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 机の上のノートパソコンの画面には、もう少しで書き終わる『彼女を待ちながら』の二話目がその暗い内容とは違い、朝日のきらきらとした光を受けて明るく映し出されている。

 一話目を書き終えてから、二日しかっていない――昨日が仕事だった事を考えると実質一日分より少ない作業量だ――が、書き残しているのは最後の繰り返した世界での、男と彼女のやりとりの部分のみとなっている。


「ろうちゃん。今日、用事ある?」

妻が言った。

「いや、特にないけど」僕はノートパソコンから目を離して、妻の顔を見ながら答える。

「どうかした?」

 妻はちょっと申し訳なさそうな顔をして、携帯の画面を僕の方に向ける。そこには職場の同期からのメッセージが表示されていた。

 夜勤のある人間なら分かるかもしれないが、夜勤明けにそのまま飲みに行く事が多々ある。

今日妻は休みなのだが、久し振りに同期が全員集まれるから来ないかというむねが書かれていた。


「なるほど、飲み会ね」僕はノートパソコンに目を向けて言う。

「いいよ。行っておいでよ。たまには息抜きだって必要だろうしね」

「怒ってない?」

 妻は様子をうかがう様に、僕の顔を覗き込んでくる。

 確かにこのタイミングでノートパソコンに目を向けたら、怒っている様に思われても仕方がない。でも、実際に僕は怒っていなかったので、妻をもう一度見て言う。

「行っておいで。大丈夫。本当に怒ってないから」

 笑顔を作るのは苦手だが、こんな時に笑顔を作らないでいつ作るんだ。

 僕はにこりと笑った、つもりだ。

 そんな僕を見て妻は言った。

「相変わらず、笑顔が下手ね」

「昔からよく言われたけど、こればっかりは仕方ないだろ」

 そう言って気恥きはずかしくなったので、僕は再びノートパソコンに目を向け執筆を続ける。


 娘が「ママ、ママ」と繰り返し妻を呼んでいるのが可愛らしいのだが、僕はその娘の姿を見ていても、やはり上手に笑えないのが自分自身で分かってしまう。それくらい僕は昔から笑うという行為が苦手だ。

それに引き替え、妻はよく笑うし笑顔はしっかりと笑顔として成り立っている。こんな事が本当に関係しているのかどうかは分からないが、人間は自分に無いものを求めるという性質があると聞いた事がある。

僕はこの笑顔と言う花の蜜を求めて飛ぶ虫の様に、妻から笑顔という良い部分を奪い去り自分のものにしたいのではないだろうかとたまに考える事がある。

 笑顔なんて奪えるものではないはずなのに、僕は何年もその笑顔を見る度にそんな妄想をし続けている。


 頭では別の事を考えているのに、何故か執筆を進める手は止まる事なくキーボードを叩き続けている。

別の事に気を取られていてなかなかキーボードを叩く指が動かない、と言うのはよくある事だが、何故か今は自然にと言うより自分の意志とは無関係に『彼女を待ちながら』を書かなければならないという、強迫観念にも似た気持ちが迫り上がってきていた。

それは社会的な体裁ていさいとしての家庭や育児、仕事に留まらず、人間の本能としての食事や睡眠、排泄といった常識的に考えて優先度の高いものを既成概念にとらわれずに、それどころか真逆の概念を正当化させようとする暴力的な思想を持ち合わせていて、まるでアマゾン川を勢いよく逆流していくポロロッカと比較してもおかしくないものの様に思えた。

 つまり僕は今、完全にその気持ちから逆らえない状態にあるのだ。構想上では七話にまとめられた、この一つの物語に。


「おーい、ろうちゃん。聞いてる?」

 妻の声を聞いて、僕は我に返った。

「どうしたの?」

 そう尋ねながら妻を見ると、さっきから何回も声をかけているのにどうして返事をしないのと僕の顔に、顔を近付けて妻が言った。

僕はすっかり思考の迷路に迷い込んでしまい、現代社会の中で迷子になっていたのだろう。それは少し大袈裟な表現だったかもしれないが、つまりは心というもの、意識というものが、どこか別の所であり別の次元へと放浪ほうろうしていたのだ。


