前に母親が言っていた。この夏に、地方から王立学校に通いにやってくる女の子をしばらくこの家で預かることになったのだと。確かハイネスの孤児院からやってきた、名前を。
「ニナです。はじめまして。エストさんのおうちはここですか?」
勿忘草を思わせるきれいな青色の眸と目が合う。
「ああ、ここだけど」
ぶっきらぼうに答えながら、何処よりか風に運ばれたマロニエの花が舞って少女の黒髪に絡んだことに気付いた。ゼノンは少女の前にかがみ、艶やかな黒髪に絡んだ花びらをそっと摘む。指先に触れた髪の柔らかさに、知らず頬が染まる。花ついてた、と顔をよそに向けて言うと、ありがとうございます、と少女が目を細めて微笑った。
――これがのちに妻となる十歳年下の少女ニナとゼノン=エストの出会いである。マロニエの花が運んだ恋だった、と少しあとニナは頬を染めてこの日のことを微笑ましげに語った。
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