Extra Track 06 恋する郵便屋さん

 エスペリア軍官舎・東棟の302号室。

 ぼくが302号室の「お嬢さん」に出会ったのは、彼女がまだ国立学校の学生さんである頃だった。ぼくの仕事はいたって単純だ。早朝、街の集積所に集められた郵便のうち自分の担当するぶんを受け取って、正午までに各戸に配達する。軍官舎の住人宛ての郵便は、一階の集合ポストに入れるので、普段住人と顔を合わせることはないのだけれど、その日に限っては、赤い毛織のマフラーを巻いた「お嬢さん」が大きな紙袋を腕に抱えて、ちょうどぼくの前に現れたのだった。


「ありがとう、ございます」


 言葉が少しつたなく感じた理由はあとになってわかった。彼女は十歳になるまでエディルフォーレで育ったエディルフォーレ人だったのだ。けれどそのときはそれよりも、別のものに目を取られしまった。ふわっと控えめに微笑む可憐な姿。ぼくの長い恋のはじまりだった。


 302号室に彼女と住んでいる同居人は長い間、謎のひとつだった。

 最初は両親と暮らしているものだと当然のようにぼくも考えていたのだけれど、女の子の部屋からそれらしい男女が現れることは一度だってなかった。そのくせ、女の子は、見ているこちらが思わず手を差し伸べたくなるほど、たくさんの食材を抱えて帰ってくる。ぱんぱんに膨らんだ紙袋を大事にそうに抱えて階段をのぼる女の子はいつだって幸福そうだった。たぶん、一緒に暮らす家族を深くあいしているのだろう。

 手紙をポストに入れる毎日。

 ぼくはときどき、女の子を目にした。女の子はたいていは幸福そうで、星のかたちの髪飾りにいとおしげに触れていたり、難しげな問題集を抱えてしかめ面をしていたり、それからある日は、くるんとダンスで踊るときみたいなステップを踏んでいたりして――ぼくが瞬きをすると、恥ずかしそうに目を伏せた。


「ありがとうございます」


 けれど、どんなときだって手紙を運ぶぼくへのお礼だけは決して欠かさない。


『聖メイティル附属病院試験結果』


 そう印字された角封筒を届けたのは、ぼくが女の子の姿を見かけて数年が経った頃だった。ぼくは郵便屋の心得として、配達物の宛名以外は見ないようにしているのだけれど、それを受け取った女の子の顔がみるみる蒼白になったので、思わず確認してしまったのだった。女の子はありがとうございます、の一言を初めて言わなかった。角封筒を胸に抱き締め、おぼつかない足取りで階段をのぼっていく。

 角封筒を届けてから、女の子の顔色は目に見えて冴えなくなった。俯き加減で歩くことが多くなり、横顔にはたやすく声をかけることをためらう苦悩が浮かんでいる。手紙を届けるぼくも心配になった。そして、未だに一向に姿を見せない同居人への苛立ちが増す。こんな顔をこの子にさせて、いったいどこで何をしているんだろうと八つ当たりめいた感情を抱くようになる。ぼくこそ、ただの郵便屋に過ぎないというのに。


「いつもありがとうございます」


 女の子のお礼がいつもとちょっとだけ違っていたのは、そんなある日のことだった。女の子はやはり顔色が悪かったけれど、どこか雨上がりのあとのようなすっきりした表情をしていた。


「あしたからハイネスに行くんです」


 ぼくは手紙を持ったまま、瞬きをする。女の子が自分から話してきたのも初めてのことだった。


「これからもお手紙の配達、おねがいしますね」


 女の子は律儀に頭を下げると、とりあえずこっくりうなずいたぼくに微笑みかけて、階段をのぼっていった。

 それから、三年間。女の子は軍官舎・東棟302号室から姿を消した。

 けれど、ぼくの一日は変わらない。早朝に街の集積所に向かい、受け取った担当地区の手紙をポストにひとつひとつ入れていく。ただ、302号室のポストに関してはひとつの変化が起こった。配達物がポストにたまり始めたのだ。彼女の同居人はどうやら非常に多忙か、怠惰なひとであるらしい。小さなポストはすぐに満杯になり、はみ出した配達物が床に落ちそうになったのを憐れに思い、ぼくは紙袋に配達物を詰めて、302号室のノブにかけておいた。勝手なことをして叱られるだろうか、むしろ同居人とやらは本当にいるのだろうか。心配になったけれど、予想に反して翌朝には紙袋はドアノブからなくなっていた。

