tři

『別に読唇術どくしんじゅつを心得ている訳ではないが、何と言っているのかなぜだか分かる気がする。きっと彼女はこう言っているはずだ。今の生活に満足している?』

 僕は二話目を書き終えた。

 僕の脳と手は『彼女を待ちながら』を書きたくて仕方ないとでもいう様に、途切れる事なく物語をつむぎ出していき、約一〇〇〇〇字の話をすんなりと書き上げた。

 推敲すいこうは必要になるだろうが、ひとまず『彼女を待ちながら』の第二話を書き終えた事に、僕は第一話を書き上げた時以上の充足感を得ていた。

 一気に書き上げたので肩が少し張っている様な気がして、一つ伸びをする。

 その時に視界に入った時計の時刻を確認して、僕はその事実に驚いた。時刻はだいたい昼の十二時半。

 プロットなど作っていないのに約二時間強で一話分を書き上げていた事にも当然驚いたが、それより二時間強も娘を放置していた事への驚きの方が大きかった。

 娘は僕の後ろで一人、絵本を眺めていて見た目変わった様子はない。


 まさかそんなに時間が経っていたなんてと思うと同時に、娘のおむつを交換しなければいけないし、娘にお昼ご飯を食べさせないといけない。それと娘に水分補給もさせなければと思い、椅子から立ち上がろうとする。

 しかし僕の中にある彼女の核の仕業なのか、ノートパソコンのキーボードを叩いて画面に文字の羅列を作り出す事で、彼女をもっと感じたいと思っている自分がいた。

 僕はやはりこの衝動に抗えない。僕は娘を放置して、再びノートパソコンへと目を向ける。


 僕の中にある時間と言うものの感覚や概念と、社会的な体裁ていさいや常識は、ポロロッカだけではなく世界で起きる全ての海嘯かいしょうを掛け合わせた様に、全て逆流する波に押し流され攫われていく。

 今の僕には、ノートパソコンの画面に表示されるその文字の羅列こそが、世界の全てであり真理であるのだ。

 僕はまだ誰も見た事のない世界をこの両手で作り出し、自由にもてあそび、そして破壊と構築を幾度となく繰り返しながら、世界と言う中にある光と闇の二面性や、普段僕たちが知る事のかなわないことわり深淵しんえんと言ったものを俯瞰ふかん的に感じて、それを装飾し誇張こちょうして一つの世界を本物にしていく。

 再び僕の手は僕の意志とは無関係に、それでいて僕の無意識の内に意識している無意識の範疇はんちゅう悠々ゆうゆうと十本の指を駆使する事で、文章という世界の色彩を鮮明にしていく。

 僕は文章を用いているが、今この瞬間においては作家と言うよりは画家と言った方が適切なのではないだろうかと考えていた。


 その間にも僕は『彼女を待ちながら』の第三話の最後の一文までの道程どうていを、キーボードを叩くたんたんと軽快な音を立てて、淡々と啓開けいかいしていく。

 僕は創造主であり、そして神である事を強く、強く、実感しながら、第三話の最初の一文をもう一度見返した。

『誰かに愛されるという事は、こんなにも素晴らしい事だったのか』

 その様な書き出しで第三話は静かに始まっていた。


『俺の視界の右端に見えるのは、昨今若者の間でブームになっているスポーツサンダル。全体が黒色で、甲の部分とくるぶしの前、かかとの三点をベルクロでしっかりとホールドしていて、ソールの部分の少しいかついフォルムからすると、テバのハリケーンXLTだろう。彼女はそのスポーツサンダルに赤色の靴下を合わせて履いていた』

 第四話はその文で始まり、その文で終わっていた。

 終わっていたと他人事の様に言っても、この文は僕自身が書いたものだ。しかし、僕はこれを書いている途中で一度たりとも、この文を書いたという意識が無いので、やはりこれを表現しようとすると、他人事の様に言い表すしかない。

 それに僕は今、僕自身ですらも俯瞰的に見えている気がしてならない。

 言っている意味が伝わるのかどうかは分からないが、ファーストパーソン・シューターのそれとは違いサードパーソン・シューターにおいての視点で自らを認識している様な妙な違和感が胸の奥に渦巻いていて、それは彼女の核と比例する様に大きくなり僕の身体を内から圧迫していて、先程まで感じていた高揚感や多幸感とは異なる、不安や抑鬱、寂寥せきりょう、どこから生じたものかすら分からない恐怖、そう言ったものが体内に寄生きせいして身体の隅々まで蹂躙じゅうりんし尽くそうと、まさに今侵攻を始めている。


 第四話を書き始めるまでの間、僕は幻覚剤で言うところのグッドトリップの状態とほぼ同等であった、だが第四話を書いている最中の僕は完全にバッドトリップの状態がやってきている。

 しかし僕はもう一度グッドを求めてしまい、再びノートパソコンに向かう。

 今はとても気分が悪いし、後ろで何か騒ぎ立てている娘が五月蠅うるさい。僕は娘に構わず、ただ指先に力を入れる。

 今の僕には、指一本に力を入れる事でさえ、一人でピラミッドをきずき上げろと言われている様な絶望感を感じる事にすら思えてしまう。

 いや、もうそんな事すら思うのもわずらわしい。

 僕は指をM、E、N、Iと一つ一つ針に糸を通す時の様に慎重に押していく。キーボードの弱々しい反発ですら、今の僕には大きな壁となって眼前にそびえ立つ。

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