Episode , “Good-bye My Daddy” 4

 しばらくして帰ってきたシンシアさんに、さらにはエルンさん、エネさんまで加わってワルツのステップやターンを教えてもらい、暁鐘が鳴る頃、わたしはサイ家のお屋敷をあとにした。送ろう、とエルンさんは言ってくれたけれど、サイ家の前に止まる馬車を指差して申し出られてはどうにも恐縮してしまう。官舎の前にこんな豪奢な馬車が止まっては、きっと門衛さんにも何事だと思われるにちがいない。

 やんわり辞退を申し出ると、エルンさんは残念そうな顔をしたものの、おみやげにわたしがおいしいと言った茶葉を山ほど持たせてくれた。


 日はもうずいぶん傾いている。残照で赤い濃淡に染まった石畳を、わたしはエネさんが弾いてくれた優雅なワルツや、相手役を買って出てくれたエルンさんの、ちょっと不器用なステップを脳裏に描きながら軽やかに歩いた。今日の晩ごはんについては昨晩のうちに鶏肉とトマトのスープを作っておいたので、問題はないだろう。ひとつ、バジルの葉を切らしていたことを思い出して、ラフトおじさんの雑貨屋さんに寄り、ついでに数種のハーブも買って店を出る。


「ブーランカさん」


 ひやりとした手のひらに背後から両目を覆われたのは、店のベルの残響が消ええぬさなかだった。びっくりして、わたしは小さな悲鳴を上げてしまう。すると、くすくすと微笑う気配が背中越しに伝わり、だれでしょう、とわたしの頭を抱え込むようにして男のひとが言った。わたしは覆われた手の下で瞬きをし、リユン、と少し呆れて呟く。


「正解。買い物してたの?」

「ハーブを切らしていたから」


 目元から緩やかに手が解かれる。顔を上げると、思ったとおりの男のひとが落日の光を頬に受けながら、悪戯めいた顔で笑っていた。


「おしごと、もう終わったの?」

「明日の朝が早いから、そのぶんね。せっかくだから、散歩して帰る?」


 リユンはそう言って、わたしの手から買い物袋を取り上げた。手持ち無沙汰になったのを肩掛け鞄のベルトを握ることで紛らわせ、わたしは歩き出す。

 落日のエスペリアの街は彩りが薄く、いつもよりどこか寂れたかんじがする。暁鐘の余韻へぼんやり耳を傾けながら、わたしはリラの花に目を細めている男のひとの横顔をときどきうかがった。


「ブランカ」


 公園の前を通るとき、ふと思いついたようにリユンがわたしを呼んだ。柵をくぐると、白い花を咲かせた林檎の樹の下で、クレープ売りのおじいさんが卵を溶いている。甘やかな卵と砂糖の香りに誘われて、わたしの視線は知らずおじいさんの手元に引き寄せられてしまう。かたわらでリユンが小さく笑い、おじいさんにふたつクレープを頼んだ。

 わたしは同世代の少女たちに比べると表情がわかりにくく、言葉数も少ない。それなのにリユンは魔法みたいにわたしの思うことや欲しいものがわかってしまうようだった。木苺のジャムとバターを包んだ焼き立てのクレープを渡されて、ありがとう、とわたしはお礼を言う。

 林檎の花の下のベンチに並んで座って、リユンにもらったクレープをそっとかじった。甘酸っぱい木苺のジャムとバターとそれを包む生地とが舌先に溶ける。


「おいしい?」


 素朴な味わいに胸をきゅうんとさせていると、それを見ていたリユンが尋ねた。わたしはクレープを咀嚼しながら首だけを振る。


「ブランカ、口のとこ」


 不意に伸びた指先が頬のあたりを滑った。口端についてしまっていたらしい木苺のジャムをすくって、指先はいとしげに唇のふちをなぞる。彼がわたしを見る目は優しい。胸が苦しくなるくらいにいつも。頬がふわふわと染まってゆくのがわかって、「えるんさん、」と気付けば別のことを口にしていた。