 同居人はどうやら、ポスト、という存在にそれで初めて気付いたようだ。

 女の子がいたときに比べたら、数日放置されていることもたびたびあったけれど、以降郵便がポストからこぼれ落ちるくらい満杯になることはなくなった。

 とある雪の朝のことだ。

 手を擦りながら、歩いてきたぼくは偶然、遠目に彼女の同居人の姿を見た。思ったよりもずっと若い男がちょうど302号室のポストの前に立っていたのだった。男の手にはきのうぼくが届けた彼女からの手紙が握られていた。その横顔によぎった、どうしようもないさみしさに気付いたのは、たぶんぼくだけだったはずだ。雪の降るとても静かな日で、たぶんこの世界でぼくだけがさみしそうな男を見ていた。

 男を見たのはその一度きりで、しばらくすると、エディルフォーレの侵攻で勃発した戦乱がエスペリアを襲い、軍官舎に住む軍人たちの多くが戦地に出て行った。女の子は戻ることなく、男もまた帰らなくなり、302号室の配達物はほどなくぷっつりと完全に途絶えた。

 それでも、郵便屋であるぼくの毎日は変わらない。集積所に向かい、担当地区の郵便を受け取り、それぞれの家のポストに届けながら、ああ今日も302号室への届けものはなかったな、と思い出しては少し切ない気持ちになる。それすらも流れる日々の中では徐々にまばらになり、女の子がいたこともさみしそうな男がいたことも忘れそうになった頃――、再び、302号室に郵便が届いた。


「ありがとうございます」


 懐かしい声だ。

 髪を肩ほどまで切った、あの女の子だった。ポストから小さな封筒を取り出した女の子は、ニナ、と小さな声で呟き、うれしそうに目を細めた。女の子、といっても、彼女はもう十八歳くらいのうつくしい女性で、背もあの頃よりずいぶん伸びた。ぼくは頬を染めて、おどおどとうなずいた。帰っていたんですね。ハイネスから無事に帰ってきたんですね。言葉はひとつもかたちにならないまま、喉奥に絡まって消える。

 王都に戻ってきた彼女はまた毎日、ポストに手紙を取りに来るようになった。おはようございます。ありがとうございます。短いやり取りを繰り返しながら、ぼくは決意を胸に固める。また彼女がどこかへいなくなってしまう前に、この気持ちを伝えようと。

 そして、やってきた休日。花屋でいっとう大きく咲き綻んだ花を買うと、ぼくはネクタイを締め、302号室のポスト――ではなく、階段をのぼり、扉の前に立った。思えば、この扉の前に立ったのは、さみしげな顔をした怠惰な同居人に手紙を届けたときぶりだ。ぼくは緊張で飛び出しそうな心臓をなんとか鎮め、呼び鈴に手を伸ばす。背後に影が射していたことには、だから気付かなかった。


「うちに御用ですか?」


 固まって振り返ると、あのさみしげな顔をしていた男が今日はにこやかだけれど、恐ろしい形相でそこに立っていた。

 

 ぼくの一世一代の告白は未然に阻止された。

 あのあと、男を迎えた彼女にぼくのかわいそうな花たちは押し付けるかたちでお嫁にいったけれど、肝心のぼくの気持ちは言わずじまいになってしまった。しょぼくれながらも、ぼくは毎日の配達を続ける。一通一通の郵便にこめられた想いをひとつもこぼすことなく届けることがぼくの仕事であるから。


「こんにちは」


 軍官舎の集合ポストに郵便を入れ終えて足を返そうとしたぼくに、外套を着た彼女が声をかけた。ちょうど外出しようとしていたところだったらしい。その腕に抱えられた紙袋を見て、ぼくは瞬きをする。紙袋には今にも溢れそうなほどの手紙が入っていたのだった。ぼくの視線に気付いたらしい彼女がはにかむように微笑む。


「招待状なんです、結婚式の」


 だれのですか、とぼくは聞かなかった。

 ほころんだ彼女の横顔を見ていたら、自然と知れてしまったから。かつて、たくさんの食材で膨らんだ紙袋を抱えて幸福そうに階段をのぼっていた彼女。長い道のりの果てに、彼女はその幸福を自らの手でつかんだのだ。


「おめでとう、ございます」


 微笑んだぼくに、彼女もまたわらった。


「ありがとうございます」


 いつもと同じ言葉はやわらかな光に包まれている。

 ぼくの胸にもそっとひとつ灯りがともされたようだった。

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