fünf


 私の前に彼は立っていた。彼は私を見て目を輝かせたように思えた。

「お前、一人なのか?」

 そう問われて周囲を見回してみたが、彼女はどこにもおらず、確かに私は一人だった。

 返事をする暇も与えず、彼は私に手を伸ばし背中をそっと撫でた。

 始めて人に背中を触られたと意識するよりも、背中を撫でられた刹那せつなに妙な安心感を覚える方が早かった。


 私の心に小波さざなみが立った。


 つい先程頭に浮かんだ映像――だった様に思う――を再度思い出した。

 愛を分かち合う、あの光景は今のこの状況に似ている様に思われた。

 お互いが身を寄り添い、仲睦まじく笑いあう光景。私の世界にはありえなかった光景。

 それが今突如として出現しつつあるのではないかと、それが心の小波の示すところなのではないかと、そう思うと私は彼の存在をすんなりと受け入れられた。

 彼に背中を撫でられようが首を撫でられようが、すべてを心地良く感じる自分がいる事に気付いて我ながら驚いた。

 一度でもこれを悪くないと思ってしまうと、塞き止められていた水を放流する勢いで心の中にあった自らの固定概念がいねんが流出し、新たな概念がそこに溜まっていくのを感じた。


 本来愛玩あいがん用として飼い慣らされてきた訳ではない我々が、愛玩用として近年人間から扱いを受けている事に戸惑いを持つものが今でも少なからずいるものの、その数は極めて少なく、そして私の様にうとまれる存在として社会に位置し続ける事などまれを通り越してほぼ皆無であるのは間違いない事であった。

 しかし、その希少種であった私も今や人間に心動かされている。


 それも波及的にではなく、押し寄せる津波の様にめまぐるしいスピードによって。


 私達は九つの魂を持つと言われている――そして実際にそれは正しい――が故に、人生を繰り返す回数が増えれば増える程、環境の変化や考え方の変化に柔軟に対応出来る個体が増える。

 その方が生き延びる可能性が格段に高くなるからだ。

 しかしながら私の様に漫然まんぜんと生きておきながら何故か幾度も人生を経験した個体もいる。

 理由は分からないが何故か、社会を、世界を生き延びる事が出来ているのだ。


 私は彼から目を離して考え込んでいたのだが、何故平然とこの世界で生きていけているのかと考えるに至ると頭を激しい痛みが襲った。

 理由は分からない。私が何故生き伸びているのかについて考えるのは、良くない事の様な気がする。

 虫の知らせとでも言うのだろうか、実際頭が痛んで考えるという行為自体がおろそかになりつつある。もう立っていられない。


 目を閉じた。

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