第二話 赤

one

 壁に掛けられた時計の短針は九の少し前で、長針は七を指している。


「先輩」


 新入社員のひかるがどすっと無神経な程大きな音を立て、椅子に反対向きに腰かけて話しかけてきた。

「俺ら、何の為に毎日頑張って仕事とかしてるんですかね? 毎日残業、毎週休日出勤、もう溜息も出ないですよ」

 そういいながら溜息をく光を見て、ふっと笑ってしまう僕はまだまだ余裕があるのだろう。それに笑うと少し疲れがやわらいだような気もする。

「溜息、しっかり吐いてるよ。残りやっとくから今日はもう帰って、ゆっくり家で休みな」


 光の疲れ切った顔を見ていると、社会人としてこれから頑張って仕事をやっていこうとしている、高校を卒業したばかりの未来に期待や希望を抱いている、将来の日本をになう人材になるであろう若き芽を、そっと優しく保護するビニールハウスの役割は、未来に何の期待も希望も抱いていない僕のような人間が担うべきなのだろう。

 なんて格好をつけてみたものの、本当はただ残業代が欲しいだけなのだけど。


「それじゃあ、お言葉に甘えて。お先に失礼します」

 最近の若い子に見られる傾向なのかもしれないが、自分に都合の悪いことには難色なんしょくを示し自分に都合のいいことは素直に受け止める。

 僕達の時代では考えられない事だが、その愚直さというか、利益率を純粋に求めたスタイルは嫌いじゃない。

 そんなことを考えながら、光がジャケットを羽織はおって鞄を手にもってこちらには一瞥いちべつもくれずにオフィスを後にしたのをぼーっと眺めていた。


「さてと」

 僕はオフィスの入口兼出口である両開きの扉から、自分の机の上に置いたデザイン資料に視線を移す。

 上部に色彩についてと書かれた資料の端にはポストイットが貼ってあり「今回のクライアントは目立つカラーリングをご所望だ」と丁寧ではあるが比較的汚い字で書かれている。


「目立つカラーリングねえ」

 呟きながら資料をぱらぱらとめくり、そんなの原色で決まりだろうと深く考えることもせずに、なんとなく、直感と勢いで決めた。

 その時ぱらぱらと捲っていた資料に色相環しきそうかんが描いてあるのを見付けた。ここにも原色という言葉が書いてあったので、これは直感に従うべきだなと自信を強くした。

 そうと決まれば、今作ったデザインに赤と青と黄色の三色をいい具合に配置すれば仕事が一つ片付く訳だ。


 それならまだまだ時間にも余裕があるなと思い、一旦コーヒーでも入れに行こうと席を立ったら、袖の部分に資料の端が引っ掛かり、ふぁしぱっ。ふぁしぱっさぱ。と何枚も何枚も連なって紙が机の前や下に落ちた。

 面倒だが仕事で使う資料だから拾わないわけにもいかない。やれやれと思いながらしゃがんで、机の奥の方に入り込んだ資料に伸ばした僕の手が止まった。

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