drei

 本当に自分という存在の浅はかさが身に染みる。

 幾度人生をやり直したところで私は賢くなる事も思慮しりょ深くなる事もせず、ただ漫然まんぜんと生きていく事を繰り返すのだろうか。

 今が幾度目かの人生かも私は把握していないが、周りのみんなは今が幾度目の人生かをしっかり把握しているし、最期までにこういう風になるのだと確固たる未来を強く持っている。

 その中において私は今の生活をだらりだらりと過ごしているせいか浮いた存在であり、全ての人からうとまれているのを手に取るように感じていた。

 そんな折に出会った彼女は、何故か私を疎ましく思う事もなく話しかけてくれていて、それ故に私は少しでも彼女に嫌われたくないと思った。彼女の持ち得た特殊な存在感の為せる所業かもしれない。


 しばらくの沈黙の後に彼女は言った。

「人と喋るのに慣れてないのね」

 私のコミュニケーション能力の低さを一瞬で的確に読み取ったようで、彼女はそう言って私を見ている。

 私は何と答えるべきか逡巡しゅんじゅんした。

 彼女は全てを見通している様に、達観たっかんしている様に私を見据えていた。

 そんな彼女に取り繕った事を言ったところで仕方がないのかもしれないと私は思い、素直に認める事にした。

「仰る通りです。人とまともに会話すら出来ないのです。私はそんな程度なのです」


 彼女が私の言葉を聞いてどう思ったのかは想像すら出来ないが、急に無表情になってから私の全身を舐めるようにじっくりと見ているのは見て取れる。


 その時間は無限に感じられる程長いものであった。


 時間が停止しているのだろうかと思ったのは、周囲の音が完全に聞こえなくなるという不可思議な現象が起こったからで、世界が静止しているのだろうかと思ったのは、彼女が私を一通り眺めた後に微動だにしなくなったからである。

 そして私自身そんな彼女から目を離す事が出来なくなり身動きが取れなくなっていた。

 この場は、彼女を中心にした一枚の絵画に纏められてしまったのではないかと錯覚してしまう程、妖艶ようえんに彼女をいろどらせ、甘美かんびに彼女を縁取り、そこには確かに耽美たんびがあった。

 無限に続くのではないかと思ったこの時間も実際は数秒の出来事で、彼女がまばたきをすると完成されたこの世界の歯車は再び音を立てて動き始め、繁華街の雑踏がにわかに私の耳に蘇った。


 もう少し今の時間を堪能していたかった。


 そんな気でいたのだが、現実というのはそんなに甘いものではなくて、時間というのは本来容赦なく駆け抜けていってしまうものなのである。それも駿馬しゅんめの様な速度で猛然もうぜんと。

 幾度の人生を過ごしていようと、そこを捻じ曲げる事が出来ない事は理解している。

 世のことわりというのは絶対であり、それは致し方ないものであるのだから。

 私が物思いに耽っている間にも時間は刻一刻と流れていく。時間は有限ゆうげんであるからこそ幽玄ゆうげんなのだと理解しながらも、先程感じた夢幻むげんである無限むげんの世界に憧憬しょうけいの念を抱いてしまうのは、彼女が持ち得た耽美に魅了されてしまったせいだろう。


 そうして彼女に見入っていると、一陣の風が吹いた。

 その風は彼女の肩程まで伸びたツヤのある黒髪を持ち去るかの如き勢いで吹き上げて彼女の顔を一瞬見えなくした。

 不意に私の後ろで大きな音を立てて扉が閉まったので、驚いて飛び跳ねた。比喩ではなく実際にである。

 半開きだった扉が先程の風にあおられて閉まったのだろう。

 彼女はそんな私の姿を見て、再び少女の様に屈託のない顔をして笑いながら言った。

「何をびっくりしてるのよ」

「申し訳ありません。まさか突然、こんなに大きな音がするとは思っていなかったので、いやはやお恥ずかしい限りです」

 私は言いながら、羞恥心を抱いていた。

 彼女が今の音に対して全く驚いていなかっただけに、私だけが目立ってしまった様に感じたのだ。


 彼女はそんな様子に気付いているのかいないのか、閉まった扉に近づいて真剣な表情で扉を眺めている。

 そして実際に扉に触れて開けたり閉めたりを繰り返している姿は妙に滑稽であった、私はそんな彼女の姿を見てこっそりと笑う。

 私が感じていた羞恥心は彼女の意図せぬ行動で瞬く間に消え去った。

 彼女は私の顔をうかがうと頬を少し膨らませて、不満を演出してみせながらも言った。

「私の姿を見て笑うのはどうかと思うけど、羞恥心は消えたようで良かったわ」

 私は再び驚いて飛び跳ねた。

 しかし今回は心の方であって、実際に身体が飛び跳ねた訳ではない。彼女は私の全てをお見通しなのだろうかと疑問が湧く。

 不思議な雰囲気を身に纏った彼女であれば、それも可能性として存分にあり得るような気がしてしまう。


 彼女はもしかすると……


 突然彼女が急に私との距離を詰めたかと思うと、私の頭の上に小さな手を置いた。

 近づいた勢いで揺らいだ周囲の空気が渦を巻いて、私の鼻腔びこうに彼女の匂いが届く。

 鼻腔を通り抜けると私の身体の中で方々に拡散し一層彼女の匂いは強まった様に感じた。

 今までに嗅いだ事がないような匂いではあったが心地が良くなる、心が安らぐものであった。

 その匂いでほうけてしまった私に、彼女は言った。


「君の事は、なんでもお見通し。私がもしかすると何だって言いたいの?」


 この時に私は強く思った。

 彼女は天使や神の類なのではないだろうかと。

 そんな考えもお見通しなのか、彼女は何も言わずシニカルな表情をしてみせた。


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