「エルンさんに、会ったの」

「……兄さんに?」

「ドレスのことで、シンシアさんとサイ家に行って、偶然」


 ワルツの部分はリユンには言いたくなかったので、少しだけ嘘をつきながらわたしは説明をする。エルンさんと交わした話を思い出し、隣に座る男のひとを仰いだ。


「リユンは、どうしてサイ家をでてしまったの?」


 逡巡の末、わたしは思い切って尋ねた。


「エルン兄さんが言ってたの?」


 尋ねたリユンにわたしは首を振る。エルンさんはリユンが家を出たのは自分のせいだと言っていたけれど、それ以上の詳しい話はしていない。それに、あの生真面目で愛情に溢れたひとが理由もなしに弟を追い出すようにも思えなかった。きっとエルンさんは何か、思い違いをしているのだ。

 わたしの隠しきれない必死さが伝わってしまったのだろうか。リユンはうーん、と思案げに眉根を寄せる。


「……あまり楽しい話じゃないんだけど、それでもいい?」


 エルンさんと似た苦笑混じりの表情をして、リユンは口を開いた。


「僕の上にふたり兄さんがいるのは話してたっけ?」

「エルンさんとイアンさん?」

「そう。イアン兄さんは五つ年上。エルン兄さんは八つもちがう。ちょうどキミにとっての僕みたいなものかな。兄というか、父親みたいなひとだった」


 ――「父親」。言葉の端に胸がちくんと痛んだが、わたしは構わず相槌を打った。


「歳が離れているぶん、エルン兄さんもとても僕を可愛がってくれた。下の兄と違って引っ込み思案で喘息持ちだった僕に、最初に本を与えてくれたのはエルン兄さんだったし、文字や数字の世界を教えてくれたのもエルン兄さんだった。だけどもね、ブランカ。僕は、……うん。僕はね。その頃、兄さんが教えてくれることを兄さんが考えるよりずっと早くに理解してしまったんだよ」


 何故だか少しばつが悪そうにリユンは言った。


「幼い頃の僕といったら、一言目にはナゼ?、二言目もドウシテ? そればっかりだった。セカイは不思議でいっぱいで、月が一個なのも丸いのも毎日違う時間に昇るのもときどき色が違って見えるのも疑問だらけだった。そのうち兄さんじゃ手に負えなくなって、兄さんの家庭教師に余った時間勉強をみてもらうようになった」


 そのひとの話は面白かった、とリユンは回想する。

 昔王都の大学で教鞭をとっていたから、もしかしたらえらい学者さんだったのかもしれない。幼いリユンはエルンさんが与えられた数式に頭を悩ませるかたわらで同じ数式を解き、いつまでたっても答えが出せないエルンさんにこっそり答えを教えてあげていたのだという。


「僕は常に『そう』だった。たとえば、兄さんや街の子たちと戦争ごっこをやる。皆が取っ組み合いの喧嘩をしている中で、落とし穴を作っているのが僕。それをこっそり兄さんに教えて、敵陣の子どもたちを草で覆ってわかりにくくした穴に落とす。僕がいる兄さんのチームはいつも負けなしだった。ときどき僕が寝込むと、兄さんたちはたちまち街の子に負けてしまう。そして、やっぱりリユンがいなきゃって言ってくれる。それが、身体が弱くて引っ込み思案だった僕の一個きりの自慢だったよ」


 目を閉じて想像する。幼い、身体の弱い少年がベッドから窓の外を眺めている。まぶしそうに、少し寂しげに。彼はきっと繊細で感受性の豊かな少年であったに違いない。


「その頃は楽しくやれてたんだけど、兄さんが十代の後半を過ぎたくらいかな。さっきの家庭教師の先生が兄さんではなく僕を連れて大学にゆきたいと言い出した」


 確かに、机の上で理論を転がす能力なら、エルン兄さんより自分が優れていたのかもしれない、とリユンは呟く。だけど、彼にしてみれば、それはたくさんある能力のほんのひとつに過ぎなかった。エルンさんは勉強は不得手だったけど、いつも街の子たちの中心にいて、ひとの心を開かせるのもとびきりうまかったのだ。そんなエルンさんをリユンは尊敬していたのだという。


「けれども、そのときの兄さんは憔悴して、口数も減ってしまった。兄さんにしてみれば、歳の離れた弟に先生をとられてしまったんだもの。兄さんは僕を褒めてくれたけど、その顔が引きつっているのが僕にはよくわかった。そして、ある日」


