六
私は午前午後と詰め込んでいたバイトを終え、
予定の時間よりバイトが終わるのが遅くなってしまい、電車に乗った時点で時刻はすでに夜の八時半になろうとしていた。
昨日彼女が現れた時間までに家に帰れそうにないなと思ったが、別に昨日少女が指定した時刻に帰る必要もないじゃないか、私は何を期待しているんだ馬鹿らしくなった。
たまにはのんびり帰ってみてもいいかもしれない。
その時、丁度電車が止まり、ぷしゅうとエアーの抜ける音がして、扉が開いた。同じ駅で降りる人は少なく、私の他に五人程しかいなかった。
ホームの階段を下りてコンコースに着くと改札機の上にある時計が目に入った。
時刻は八時五〇分。
昨日少女が現れた時間だ。
今頃少女は私の家の玄関をノックしている事だろう。そこに私はいないのに。そう思うと少し面白くなって、ふふっと笑った。
「何笑ってるの?」
若い女性というよりは少女のようなかわいらしい声。
私は声のした方に目を向けた。
そこには一人の女性が立っていた。
少女のようなかわいらしい声とは裏腹に、大人びた表情をした女性。
昨日、私の家のドアをノックして「今の生活に満足している?」と問うてきた、あの女性だと確信した。それは直感的なものであって、決して証拠がある訳ではない。
しかし、その雰囲気だろうか、醸し出す空気感だろうか、言葉では表せないが、妙な迫力のようなものから、きっと昨日の彼女なのだろうと確信したのだ。
私はどう答えるべきか迷った。
長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いている目には強い目力があり、その視線から私は目を逸らす事が出来ず、どぅっくどぅっくと
「聞こえてますよね? あなたに言ってるんですけど」
少し不満そうな顔で、唇を
「ごめんなさい、何か御用?」
なるべく笑顔で答えたつもりだが、普段から愛想が良い方ではないので、上手に笑顔を作れているかどうかは分からない。
「まあね」彼女は再び大人びた顔に戻り、続ける。
「昨日の質問の答えを聞きにきたの」
今朝サイトで見た、パラレルワールドへの誘い人の事を私は思い出し、彼女をそれと見立ててみた。
彼女のような人物が果たしてパラレルワールドの住人なのだろうか?
別段変わったところがあるようには思えない。
しかし私はなんとなくネットの情報を信じてみるかと思った。いや、信じてみるじゃない。信じてみたいと思った。
兄の事が頭を過ぎる。
もしあの時の兄を
今でも夢見るそんな世界。
パラレルワールドがもしあるのなら。
私がそちらの世界に行けるのなら。
オカルトのような話で、誰も信じないような子供騙しのような話。
ここ以外の世界があるのならば、この瞬間を無下にするべきではないだろう。
私の答えは決まった。
自らの答えを深く理解する確認の意味も込めて一度小さく頷いた。
そんな姿を彼女は見逃さない。
「何を一人納得しているの?」そう言うと
「まあいいわ。もう決めた? 昨日の質問の答え。なにか気になる事とかあったら、質問してくれたら答えるけど」
質問か。
ここは「今の生活に満足していない」と答えてパラレルワールドにさっさと連れていってもらうべきだろうか。
そう考えていると、私の視線に彼女の靴が飛び込んできた。奇抜なデザインの靴。
深く、深く、印象に残ったあの青の靴。
私はあの靴がなんという靴なのか知りたくなった。
彼女がふざけてパラレルワールドの誘い人の真似事をしていようが、本当のパラレルワールドへの誘い人であろうが、ただの変な人であろうが――とはいっても私の中ではもう彼女は本物だと思っているけれど――「今の生活に満足していない」と答えるつもりなので、その前に素直に気になった事を聞いてみるのも
このつまらない世界で私は言った。
「昨日、見た時から思ってたけど、その靴、かっこいいね。なんて靴なの?」
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