私は午前午後と詰め込んでいたバイトを終え、帰路きろについていた。

 予定の時間よりバイトが終わるのが遅くなってしまい、電車に乗った時点で時刻はすでに夜の八時半になろうとしていた。

 昨日彼女が現れた時間までに家に帰れそうにないなと思ったが、別に昨日少女が指定した時刻に帰る必要もないじゃないか、私は何を期待しているんだ馬鹿らしくなった。

 たまにはのんびり帰ってみてもいいかもしれない。


 その時、丁度電車が止まり、ぷしゅうとエアーの抜ける音がして、扉が開いた。同じ駅で降りる人は少なく、私の他に五人程しかいなかった。

 ホームの階段を下りてコンコースに着くと改札機の上にある時計が目に入った。

 時刻は八時五〇分。

 昨日少女が現れた時間だ。

 今頃少女は私の家の玄関をノックしている事だろう。そこに私はいないのに。そう思うと少し面白くなって、ふふっと笑った。


「何笑ってるの?」


 若い女性というよりは少女のようなかわいらしい声。

 私は声のした方に目を向けた。

 そこには一人の女性が立っていた。

 少女のようなかわいらしい声とは裏腹に、大人びた表情をした女性。

 昨日、私の家のドアをノックして「今の生活に満足している?」と問うてきた、あの女性だと確信した。それは直感的なものであって、決して証拠がある訳ではない。

 しかし、その雰囲気だろうか、醸し出す空気感だろうか、言葉では表せないが、妙な迫力のようなものから、きっと昨日の彼女なのだろうと確信したのだ。


 私はどう答えるべきか迷った。

 長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いている目には強い目力があり、その視線から私は目を逸らす事が出来ず、どぅっくどぅっくとうるさい心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ始めて、自分が緊張している事に気付いた時、彼女が再び口を開いた。


「聞こえてますよね? あなたに言ってるんですけど」


 少し不満そうな顔で、唇をとがらすように、こちらを上目遣いに見てくる姿がかわいらしくて私の緊張は一気にやわらいだ。

「ごめんなさい、何か御用?」

 なるべく笑顔で答えたつもりだが、普段から愛想が良い方ではないので、上手に笑顔を作れているかどうかは分からない。

「まあね」彼女は再び大人びた顔に戻り、続ける。

「昨日の質問の答えを聞きにきたの」


 今朝サイトで見た、パラレルワールドへの誘い人の事を私は思い出し、彼女をそれと見立ててみた。

 彼女のような人物が果たしてパラレルワールドの住人なのだろうか?

 別段変わったところがあるようには思えない。

 しかし私はなんとなくネットの情報を信じてみるかと思った。いや、信じてみるじゃない。信じてみたいと思った。


 兄の事が頭を過ぎる。

 もしあの時の兄を拒絶きょぜつしていなければ、今も私と兄の関係は良好であって、失踪などせずに二人で笑いあっていたかもしれない。

 今でも夢見るそんな世界。

 パラレルワールドがもしあるのなら。

 私がそちらの世界に行けるのなら。

 オカルトのような話で、誰も信じないような子供騙しのような話。

 ここ以外の世界があるのならば、この瞬間を無下にするべきではないだろう。


 私の答えは決まった。


 自らの答えを深く理解する確認の意味も込めて一度小さく頷いた。

 そんな姿を彼女は見逃さない。

「何を一人納得しているの?」そう言うと怪訝けげんそうな顔をしてみせたが、彼女は私の返事を聞かないまま続けた。

「まあいいわ。もう決めた? 昨日の質問の答え。なにか気になる事とかあったら、質問してくれたら答えるけど」


 質問か。

 ここは「今の生活に満足していない」と答えてパラレルワールドにさっさと連れていってもらうべきだろうか。

 そう考えていると、私の視線に彼女の靴が飛び込んできた。奇抜なデザインの靴。


 深く、深く、印象に残ったあの青の靴。


 私はあの靴がなんという靴なのか知りたくなった。

 彼女がふざけてパラレルワールドの誘い人の真似事をしていようが、本当のパラレルワールドへの誘い人であろうが、ただの変な人であろうが――とはいっても私の中ではもう彼女は本物だと思っているけれど――「今の生活に満足していない」と答えるつもりなので、その前に素直に気になった事を聞いてみるのも一興いっきょうだろう。

 このつまらない世界で私は言った。


「昨日、見た時から思ってたけど、その靴、かっこいいね。なんて靴なの?」

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