Extra Track 03 はちみつ

 時間にすれば半年ほどだが、かつてまっとうな恋人がいた時期がある。

 名前はもう忘れてしまった。ただ、唇に挿した蜜紅が印象的で、たまさか彼女を思い出すときは、最初にそれが蘇る。当時の上官から縁談を勧められたひとで、エスペリア建国時代からある古い貴族の令嬢だった。歳は十八。リユンはそのとき二十過ぎであったから、ちょうど似合いの歳だとも言えた。


「はじめてなんじゃないか」

「なにが?」

「おまえがきちんとまっとうな『お付き合い』をするの。昼に出かけている時点でありえない」

「キミはひとをなんだと思ってるのかな、レーン」


 真顔で嘯く王様へ、リユンは冷えた眼差しを送る。だが、レーンにそう言わせるだけの理由はもちろんリユンにもあって、マラキア地区の娼館街に入り浸っていた軍学校時代から、リユンはいつだってふらふらと、たとえば寝台にもぐりこんで暖をとるためだけの家だとか、あたたかいごはんをもらいにいくためだけの家だとか、そういう『都合のいい家』をいくつか行き来していた。とはいえ、そんなふらふらとした生活も、近頃はすっかり縁遠くなっていたのだけど。


「何書いてるんだ?」


 おろしたての便箋に万年筆を走らせていたリユンをレーンがのぞきこむ。


「彼女への手紙」

「……へええ、なになに『あなたに会えない間は胸が張り裂けそうです』。……。」

「ひとをそんな目で見ないでくれない?」

「友人の意外な一面に驚いただけだよ」


 嘘つけ、という顔で見てくる親友を睥睨し、リユンは便箋を丸めて捨てた。思ってもみない言葉を並べるのは割合得意なほうだったが、近しい人間に見られるとひどい茶番をしている気になって、やる気が失せてしまう。しかし、それでも多忙の合間に時間を作って恋文を考えるくらいには、彼女のことを気に入っていた。平素は慎ましく文などを交わし合い、ときどき得られた数少ない休日に誘い出して、薔薇園の美しいテラスで茶を飲み、観劇をする。控えめで、気立てがよく、令嬢にありがちな気位の高さもない。

 彼女をいずれ奥さんにするのもよいのかもしれない、と考えたりする。

 自分には異国から連れてきた養女がおり、母親の役割をする女が必要なのではないかと、ちょうど思い始めていた。リユンはたいてい深夜過ぎでなければ家に帰ることができなかったし、戦になれば半年や一年、留守にすることだってある。口には決して出さないが、小さな娘が本当はとてもさみしがりであるのをリユンは知っていた。


「ただいま、ブランカ」


 ドアを開けると軽やかな足音がして、「おかえりなさい」とワンピースにリネンのエプロンをかけた少女が顔を出す。いつもより早くに帰ってきたのがうれしかったのか、少し弾んだ様子で迎えてくれた少女が愛らしく、小さな身体を捕まえて抱き上げてしまう。


「ニコさん、ゲンキだった?」

「え? ああ――いつもどおりかな。……次はキミも一緒に行く?」

「うん」


 今日の逢瀬の相手はくだんの令嬢だったが、ブランカには先月官舎から引っ越した副官のニコルの家に行く、と言って出た。どうして無意味にそんな嘘をついたのか、リユン自身も判然としなかったけれど、何故だか恋人の話をすると、この多感な少女が傷つく気がしたのだ。


「ブランカさん、今日のごはんはなぁに?」


 ちくりと胸を刺した棘を紛らわせるように、抱き締めた少女といつものごはん当て遊びをする。ええとね、と指を折る少女の横顔はあどけない。


「にんじんと、おいもと……、あとミルク」

「わかった、ブランカさん特製のミルクシチューでしょう。あたり?」

「あたり」


 そっとささめきごとをするように耳元で囁いた少女に微笑んで、リビングのドアを開ける。ふと寒いな、と感じたのは室内に紗がかる灰色の気配のせいだろうか。キッチンには鍋が用意され、長卓にはきれいに盛り付けられたサラダ、暖炉の前のソファには綻びを縫い合わせる途中のクロスと、飲みかけのマグカップが置いてある。ここで少女が一日を過ごした痕跡だった。


(……そうか、ひとりで)


 リユンがいなければ、当たり前だった。

 彼女に他に甘えられる相手はいない。


「リユンものむ?」


 マグカップを指してブランカが言った。そうだね、とうなずけば、ミルクを温め、蜂蜜をひと匙加えたものを作ってくれる。きつく上まで留めていたシャツの釦を外し、ソファに沈み込んだ彼の隣に、彼女もちょこんと腰掛けた。ほのかに甘くしたミルクは、薔薇園のテラスで飲んだ異国の茶よりも、ずっとたやすく身体を温めてくれる。


「ブランカ、口のところ」


 彼女の口端が切れて赤くなってしまっていることに気付き、リユンはミルクを味付けしたときの蜂蜜のビンを引き寄せた。不思議そうに睫毛を揺らした少女の唇に、琥珀の蜜を挿してやる。手ごろな軟膏がなかったので、思いついたのだ。彼女はただリユンの指先を見ていたが、そのうち淡く頬を染めて、くすぐったそうにきゅうと眉根を寄せた。咲き初めの花が震えるような。


(まったくなんて顔をするんだろう、この子は)


 不意に心をさらわれてしまった気がして、彼は苦笑をこぼす。

 本当に不思議なのだけど。彼女がわらっただけで、令嬢とそつなく過ごしたと思っていた時間も、薔薇の香りも茶の味も観劇の内容も、何もかもが色褪せてしまう。どんな女を喜ばせるより、彼はこの少女の笑顔こそを望んでいるにちがいなかった。


「次のお休みは、どこへゆこうかブランカさん」


 小さな身体を膝の上へと抱き上げて、淡く染まった頬へ恋人にそうするように頬を擦る。頭の片端で令嬢への断り文句を考えながら、彼はとびきり甘やかす声音で少女の耳元へと囁いた。

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