seis
井上に別れを告げた直後、彼女は俺の手を握って言った。
「どうして、そんな事言うの? 私はあなたといたいのに」
井上はしつこく俺に付き
「俺はお前無しでもやっていける。お前といると俺はおかしくなる」
井上は諦めなかった。
「そんな事ないよ。だって、あなたは私の」
「しつこいよ、お前」
井上はまだ諦めない。
「何が嫌なの? 料理だって勉強したし、あなたの好きなものは全部調べて勉強したし、それに」
「そういうところが重いんだよ」
苛々とした鋭利な感情が、俺の理性の糸の繊維を、一本一本、じわりじわり、ぷつぷつと切っていくのを感じる。
井上は俺の気持ちなんて知らずに、俺の手を握るその手にぐっと力を込める。井上の肌の温かさが伝わってくると、理性の糸がぷつりと音を立てて切れるのを認識した。
俺は肌の温かさを
井上の喉の奥から空気と共に恐怖の感情が漏れる音が聞こえ、目からは不安と何が起きたのか状況が分からないといった様子がありありと伝わってくる。
俺は空いている右手で井上の顔を殴る。先程手から伝わってきた温かさとは違い、暴力から発生する痛みの熱が俺の手を温めて、それが気持ちよい。
井上は助けを呼んだりする事もせず、ただただ静かに自身を自身から少し切り離して、痛みに耐えていた。
俺は井上の涙と鼻血が混ざって床に垂れていくのをじっくりと見届ける。
「ごめん、汚れちゃったね」
そう言うと井上は無理をして笑顔を作った。
その演出された
左手の力を
そして、殴る。
右手で。次は腹を。腹に拳が沈んでいく感覚が、井上を壊しているという事実を俺に強く意識させる。
「ごめんなさい。ちゃんと掃除するから」
左手を離す。井上が床にへたり込む。
そして、着ている服の袖口で涙と鼻血と涎と胃液を拭いている。ごめんねごめんねと言いながら。
その光景を何故かスローに感じて、無駄に長い時間その演出された健気さを見せつけられて、俺は完全に井上を壊そうと決めた。
それに気付くよりも早く、身体は動き出していて、もう井上を壊し始めていた。
それも徹底的に。
まず最初に腹を集中的に壊した。
幾度もそこに拳をめり込ませて、その度に壊している実感を感じて、俺を
止まらない。
前に倒れ込もうとする井上の顔を蹴り上げる。
もはや破壊に支配され渾然一体となったこの場所においては、涙と鼻血と涎と胃液とよく分からない体液が混ざったそれすら美しい。
天井と壁に飛んで行ったその液体を眺める余裕すら、今の俺には存在する。
俺は破壊を止めない。
俺が井上を壊すその度に自身を自身から少し切り離していって、そして最後に切り離し過ぎて井上はいなくなった。
目から光が消えて、動かなくなったものがそこにあった。
しばらく様子を眺めてから、俺はそれを風呂場に運んで、キッチンに向かった。
包丁を持って風呂場に戻る。
なぜそうしたのかは分からないが、首より上は置いておこうと思い、最初に包丁をそれの首に突き立てた。
破壊は終わらない。
包丁は
包丁が頸椎に当たって動きを止めた時の感覚が脳裏に蘇る。
俺は何故、今までこの記憶を忘れていたのだろうかと思う程、鮮明で、強烈な記憶が頭の中を渦巻く。
濃厚な血の匂いと、瞳孔が開いたからこそ感じる、
それは客観的に認識すると美しい映像作品の様で、脳内で何度も気に入ったシーンを再生しては巻き戻し、再生しては巻き戻し、脳の中で何度もそれを壊す。
微かに聞こえていた波の音が鼓膜をささやかに包み込み、それが脳内での映像と絡まりあって、俺は美しい映像作品を一本の芸術的映画の
そんな俺の楽しみを邪魔するように、彼女は俺の頭を掴んでいる左手の力を強めて言った。
「一つだけ聞かせて欲しいんだけど。あなた、井上って子となんで付き合ったの?」
何故付き合ったのか。俺は思い出す。井上は。井上とは。
何故だろう?
俺には分からなかった。
「そういう事よ。分かるはずがないの。だってあなたは」彼女はシニカルな表情で俺を眺め言った。
「そんな事より、自らを切り離すなんて、そんなの自ら死んでいくのと同義だと思わない?」
自ら死んでいく事、それは井上を批判して言っているのだと思うのだが、何故俺にそれを問うのか。聞かれている事の真意をはかりかねて、彼女に聞いた。
「どういう意味だよ?」
「今の人生に満足している?」
彼女は俺の質問には答えずに言った。
先程の楽しい気分を邪魔されて、正直気分が悪い。
「まあ満足してはいないな。とりあえず、出してくれよ」
彼女は馬鹿にした様に笑ってから言った。
「あなたには、今のそれがお似合いよ」
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