ごめんごめんと言う僕の謝罪を肯定も否定もしないで、妻はとりあえず話を続けた。

「どこまで聞いてたか知らないけど、みっちゃんのお昼ご飯は冷蔵庫にあるから、鍋のまま温めて食べさせてあげてね。あんかけになってて冷めにくいかもしれないから、しっかり冷ましてね。分かった?」

 了解と僕は言ったものの、先程上の空だった僕の態度の所為せいなのか、妻は心配した顔をしている。

大丈夫大丈夫と付け加えるがそれが逆に不安をあおったのか、本当に大丈夫かと尋ねてきた。

僕だって何度も娘のご飯を作っているし、何度もご飯をあげているのだから、何がそんなに心配なのかが理解出来ない。

そんな不満の感情が顔に出てしまっていたのかどうかは分からないが、妻は僕を見て首を横に振ってから言った。

「みっちゃんのご飯の事じゃなくて、ろうちゃんの方が大丈夫? なんだか疲れた顔してるけど」

 そんなに疲れている実感はないのになと思いながら、窓ガラスに薄く反射して映る顔を見る。


そこに映っていたのは、生気が抜けてどこに焦点が合っているのか分からない程に眼窩がんかが落ちくぼんでいる様に見え、如何いかにも不健康ですと主張するくまが目の下にびっしりと蔓延はびこっている顔であった。


その顔は、誰か分からない、僕自身が知らない僕だった。

 僕は軽く首を振ってから立ち上がり、妻の横を通って脱衣所にある洗面台の前へ向かう。

蛇口のレバーを上げて――今時、捻るタイプの蛇口はあまり見ない――水を勢いよく出すとそれを手ですくう。

冬のひんやりと言うよりは、肌にある細かな穴という穴に針が通る様なするどい冷たさが突き刺さる。

その水で顔を洗うと皮膚がきゅっと縮み上がり、顔全体の神経に緊張感を与えた。

僕は目の前の鏡を見る。突き刺さる様な冷たさの所為か、若干青白い肌と紫に近い唇が映し出されている。

先程窓ガラスに映った僕自身――あれは本当に僕自身であったのだろうか――に比べると、幾分ましになった様に思うのは、鏡に映るその姿を僕自身が僕自身だとちゃんと認識出来るものであったからだろう。


 妻は、何も言わずにリビングを後にして洗面台で顔を洗った後に鏡で自分の顔を確認する僕の後ろに付いてきて、不安げな表情を鏡の向こうに作り出すと言った。

「今日、やっぱり行くの止めといた方がいい?」

「大丈夫だから行っといでよ」

 直接妻の顔を見ると余計な事を言ってしまいそうな気がしたので、間に鏡を挟む事で僕はその余計な言葉というやつを言わずに済んだ。

鏡に映る世界はテレビに映る戦争やテロの映像と同様に、事実であっても虚構きょこうめいて見えるから、僕は鏡越しに会話が出来る洗面台前に移動した自分自身を褒めたくなった。

 妻は僕が言わなかった言葉の存在に気付いているのか気付いていないのか分からないが、それじゃあ行くねと小さな声で言うと僕と目も合わさずにリビングへと戻った。

 そんな妻を呼ぶ、娘のママ、ママと言う声が、今は何故か少し騒がしく、やたらと耳に残った。


 僕はもう一度手に水を掬うと、鏡にそれをかけてみた。すると水の多くは勢いよく洗面台に落ちていき、どべしゃっぷと普段聞き慣れない音を立てると周囲に分裂した小さなまとまりの幾つかに分かれ、その分かれた幾つかのまとまりの中の更に幾つかが壁や床でぴっちゃぷと惨めな音を立てる。

一方鏡に目をやると、そこにもまだ少しの水が付着している。

鏡は先程までとは違う様相ようそうで、こちらの世界を映していた。

鏡に映る世界は水と鏡に差し込む光をお互いが反射しあって、そこにある像をゆがめていた。

僕はそこに現れたいびつな世界を見ながら思った。


 この世界に直接作用する様な大きな衝撃を与えなくても、表面に少しの異物を加える細やかな変化だけで世界はいちじるしく体系たいけいを変化させるのだなと、壮大な考えに発展させていると、鏡に付いた水の中の世界に彼女が立っていた。

