vier

「今の生活に満足している?」


 次に会った時、彼女はそう私に問いかけた。

 以前と同様に存在感が希薄きはくで、私は彼女の存在を覚えているつもりでいたのだが、実際目の前にしてみると私が記憶しているつもりだった彼女の雰囲気とは少し違う様に思えた。

 しかしその存在のはかなさと言うべきか危うさと言うべきか迷う所ではあるが、その感覚を私に抱かせるという事実が、尚の事彼女で間違いないと確信させる要素になっていた。


 浮世離れした彼女の、現実を見据みすえさせる様な質問はなんとも的外れな内容に思えたが、何故かそこには有無を言わさぬ圧力を感じさせる迫力があって、質問に対して真摯な回答を求められている、そんな風に感じた。


 今の生活に私は満足しているのだろうか?


 他人からうとまれ、時には存在すら無視されて生きていく事。幾度の人生を過ごしても、私はそれを繰り返すばかりであった。

 しかし周囲の人間が私に興味が無かったりする様に、私自身も周囲の人間に対して興味があった訳ではないので、それに関しては不満がある訳ではない。と今までは思っていたのだが、彼女と会話をした事で気付いてしまった。


 私は本当は寂しかったのだ。


 周りのみんなにも相手にされず、周囲の人間にも相手にされず、一人の人生を続ける内に自分の本当の気持ちにふたをして生きていた事に気付いてしまったのだ。

 それを一度理解してしまうと、私という存在はがらんどうで、ただ長い間意味もなく時間だけを浪費して生きていたという事実は、自分に対する失望や後悔、抑鬱となって私をさいなんだ。


 見えていた世界がぐるぐると回りだすのを感じた。


 世界は回転を続けいびつな形に変容へんようを続ける。

 ただ一点だけ正常な形を残して。

 その正常な形を残している先に立つのは、目立つ黄色の靴サッカニーのジャズロウプロを履いた彼女。

 彼女はシニカルな表情でこちらを見据えている。

 その表情からは、以前私に見せた少女の様に屈託のない純粋さは見受けられない。

 しかしと言うより、それだからこそと言った方がいいのかもしれないが、彼女がそのシニカルな表情で歪な世界に取り囲まれた中にある正常さを唯一保った場所に佇む姿は、妖艶さが強調されてさなが陽炎ようえんのようであり、自分自身の甘美を理解して全身に完備かんびしたその姿は、今までに見たなによりも耽美で私は嘆美たんびの言葉がいくつも頭を過った。

 頭をよぎる言葉の数々は頭の中をぐるぐると回っていて、今の彼女に丁度良い言葉をその中から見付け出そうとした。

 だがその中にあるどの言葉も、彼女を表現するには劣っている様に思えた。


 結局私は何も言わず、ただただ彼女を静観せいかんしていた。

 その間にも世界は歪さを増していき、それに比例する様に彼女はより耽美をきわめた。

 私はもう完全に彼女に陶酔とうすいしてしまっていた。

 深く陶酔するあまり時間の感覚が曖昧になって、彼女が質問を口にしてからどれ程の時間が経過したのか分からなくなっていた。

 その間彼女はじっと私の返事を待っていた。


 何と答えるべきだろう。

 考えながら私の頭にぼんやりとしたものではあるが、何か映像が浮かぶのを感じた。

 集中してその映像をより具体的なものとして頭に思い浮かべる。

 鮮明になった映像は私が経験した事のない世界のものだった。

 その世界で私は一人の人間と愛を分かち合っていた。

 愛と言う感情。今だ知らないその感情をお互いに与えあい、受け取りあうその姿は眩しく輝いていて、とても温かく、素晴らしいものに見受けられた。

 そんなのは想像だと言われてしまうかもしれないが、それでも今見た愛に溢れた映像――愛が何たるかは知らないが――は、私を魅了してとりこにするには十分すぎるものであった。


 私はこの愛が溢れる世界を生きたい。


 その衝撃が私を貫いた時、返事は決まった。

 彼女は変わらずシニカルな表情で、歪な世界に取り囲まれた中にある正常さを唯一保った場所に佇んでいて、その歪さは過剰な程に世界を侵食しており、もうこの世界の原型を留めていない。

 私がこの世界に留まる事を、世界が、彼女が良しとしていないかの様に思えた。

 だからこそ私は顔をしっかりと上げ、しっかりとした意思を持って彼女を見据えて、答えた。


「今の生活に満足などしておりません。私はもっと充実した、愛に溢れた生活を送ってみたいのです」


 言霊ことだまというものは存在しているのかもしれない。

 それを言っただけで私の気持ちは少しだけ晴れて、心持ちが軽くなった。

 いや、それだけじゃない事に私は気付いた。

 彼女を唯一の正常として形成されていた歪な世界が一瞬で元の世界に戻っており、今は世界の唯一正常な部分が私に移動した様に思えた。

 何故かと問われたら、答えはすぐに捻り出せる。

「それじゃあこちらにいらっしゃい」

 彼女がまがう事なき歪な世界の特異点であるからだ。

 私はそれを理解して何故か少し安心した。

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