cuatro

 俺は何故、こんな思いをしなければならないのだろう。そう思考した時、何かの気配を感じて視線を右後方に向けようとするが、首から下が全て地面に埋まっていて、右後方の誰かの全貌ぜんぼうを確認する事が出来ない。

 しかし、黒色のスポーツサンダルを履いている事だけは、なんとか確認することが出来る。


 甲の部分とくるぶしの前、かかとの三点をベルクロでしっかりとホールドしていて、ソールの部分の少しいかついフォルムからすると、テバのハリケーンXLTだろう。

 彼女はそれを、赤色の靴下を身に着けて履いていた。


 俺は何故、そのスポーツサンダルを履いた人物を女性だと思ったのだろう。

 確かに足のサイズは小さいし、足も細そうではあるが、成人男性とは言わずとも中学生くらいの男の子という可能性だってあるのではないだろうか。

 濡れた髪から垂れる水が鬱陶うっとうしいし、口の中に砂でも入っているのかじゃりじゃりとした嫌な感触が俺を不快にさせ、思考の邪魔をする。


 どこか遠くの方から波の音がした。

 とても遠くの方から聞こえた、その波の音で今の状況のおかしさに気付いた。


 どうして俺の髪の毛はこんなに濡れていて、口の中に砂が入り込んでいるのだろうか。


 水の音はとても遠くの方からかすかに聞こえる程度であって、俺のいる所にまで水が来る事なんてありえない。

 潮の満ち引きがあったとしても、俺の髪がまだこんなに濡れている内に、微かに水の音が聞こえる程遠くにまで波が移動しているなんて事があるだろうか。いやあるはずがない。

 いくらなんでもそれは早すぎる。


 それじゃあ何故俺の髪の毛は濡れているのだろうか。


 右後方にいる誰かが俺に水をかけた可能性は?

 何の為に?

 もしかするとこれは拷問なのだろうか。俺は一体何をしでかしたのだろう。


 記憶を蘇らせる。いや、蘇らせようとしたのだが、何も思い出せない。

 俺は俺の名前を思い出せない。

 俺は誰だ。

 俺は何者なんだ。

 右後方にいる誰かは俺の事を知っているのではないだろうかとひらめいて、質問を投げかけた。

「おい、お前。俺の事知ってるか?」


 右後方の誰かは何も言わない。しかし、俺の声はしっかりと届いている様に思う。

 なぜなら、その誰かは俺の声を聞いた時から気配というものを顕著けんちょに発散させ始めた。その気配からは純粋な悪意の様なものを感じた。

 いや感じたというより、俺はその気配を知っていて、その気配の持ち主が純粋な悪意をないほうしていることを、身体が、心が、覚えている。

 そんな気がした。


 純粋な悪意ほどたちの悪いものはない。何故そう思うのかは分からない。

 抜け去った記憶のどこかで純粋な悪意と対峙たいじしたことがあったのだろうか。

 俺は今その純粋な悪意と対峙する事は出来ないだろう。

 首から上しか動かせないからという理由ではない。この状況が精神面に大きなダメージを与えていて、とてもじゃないが純粋な悪意と対峙した時に俺の心が平常に戻れる自信がないのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る