 僕はびちゃびちゃに濡れた顔をゆっくりと後ろに向けるが、そこには誰もいない。見間違みまちがいだ。

 彼女は僕自身が小説の中に作り出したキャラクターであって、実在している訳などないと自らに言い聞かせる。

小説の事について脳の大半を使い過ぎているのかも知れない。

僕は濡れた顔を洗面台の下の取っ手にぶら下げた緑色のストライプが入ったフェイスタオルで拭いて、そのタオルで鏡と壁や床に飛び散った水もさっと拭くと、そのタオルを直接洗濯機の中に放り込んだ。

全ての水を拭き取った事で、鏡に映っていた世界と現実の僕が住む世界の境界は消失した。

それで何故か安心感を覚えた僕は、鏡に向かって苦手な笑顔を作ってみせたが、やはりそこに映るのは下手くそな笑顔で、再度僕は、妻の笑顔を奪う妄想をしながら、平常通りの表情で妻と娘がいるリビングへと足を向けた。


 妻は娘を抱っこして笑い、娘はそれに喜んで、ぎゃはぎゃはと大袈裟な笑い声を上げている。

僕はその幸せな家庭の円の中で一人だけ歪に笑っているので、どうにか家族に溶け込もうとしている道化どうけの様な気がしてきたが、どうにかその負の感情を飲み下して、家族と言う円を綺麗な形でたもとうと努力する。

 妻が抱っこしていた娘を床に降ろしたので、僕は娘に言った。

「みっちゃん。ママ、今日はお友達とご飯行くから、パパと二人ね。良い子でいれるひとー?」

「はーい」

 そう言われた娘はどれだけ僕が言った事を理解しているのかは分からないが、右手を挙げて返事をした。

「賢いねー、みっちゃん」

 妻が娘の頭を撫でるので、僕も真似して娘の頭を撫でる。娘は無邪気に足をばたばたとさせて喜びを表現していて、小さな内から上手に笑うものだなと妙に感心していた。

僕が娘を見ているから大丈夫だと思ったのか妻は脱衣所の方に移動した。きっと化粧をしているのだろう。


僕はその間娘と共にたわむれていたのだが、どうしてもテーブルの上に置いたスクリーンセーバーが起動したノートパソコンの画面にちらちらと視線をやってしまう。

僕はどうしたのだろうか。久し振りに小説を書き始めてから――小説全般と言うよりは『彼女を待ちながら』に限ってではあるが、それを書き始めた事により――というもの、自分でも何が起こっているのか詳しく分析出来ている訳ではないけれど、少しずつ僕という存在の表層ひょうそうぎ取られ、内側では彼女の核が成長を続ける事で、僕という存在がどんどんと風化していき、このままでは僕と言う存在は希薄になってしまい、その先には無が訪れるのだろうと言う妙に確信めいたものを心にそっととどめている。


 娘が絵本を持って、胡座あぐらをかいた僕の足の上に座る。それは普段から娘がよくする行動で、絵本を読んで欲しい時にするものであるのを僕は知っている。

それを知っているのに、僕は何故か娘に絵本を読む気がしない。それよりも僕は今小説を、あの彼女の物語を、七つに分かれた『彼女を待ちながら』と言う一つの作品を完成させたいと思う気持ちが飛躍的に、大きく膨張を続けていく。


「思ってたより時間ぎりぎりになっちゃったから、出るね」妻は脱衣所から戻って来ながら僕にそう言うと、娘の前にしゃがみこんで娘に言う。

「みっちゃん、ぎゅー」

 娘は妻に抱き着く。その小さな身体で目一杯に腕を伸ばして妻の身体にそれを回す姿を僕は見るともなしに見ていた。

妻が身体を離しても、娘は存外ぞんがい愚図ぐずる事もなく機嫌良さそうにして、ばいばいと手を振る妻に手を振り替えしている。

僕も釣られる様に妻に手を振って玄関口に向かう姿をぼんやりと眺めていた。

 玄関が控えめに閉まる、くわっちゃんという音がした後、その控えめな音の残響をき消す様に鍵を掛ける、じゃがぐと無粋ぶすいな音が、空気だけでなく振動と共に鍵から玄関扉全体を伝って壁と床と天井を経由しリビングまで途切れる事なく駆け抜けてきた事で、今この場所が社会から隔絶かくぜつされた場所にある事実を僕に強く認識させた。

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