 リユンは一度言葉を切り、また続けた。


「初めて雪の降った寒い日だった。先生の馬車の音を聞きつけた僕は二階の奥の兄さんの部屋に向かった。扉がほんの少しだけ開いてた。予感みたいなものに駆られて中をのぞくと、兄さんがいつものように鉛筆を削ってた。ナイフを動かす規則正しい音がしていてね、ふと音がやんだ。兄さんはナイフを見ていた。思い詰めた表情で、ナイフの刃を手首に持っていった。数秒。沈黙があって、兄さんはまた元通りの顔をして鉛筆を削りだした。にいさん、って僕が呼んだら、ナイフを置いていつものように笑ってくれた。――僕はそのときこの家を出ようって決めた」


 遠くへ馳せていた視線がわたしのほうへと戻る。


「別に軍人になりたかったわけでもないんだけど、あのとき寄宿舎がついて、生活するぶんのお金も稼げそうな職業がそれだった。幸いにも向いていたのかも。上官にも部下にも恵まれたし、陛下やキミにも出会えたからね」


 そこまで話してから、ふと真顔に戻って、「……エルン兄さん、何か言ってた?」と緊張した面持ちでわたしをうかがう。


「顔、ときどき見せてって」

「ええ、そんなこと言ってたの?」


 先ほどエルンさんから言われた言葉をそのまま伝えると、リユンはとたんに苦い表情をする。


「……会いたいんだけどね、兄さんには。ただ、なかなか勇気が出なくてねー……。家出てくとき、兄さんといっぱい喧嘩して、僕も子どもだったから今思い返すと目もあてられないような暴言をたくさん吐いちゃって、うーん。悪いの僕なんだけど、だから余計に気まずいというかさ」


 彼らしくもない言い訳がましい物言いを連ね、リユンはとても難しい問題に直面したみたいに眉間にきつい縦皺を寄せた。それがなんだか叱られる前の子どもみたいな表情で、わたしはおかしくなってしまう。

 眦を緩めて、男のひとの浅くうなだれた頭に触れた。思いついて、さわさわとつたなく撫でていると、彼は瞬きをして、わたしのほうを見た。

 ああ、まだ縦皺のあとが残ってる。不器用な子どもみたいな縦皺。見つけたわたしが淡く微笑をこぼすと、またキミはそういう顔をする、と彼はひとり拗ねたようにごちた。


「そういう顔?」

「僕の知らないブランカさんだよ」


 そう呟く彼はどことなくつまらなそうだ。

 だって、思ったよりもずっと優しいはなしだったから。もっと悲しくて、つらいはなしかもしれないと思っていたけれど、リユンが語るエルンさんは生真面目で、繊細で、愛情深いひとで、わたしが会って話したエルンさんとおんなじだった。不幸な話でも、悲壮な話でもなかった。だってそれは、子どもだったリユンが悲しい結末にならないように必死に守りぬいたものだったから。彼は、かつてのわたしと同じ歳のとき、ひとりあいする家を去ったのだ。

 思うと、微笑む合間から、胸が痛くなってしまってわたしは俯いた。急にこみ上げてきた涙をこらえて、眉根を寄せる。


「ブランカ」


 違和に気付いたらしい彼がわたしを呼んだ。

 困った風に微笑い、だから、そんな顔しないで、と。頬にひんやりした手の甲が触れた。上気した頬をあやす手のひらにわたしはそっと手のひらを重ねる。大きな手のひらはわたしの小さな手ではとても包み込むことができない。だから両手で包んだ。冷たくなった彼の手が少しでも温まるよう。

 わたしが出会ったのは大人のリユンで、家を出たばかりの小さな少年とは会うことができなかったけれど、だけどそれでも。叶うなら、抱き締めてあげたかった。がんばったねって、抱き締めて、彼の赤く腫らした目に手をあててあげたい。


「キミは、すごいよ。メーヨーの嘘に気付けたの、実はキミだけだよ」


 忘れたような昔の話を持ち出して、彼は絡ませた灰の髪へといとしげに指を滑らせた。あたりは徐々に翳り、彼の指先も宵の群青に染まりつつある。暁鐘が響いた。迫る時を告げるように、刻限を示すように。けれど、わたしは未だあいするひとに、わたしの話を告げられずにいる。

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