cinco


 俺の精神はもう崩壊寸前で、前回の波が俺を巻き込んだ時に……


 今俺の頭の中に浮かんだ声の様なものはなんだ?

 前回の波とはいったい何のことを言っているのだ?


 今のは何だ?

 俺の頭の中でもう一つの俺の心の声の様なものが聞こえた気がした。いや、気がしたのではない。

 確実にそれは起こった。事象として、それは起こった。

 いよいよ俺の精神は駄目になってしまったのかもしれない。

 もう一度俺を波が襲う。


 もう一度? 俺は何を言っているのだろう。

 波なんて来ていない。

 確かに波の音がしている――そうだ、これは波の音だ――が、かすかに聞こえる程度の小さな音であって、波に襲われる事なんてあるはずがないのだ。

 改めて耳を波の音に集中させてみるが、やはりその音は遠くの方にあって、俺が今いるこの場所にまで勢いよく水を運んでくる程の勢いがある様にはとてもじゃないが聞こえない。


 いや、実際に波は俺を襲っていて、口の中の水と砂を必死に吐き出している。

 このままだと俺は溺れて死んでしまうだろう。

 右後方の誰かの事もこの頭に直接響く、もう一人の俺の事も分からないまま。


 もう一人の俺だって?

 そんな事はありえない。一体何が起きているというのだろう。

 戸惑いをあらわに、俺は右後方の誰かに言う。

「これもお前の仕業か? いったいどうなってるんだ。答えろよ」

 俺の口の中に入っていた砂のいくつかが、唾と一緒になって飛び散る。

 目の前で水が飛び散ったのを認識した直後、波が再び俺を襲う。

 俺の視界の右端に見えるのは、昨今若者の間でブームになっているスポーツサンダル。

 今そんな事はどうでもいい。

 今そんな事はどうでもいい。


「答えろって言ってんだよ」


 俺の精神はもう崩壊を迎えた。

 俺は波にまれて死んでいく。

 俺は昨日、井上を振ったんだ。

 井上。その名前には聞き覚えがある。そんな気がした。井上。どこのどいつだ。

 水と砂が口の中いっぱいに入り込んで、意図いとせず飲み込んだそれらが食道から肺や胃に流れ込んでくるのを、何故か他人事の様に感じている俺がいる。

 映画やドラマの溺れるシーンでは意識が徐々に遠のいていく様に表現されている事が多いが、実際は恐ろしく苦しくて、むしろ意識は覚醒している。

 俺は身体を無理矢理に地面に埋もれたまま動かすが当然動くはずもなく、苦しんだまま目を見開いて右後方の誰かを、どうにか見ようと首を力いっぱい後ろに回すと頸椎けいつい断末魔だんまつまの叫びをあげた。


「お前、井上か? そうなんだろ?」

 右後方にいる誰か――井上――が立ち上がった。そして俺の正面に回り込む。


 俺が顔を上げると、そこには、誰か――誰か――がいた。


「誰だよ。お前」

「誰だよ。お前」

 長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いた目力のある女が俺を見下ろしている。それもシニカルな表情で。


 履いているのは黒いテバのハリケーンXLT。

 服は白いMHL.の文字が胸ポケットの辺りにプリントされた黒色のTシャツ。

 パンツは少し丈が短い黒色のガウチョパンツ。

 そしてショートヘアだからか浅めで斜めに被っているベレー帽までもが黒い。

 そんなオールブラックの中に、赤い靴下をアクセントとして落とし込んでいるのはなかなかお洒落な印象だ。

 個人的には小物でもう一つ小さなアクセントを付けるか、柄物のオーバーサイズシャツなどでインパクトを付けた服装が好みではあるが世間の流れ的にはシンプルな、このままのスタイルの方が好印象ではないだろうか。


 いや、こんな時に相手の容姿を気にしている場合じゃない。

 俺は――俺は言った――言った。

「もう一人の俺を殺したのはお前か?」

「もう一人の俺ってどういう事だよ」

「うるせえな。お前は黙ってろ」

「はあ? これどういう状況なんだよ」

「だいたい分かるだろ? お前本当に俺かよ」

「何言ってんだよ。俺は俺だし、お前はお前だろ? って言うかお前誰だよ」

「俺はお前だよ」

「なんだよ、頭おかしいぞ、お前」

 更に現れていた、死んだ方じゃない、もう一人の俺が騒々そうぞうしい。

 目の前にいる女が俺の前にしゃがみこんで、左手で頭を掴むと言った。


「井上って誰の事言ってるの?」


 何かが津波の様に勢いをともなった奔流ほんりゅうとなって頭の記憶の倉庫の扉にぶち当たる。

 そして扉をその波で押し流すと、記憶を倉庫の中から軒並のきなあふれさせた。

 記憶は俺の全身に行きわたり、忘れていたと思っていた記憶は無理矢理眠らされていただけの様で、今それは解放され、俺の下へと帰還きかんした。

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