siete

 俺は自らの中で、自らを切り離して少しずつ死への道を歩んでいる。

 それは今になっても同じで、まだ頭の中の俺も俺も、死へ進んでいるのだ。

「おい。もう一人の俺。どうせ今頃溺れてるんだろ」

 返事はなかった。


 とうとう俺は一人になった。


 そう認識すると、地面に埋もれている訳ではなく恐怖と不安に埋もれているのではないかと錯覚する程に、恐怖と不安が俺の中に飛び込んできた。不安と恐怖は俺の心をその冷たく汚い手でぎゅっと握りしめる。

 一人が怖い。

 そうだ俺は一人が怖い。

 そう知ると後悔と抑鬱よくうつが激しい波となって、俺に襲い掛かってきた。

 それらも不安と恐怖は飲み込んで更に大きくなって、俺の心を握りつぶそうと躍起やっきになっている。


 いつまで俺はこうしているのだろう。

 何年、何十年の期間が過ぎた様に感じる。

 しかし、何故か俺は死なない。

 死へ一歩一歩近付いているのは確かに感じるのだが、死なない。

 アキレスと亀の話の様に、無限に終わる事がないかの様に、俺は死を迎える事は無いのだろう。


「アキレスと亀。そんな話があったわね」


 何年、何十年の期間振りに聞いた誰かの声。

 何年、何十年の期間振りに見る誰かの姿。

「あの話はね」彼女は、何年前、何十年前にもそうした様に、シニカルな表情で俺を見下ろしながら言った。

「無限回続ける事と無限の時間が続く事を混同しているだけよ。例えばアキレスが秒速一メートルで進んで、亀が秒速〇・一メートルで進むと仮定しましょう。亀は遅いから、ハンデをもらってスタート地点の一メートル先からスタートする。一秒後、アキレスはスタート地点から一メートルの所に到着して、亀はスタート地点から一・一メートルの所に到着する。一・一秒後、アキレスは一・一メートルの所で亀は一・一一メートルの所。一・一一秒後、アキレスは一・一一メートル、亀は一・一一一メートル。これは、この亀とアキレスの話の定義があっての問題だから、実際に無限の時間なんて存在しないし、この亀だって現実世界で二秒後なんかになったらもうアキレスに抜かされてる。理屈でものを語るから、そういう事になるのよ。第一、あなたとこの話が一緒だと思わないでくれる」


 シニカルな表情は鳴りを潜めて、感情というものを一切排した、目や鼻などが付いているから出来た凹凸おうとつと、その凹凸によって出来るコントラストだけが張り付いた、人間とは違う別の生物――もしくは生物ではない何か――の様な表情をした彼女の姿に、俺は何の言葉も出せない。


 そんな俺の様子をしっかりと記憶に留める様に、彼女はその長い上の睫毛が重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いた目力のある瞳で俺を射抜いた。

 そして言った。

「あなたが信じているかどうかは別としても、属しているという認識は持っているのね」彼女は俺ではなく俺の根源となる部分に直接話しかける。

「五億七千六百万年。一説には五十六億七千万年っていうのもあるけど、あなたは繰り返しなさい。釈迦牟尼仏しゃかむにぶつ入滅にゅうめつ後、弥勒菩薩みろくぼさつ下生げしょうするまでの期間」


 五億七千六百万年?

 五十六億七千万年?

 釈迦牟尼仏?

 弥勒菩薩?

 下生?


 仏教の話か?

 確かに俺の家は仏教だった気がする。

 そこまで宗教に関心のない俺には詳しい宗派だったりは分からないが、明らかに仏教というものが今ここで話されている内容のベースになっている様に思う。


 しかし、それが何だと言うんだ?


「属しているものに興味を持ちなさいって事。宗教に属しているのなら、少しは宗教に興味を。恋慕れんぼという本能に属するのなら、あの井上って子にも興味を持ってあげれば良かったのよ。あなたに足りないのは属するものへの興味の不足。あなた本当に気付いていないのね」


 そう彼女は言った。

 俺は彼女の言う意味は分かるが、理解し享受きょうじゅする事が出来るかと問われたら、ノーと言うだろう。

「今回も駄目か」

 彼女の言葉の多くは真意が読めない。もう彼女には興味も湧かないので気にしないでおこう。

 あと、これはどうでもいい事かもしれないが、地面に埋まって首だけ出しているこの状態は苦行の様に見えなくはないだろうか?


 俺の視界の右端に見えるのは、昨今若者の間でブームになっているスポーツサンダル。

 全体が黒色で、甲の部分とくるぶしの前、かかとの三点をベルクロでしっかりとホールドしていて、ソールの部分の少しいかついフォルムからすると、テバのハリケーンXLTだろう。彼女はそのスポーツサンダルに赤色の靴下を合わせて履いていた。

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