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『ムラサキカガミって知ってる? 誰が言ったのかは思い出せないが、確かに誰かがその言葉を言ったのは覚えている』
「ムラサキカガミって懐かしいな」
僕は以前よりがらんとしたリビングで、執筆を続けながら一人ごちた。
床にはコレクションの靴を資料として置いているが、もうこの家には僕しかいないので、いちいち靴に付着した砂を払ったりはしていない。それを気にする人間が誰もいないのだから、わざわざ綺麗にする必要もないだろう。
僕はパソコンの画面から
オールブラックのインスタポンプフューリーは、そんなに頻繁に履く事もないので汚れは少なくて、まだまだ新品に近い
ハイテクスニーカーブームを牽引したと言っても過言ではない、この靴は何よりまずアッパーの上部、通常のスニーカーで言えばタンと呼ばれる部分に備え付けられたボタンに目がいく。
これはザ・ポンプ・テクノロジーと言うもので、この靴の最たる特徴だ。
靴を履いてからこのボタンを押すとアッパー内部、足の甲の辺りに空気が入り、靴紐を使う必要無しに靴と足とを密着させる事が出来る。
そして前後に分かれた厚みのあるソール部分は、それぞれが独立する事でその厚みを感じさせる事なく利用者の足に
そのソールの後方部分にはヘキサライトと呼ばれるハニカム構造を
デザイン性も極めて高いこの靴はアッパー部分のギザギザとしたデザインと、そのアッパー部分に穴が空いていたりと僕が知る限り言葉では表現し尽くせない程の魅力を多く兼ね揃えている。
しかし奇抜すぎるデザインとカラーリングが多いので、どんな服装にも合わせやすい靴とは言い
それでもオールブラックやオールホワイトといった色合いであれば比較的合わせやすいので、僕はオールブラックのインスタポンプフューリーを所持している。
そして妻は僕のそれと
僕は感傷的な気分に浸っているのだろうか?
実際の所、自分自身の感情が分からない。分からないと言うよりは、分からない振りをして心の
家庭と家族が崩壊し決壊した事で、その中にあった僕自身にも亀裂が入ってしまい、その亀裂はどんどんと進み、進み、進み、そのまま進んでいって僕は真っ二つになってしまったのだ。
真っ二つに割れた僕の中からは成長を続けていた彼女の核が剥き出しになって、それは小さく振動したかと思うと空気の
そして彼女はこの世界、この空間と
手に持ったオールブラックのインスタポンプフューリーを一旦床に置いて、ノートパソコンを見る。
そこには書き出しの文章しか書かれていない『彼女を待ちながら』の第六話が、怪しい光を
彼女の気配は濃厚になってきてこの空間を飛び
僕は彼女をこの文章という枠の外へ、
しなければならない?
それは誰の為に?
しなければならない?
何の為に?
僕はその答えと自分の人生というものの答えを見付ける為に『彼女を待ちながら』を書き続けなければならないのだろう。
僕の左手を窓から差し込む
それは穏やかさを
僕はそんな太陽を不快に思う。
すると僕の両手は、僕とはまた違う思考回路で活動しながらも同じ結論に至ったのか、陽光をあからさまに皮肉ってみせようと動き出して『彼女を待ちながら』の書き出しに続く文章を構成していく。
『その日雨は降っていなかったものの、空にはどんよりと
なるほど。太陽の存在を作品から抹消してやった訳だ。そうやって陽光を
僕は僕の両手が構築したこの文章を、
知らない間に笑顔が僕の顔に張り付いていたが、その笑顔はいつもより上手に作れている様な気がした。しかしそれを確認した所で、いったい何になるというのだろうか。
その時彼女の核が大きく動いた。
僕の手は先程陽光を罵った時以上に素早く文章を構築して、彼女を上から下へと形作っていく。
まず最初に髪の毛を一本一本編み上げていき、次にその小さな頭を粘土の様に
鎖骨はゆっくりと丁寧に、先程とは違い慎重に、その突起物に皮と筋肉を纏わせる。
その下にある胸と
その前後の凹凸の少なさとは異なり、左右に関しては腰の辺りで大きく
その様な臀部から伸びる細すぎず太すぎないどっちつかずとも言える脚は、上から下まで傷一つ無く透明感のある綺麗な白色の光を
僕はその
どちらかと言うと若干上がり気味ではあるがほぼ横に一直線で、表情によってはきつそうにも優しそうにも見受けられる、そんな変化を幾度となく繰り返してきたのであろう、少しだけ太めの眉。
長い上の睫毛は重力に逆らうように綺麗な放物線を天に向けて、二重瞼でぱっちり開いているからなのか目力がある瞳。
そこまで高い訳ではないが、決して醜いわけではなくそれなりに鼻筋が通っているのが分かる、少し低めではあるものの形が整っている上品な鼻。
真っ赤ではあるが口紅で
丸顔でどちらかというと可愛らしく見えそうではあるが、それぞれの顔にあるパーツの
それだけ見た目においては普通の人間と大差がないのに――大差がないと言っても、一般的には美しい女性の部類に入るのだろうが――、彼女には人間として完全に
それは希薄な存在感。
彼女の事をいくら文章の端々に潜ませても、明確に文章として書き込もうとも、それは変わらなかった。
何かが足りていないのだ。
彼女の要素の何かが。
僕は色々と考えを巡らせながら、僕の両手が
彼女の核はどくどくと言うよりはじゅくじゅくと、何か不純物が入り込んだり血栓の
しかし、僕はそれを嬉しく思う。
彼女ともう少しで一緒になれるのだと思うと僕は興奮した。
ボクハコウフンシタ。
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