two

 机の下の隙間から見えるのは、前の机の、そしてそのまた前に続く机の下の隙間と、掃除の手が行き届いていない床だけのはずだった。


 しかし、二つ前の机のその隙間の奥に、黒いアウトソールに白のミッドソール。

 アッパー部分は目に飛び込んでくるようなどぎつい赤で、サイドに白で縁取りされた印象的だが他の多くのモデルに比べると少し小さいアルファベットのNの文字と、一五〇〇という数字が付いていて、その丁度中間地点からつまさき方向に進みシューホールの一番つま先側付近でほぼ九十度に曲がった黒いラインが入った靴。ニューバランスの一五〇〇が見えた。


 見えたのが靴だけならよかったのだがその靴は誰かが履いているものだった。

 もうこのオフィスには僕しかいないはずなのに。

 背中の表面を汗がつるりと流れ落ちる感覚が、恐ろしいほど鋭敏えいびんに肌の神経を刺激する。


 ここからすぐに逃げた方がいいのか?

 それともこういう場合は気付かない風を装った方がいいのか?

 もしくはこの人間が誰か確認した方がいいのか?

 もしかすると人間じゃなくて幽霊なのか?


 どうしたものかと思い悩んでいると、ニューバランスの一五〇〇のつま先がこちらを向いた。

「今の生活に満足している?」若い女性というよりは少女のようなかわいらしい声は続ける。

「明日、また、同じ時間に来るから、考えておいてね」

 僕の答えなんて最初から聞く気がなかったみたいに、ニューバランスの一五〇〇は向きを変える。


「ちょっと待って」


 部屋に大きな音が響く。

 急いで机から抜け出ようとしたせいで、後頭部をしたたかに打ち付けた。

 視界がぼやけるくらいの勢いで打ち付けた為、目に涙が溜まったがなんとか机から抜け出し、先程まで声の主がいた場所に視線を向ける。だが、すでにそこには誰もいなかった。

 彼女が立っていた場所に移動してみたが、そこには彼女の気配を感じるものは何もなかった。


 僕は夢を見ているのかもしれない。


 そう思い、ベタではあるがほおをつねってみる。

 さきほど後頭部を机に打ち付けた程ではないが、痛みがぎゅるりと熱をもって伝わってくる。というより、さっき頭を打ち付けた時に痛みは感じていたんだから、その時点で夢ではなかったと気付くべきだった。

 無駄に痛い思いをしただけじゃないか。

 そんなことを考えている内に緊張感が薄れてきたのか、彼女の声をもう忘れそうになっていた。


 本当についさっきの出来事だというのに彼女の存在はとても希薄きはくで、意識していなければすぐに忘れてしまうような夢の住人であるような気がした。

 いい大人が何を言っているんだと笑われるかもしれないが、彼女を見たらきっとすべての人がそう思うはずだ。

 そうは言っても、僕が見たのは彼女が履いていた靴、ニューバランスの一五〇〇だけなのだけど。

 壁に掛けられた時計の短針と長針は九の上でちょうど重なっていた。

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